極め
真備と王維が真成の元へ辿り着くと、床に臥せった彼の横には真剣な顔をした医師がいた。医師は真備と王維の姿を目に止めると、静かに手で促して二人を横に座らせる。
そこで初めて真成の現状を見た。野馬台詩の試験の後にここを訪れた時は、怪我はしていたものの笑うくらいの元気はあった。だから誰もが彼の回復を信じていたのだ。
ところが今はどうだ。赤かった頬は青白く痩せて、か細い息を支えるばかり。彼が大きく笑う度に揺れていた黒髪は、いまやパラパラと解けて艶がない。何より、今まで多彩な表情を売りにしていた彼がまるで生気のない白い顔で眠っていたのだ。
真備は唖然として真成の横に膝をつけた。真備は名前を呼びかけると、瞳を不安に染めて彼の顔を覗き込む。
「今は眠っておられます」
医師がぽつりと呟いた。
「怪我自体は回復していたのですが、どうやら傷口から新たな病が入ったようです。恐らく流行りの感染症でしょう」
真備は医師の顔を虚ろげに見つめ、王維は苦々しく顔をゆがめた。遠くに聞こえる
「真成は······真成の病気は治るんですか?」
真備の口から発せられた声は、希望とも絶望ともつかぬ色を持っていた。治るのならば嬉しいが、それはそれで時間の問題がある。まだ冬に入る直前だといえ、帰国の時が近づいているのだ。
医師はそれを知っているのか否か、顔に悲しみを浮かべて首を横に振った。治らないというよりも、今の段階ではどうなるか分からないといった意味合いが強かった。出国まではまだ一年ほどある。これから病が治癒するのか、それともさらに悪化してしまうのか。それはあまりにも曖昧で確定し得ないものであった。
もし、このまま真成の病が治らなかったら。
もし、最悪の事態が起きてしまったら。
真備の頭の中はそれでいっぱいいっぱいであった。雷雲が育つように、次から次へと溢れんばかりに悪い未来が見えてくる。
ここで帰国出来ずに死んでしまえば、彼の名声は一体どうなるのだろう。彼を知る人は同情しよう、その悲劇を悲しもう。しかし、果たしてそれが後世にまで残るのだろうか。遣使として海を渡り祖国に貢献すれば、歴史に名を残す可能性もある。それは真備がこれまでに蓄えてきた史学の知識、先人達の業績からしても確実なことだ。しかし、海を渡ったところで名の上がらないものもたくさんいる。行方も分からぬまま海に沈んだものもいる。国にその名を轟かせることなく客死したものも......。
ここで死んでしまったら彼の名は祖国に残るのだろうか。後世の人々にも称えられてゆくのだろうか。
そう考えるとどうにもやるせなくなった。ここで死なせるなど言語道断。何としてでも生きて日本に帰って欲しい。いや、彼と共に日本に帰りたい。仲麻呂の素振りからするに、真成と仲麻呂も面識があるのだろう。ならば仲麻呂も共に帰りたいはずだ。三人共々、祖国に「ただいま」と告げたいはずだ。ならば、ならば······。
「絶対生きて帰ろうな、真成」
真成の手を強く握ってそう言った。その手は白くやせ細っていたが、枯れ枝のような手に精一杯の祈りを込めた。王維や儲光羲らの表情は見えなかったが、きっと真備と同じような顔をしていたのだろう。
こうして、真備達は真成の元を離れた。三人とも表情は虚ろげで、どこか足元も覚束無いまま長安の街を歩み進んだ。
彼の回復について、自分たちではどうにも出来ない。ならばもう待つしかなかろう、祈るしかなかろう。
しかし真備には一つの不安があった。この話を仲麻呂にしたら、一体彼はどんな顔をするのだろうかと。人間に戻ったばかりで疲れている彼に、こんな話をしてもいいのだろうか。
何より、彼は自分自身を責めるだろう。真成の病の原因はあの怪我だ。そしてあの怪我を負わせたのは······。
(あいつは悪くない。あいつは悪くないんだ)
真備は必死に唱えた。しかし、仲麻呂は自分を責めるのだろう。彼の性格を思ってそうため息をついた。これで嫌な思いをさせるのも気持ちのいいものでは無い。しかし、事実を打ち明けないのも友としてどうなのか。
暮れ始めの空は、刻一刻と紫色に染まってゆく。真備はどうともならない不安を覚え、冷たい空気を吸い込んだ。
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