落とし穴
「俺が一人になる? それはどういうことです」
真備には王維の言葉が理解出来なかった。真成については成り行きが分からないにしても、自分には仲麻呂がいる。一人になることなどない。皆で共に日本に帰るのだ。そう考えて、真備は拳を固く握った。
それなのになぜ一人になる必要がある。一人にならないために今まで必死にもがいてきたのだ。やっとここまで辿り着いたのだ。
しかし王維はその疑問に答えない。「それより先に、晁衡に何か伝えることがあるんじゃないの?」そういって真備を静かに見つめる。
「それは······」
言葉に詰まった。どうやら王維は自ら語る気がないらしい。友の現状は友である貴方が責任をもって伝えよ。まるでそう説かれているかのようだった。しかし真備はなかなか口を開けなかった。それを言えば、目の前の優しい友を傷つけることが痛いほどに分かっていたから。
それが己の弱さなのかと唇を噛む。しかしそんなことをしてもなんともならなかった。ただただ辺りを包んだのは静寂だけだった。
気づけばもう夜も盛りを迎えようとしていた。しんしんとした夜の闇が辺りに舞い降り、どこからか冷たい風を運びくる。荒涼とした月の光が蝋燭の明かりに絡んでは溶け、橙の光だけが盃に落ちた。
「話せないことならいいんですよ、私は」
そう切り出したのは仲麻呂だった。彼は少し寂しそうに笑って言う。
「真備さんは私のことを気遣ってくれたのでしょう? 真成の症状が良くないから······」
その言葉に真備は目を丸くした。そして「知ってたのか?」と震える声を漏らす。
「いいえ、彼の現状など知りませんよ。でも、あなた方の様子を見ていれば分かります」
真備は思わず固まった。ああ、ばれてしまった。咄嗟にそんな感情が頭をよぎった。いや、ばれるも何も隠し事などいつかは不思議とばれてしまうものだ。現に、屋敷の中にまでなだれ込むこの冷たい風が、夜の闇によるものではないのだと気づいてしまった。もうすぐそこまで冬がやって来ているのだ。帰国の時も近づいている。こうなってしまえば、ばれるのも時間の問題なのかもしれない。もう潮時だった。
「真成は、怪我の方は治ってきていたみたいなんだ」
ぽつりぽつりと話し始めた真備に、仲麻呂は不安げな顔を向ける。しかし、そこにはどんな現実をも受け止めようとする決意があった。真備はそれを感じ取って声を広げる。もう正直に話そうと決めたのだ。これ以上真成の病を隠し通そうとは思わなかった。
「でも、どうやら傷口から新たな病が入り込んでいたらしい。恐らく、何らかの伝染病だろうっていう話だった。現状じゃあ助かるかどうかさえ分からない」
仲麻呂はしばらく暗い瞳で真備の方を見つめた後、たった一言「そうですか」と呟いた。その声にはっきりとした感情はなかったものの、拳は固く握られ震えていた。それはそうである。故意ではなかったとはいえ、真成の傷を作ったのは彼なのだ。知らぬ間に友を傷つけ、友の命さえ危うくさせた。それが心優しい彼にとってどんなに残酷な現実であることか。
だから真備はあえて明るく言って見せた。空元気なのは見え見えであるが、今の彼にはそうすることしか出来ない。
「でもきっと大丈夫さ。助かるかどうか分からないってのは、裏を返せば助かる可能性もあるってことだろ? 大丈夫、きっと三人で日本に帰れる」
真備は仲麻呂を元気づけようとして言った。きっと仲麻呂は苦し紛れにも笑顔を作って「そうですね」と言ってくれるだろう。そう思っての発言だった。しかし、彼はうつむいたまま何も言葉を発さない。むしろ表情が暗くなったかのように見えさえする。それを不思議に思って彼の顔を覗き込もうとすると、今まで成り行きを見守っていた王維が呟いた。
「話しなよ、晁衡」
仲麻呂は唇を固く結ぶ。王維はそれを見てため息をついた。
「いいの? いずれ分かることだよ。もうすぐ新しい遣唐使達がこちらに着く。その時に君はどうするの。その人たちになんていうの。結局真備さんの耳にも入るんだ。自分の口から言いなよ」
王維はそう言って仲麻呂から視線を外した。真備に事実を語らせることも、こうして仲麻呂に発言を促すことも、二人にとって辛いことだというのは分かっていた。しかし王維は二人自身に話してほしかったのだ。二人は以前、心の内を晒しきれなかったからこそすれ違い、いがみ合った。王維としても、もうそんな二人は見たくなかったのだ。もはやこれは王維の正義感からくる自己満足なのかもしれない。しかしそれでも良かった。それでも二人に口を開いてほしかった。
「何かあるのか?」
なかなか話そうとしない仲麻呂に、真備がそっと問いかけた。仲麻呂はまだ辛そうな顔をしていたものの、顔を上げて真備を見つめる。見上げた真備の瞳は驚くほどに真っすぐだった。不安そうな色は滲んでいるものの、仲麻呂の心を
「······三人では帰れません。三人で帰国するなど無理なのです」
ついに根負けしたかのように呟いた。真備は理解できないといいたげに眉を顰める。
「無理って······それはどういうことだ?」
「帰らないことにしたのです、この私は」
「は?」
真備はあっけにとられたように仲麻呂を見つめた。説明しろと言いたげにその瞳で仲麻呂をせかす。そんな真備を見て、仲麻呂は苦しげながらも振り切れたかのように声を荒げる。そして今度ははっきりと口にした。
「私は日本へは帰りません。私はまだこの国に残りとうございます」
真備はその発言に目を見開いた。そして「嘘だろ?」といって顔を顰める。
「お前っ、一緒に帰ろうって約束したじゃないか! そのために今まで頑張ってきたんだろう!? 何で今になって帰国を拒む! ちゃんと理由を言え! お前がそこまで言うってことは何か理由があるんだろう?」
真備は仲麻呂の肩をつかんで叫んだ。対する仲麻呂は「理由は······」といったまま目をそらす。
そんな二人を見て、王維は一人顔を青くしていた。そう、彼は今になって気が付いたのだ。仲麻呂に真実を語らせることの裏に潜んでいた落とし穴に。
仲麻呂は自分の意志で唐に残るわけではない。それなのに、彼は自分が望んだことであるかのように言葉を紡いだ。
それはなぜか。彼を引き留めた相手が皇帝、つまりこの世界の中心におわす天子であるからだ。
「唐の皇帝は才能ある異国人を手放すのが惜しくて帰国を禁じた」
こんなことが日本や唐のみならず、世界中に広まったらどうなるか。それは皇帝である玄宗の威厳や誇りが許さないであろう。だから仲麻呂は自ら望んでこの国に留まらなければならないのだ。真実はどうであれ、そうでなくてはならないのだ。
王維はそのことに気づけなかった。きっと仲麻呂は既に玄宗に口止めされているのだろう。真実を語ることが良いとばかり思っていたが、権力を前にしてみればそれをすることすら許されない。王維は今更気が付いたのだ。
まずいことになった。どうせなら真備を納得させられるような言い訳が思いつくまで、このことは伏せておくべきだったのかもしれない。真備が納得するような芝居を打ってから、仲麻呂の残留を打ち明ければ良かったのかもしれない。
しかし、それももう遅かった。自らの浅はかさを悔やむ王維の横で、「私にはまだ学ぶべきことがあるのです。まだこの国に未練があることに気が付いたのです」と必死に苦し紛れの言い訳をしている仲麻呂がいる。しかし、こんなタイミングでそれを聞かされても真備が納得するはずがなかった。徐々に不信感を露わにする真備を前に、仲麻呂は辛そうに汗を垂らす。
もうこの時の王維には、約束を裏切られた真備の悲しみを止めることは叶わなかった。
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