陰り
一方その頃、街へ出ていた王維と真備は長安の西市を歩いていた。ここはシルクロードによって様々な文化や人々が流れ着く場所。あちらこちらから妙な生き物の鳴き声や訳の分からない異国の言語が飛んでくる。しかし真備は一度だけここに来たことがあった。唐に来て間もない頃の話で、当時唐がゴールだと思っていた真備は市を見て驚いた記憶がある。
しかしまあ、ここはいつ来ても賑やかなところだ。真備がふらふらとしてると、横から大きな影が現れたので思わず身体を固める。すると、そばに居た王維がぐっと袖を引いた。それで視界が開けると、目の前には真備の背丈よりも大きな駱駝がいた。持ち主らしい西域の商人は慣れたような唐の言葉で真備に詫びを入れる。
やけに青い目をした男だった。しかし、日光の入り方によって茶色にも見えるのだから、それはそれは不思議なものである。そんな奇妙な瞳を持つ男は駱駝を促すと、人の賑わいの中に消えていってしまった。
「あんまりぼーっとしてると人の波にのまれるよ」
駱駝を見送ると王維が笑う。その笑顔にどこか情けなくなって頭をかいた。
「それにしてもこうやって見ると、今までのことが夢みたいだね。晁衡が鬼になったことも太陽が消えたことも······今日はあまりにもいつもと変わらない」
歩きながら発せられた王維の言葉に、真備は黙って彼を見た。王維はそれに気がつくと美しい顔を綻ばせる。
「まぁ君が隣にいることは僕にとっては目新しいことだけどね。今までは君の存在すら知らなかったんだから」
真備が相変わらず黙り込んでいると、王維はからかうように肩を竦めて笑った。
「何さー、何か言いたいことあるなら言っても良いんだよ。さっきっから何か言いたそうな顔してる」
真備は顔を覗き込んできた王維の瞳に押されて視線をずらすと、人々の足でごったがえす色鮮やかな地面に目を落とした。視線の先では、様々な衣が四方八方に散ってゆく。真備はしばらくの間、静かにそれを眺めていた。
一方の王維は何も言わない真備を見て不思議そうに首を捻る。何か言いにくいことなのだろうか、そんな疑問が読み取れた。
「私は······本当に彼らに勝てたのでしょうか」
その呟きに、王維は思わず言葉を失った。対する真備はただただ神妙な面持ちで足元ばかりを見つめている。
しかし、沈黙を破った王維の行動は早かった。すぐに柔らかな笑みを浮かべ、前方に見える晴れ渡った空に目を向ける。
「それはまだ分からないよ」
静かに透き通った凛とした声。まるで山辺にぽつりと咲く竜胆のような声だった。
「確かに勝ったって言えば勝ったんだろうけどね。でも、この結果が唐や日本にどんな影響を与えるのかはまだ分からない。所詮僕らは家と国のために生きてるんだ。今の世の中、官吏なんてそんなもんだよ。君の行動がいくら国に貢献出来たのか、それが勝ったか負けたかの違いじゃない?」
王維は真昼の太陽を眩しがるかのように目を細めた。
──いくら国に貢献出来たのか。
やけに深く耳に焼き付いた。その理由は分からない。しかし、何故か心に残ったのだ。深く深く刻まれたのだ。
それはきっと、何か遠い未来の暗示だったのかもしれない。真備と仲麻呂の人生を左右する何かの······。
そうやって二人があてもなく歩いていると、突然名前を呼ぶ声がした。後方から聞こえたので二人で同時に振り返る。
そこにいたのは
「どうしたのー?」
王維が彼に届くよう大きな声で呼びかける。一方の真備は一人で首をひねっていた。
一体何があったというのか。真備が見る限り彼は相当慌てていた。普段はビシッと着こなしている衣服も今はよれよれと着崩れている。そして、確か彼には学友である真成の看病を頼んでいたはずだ。赤鬼によって傷つけられた
しかし、彼の怪我は回復に向かっていると聞いていた。では一体何事だというのか。
そんなことを考えていると、やっとのことで儲光羲が二人に追いついた。彼は肩で息をすると、勢いよく顔を上げて二人を見つめる。
「大変なんだ、とにかく来てよ」
まだ荒い息が混じった言葉であった。王維が形の良い眉を顰める。
「そんなの君を見りゃあ分かるよ。一体何が大変なのさ」
それは真備も同感であった。二人が知りたいのはそこである。
すると、王維の言葉を受けて儲光羲は絶え絶えの息で言う。
「
「えっ?」
霞んだ声を上手く聞き取れなかったのか、王維が眉を寄せて聞き返した。すると儲光羲は一旦大きく深呼吸をし、冷静を求めるかのように息を整える。
そして、彼は再び口を開いて言った。真備と王維の不安を煽るその一言を。
「井真成殿が大変なんだ、今すぐ彼の元へ行こう」
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