賽の目 8


 高楼を訪ねていた二人の使者が李林甫の元へと帰ってきた。薄暗い回廊の先の扉を開けると、隙間からわずかな蝋燭の明かりが煙のように流れてくる。その灯火に誘われるかのように使者たちが部屋へ入ると、李林甫は机の上に積まれた大量の木簡を開いては眺め、開いては眺めを繰り返していた。どうやら仕事をしていたらしい。


 そんな李林甫に声をかけると、使者達は顔色を窺うかのように今までの成り行きを説明する。その間、彼らは真備の暗殺を命じられるのではないかとびくびくしていた。

 なんといってもあれだけ真備を退けようとしていた男である。そう簡単にあちらの要求をのむわけがない。

 李林甫は潰すと決めたら最後までとことん剣を突き刺す男であった。だから人はみな彼を恐れた。彼に喰われまいと必死にその力を崇めた。そうして彼の本性にいち早く気づき、かつ反抗しなかった者だけが当時の表舞台に立っていられたのである。

 穏やかな猫の皮を被った虎に喰われたのは、甘い外面しか見ていなかった者たちだ。彼が隠し持っていた蛇の目と鷹の爪はそれほど甘いものではない。

 だから使者達も李林甫の反応を恐れたのだ。次こそ本当にあの倭人が殺されてしまうのではないかと······。


 しかし、そんな使者達の予想は外れた。李林甫は彼らの話を聞いても慌てることも怒ることもしなかったのだ。そして、静かな声で使者達に問いかけた。あくまで落ち着き払った怒りのない声で······。

「あの真備とかいう青年は日本に帰らせろといったのだな?」

 仕事を片付けながら言った李林甫に、使者達は「はい」と頷く。その返事を聞いているのかいないのか、李林甫は新たな木簡に手を伸ばすとそれをパラパラと開きながら筆を握った。そしてしばらく黙ったまま筆を動かしたあと、耳を疑うかのような言葉を放つ。

「ならば帰らせれば良い。今すぐ彼を解放してやれ」

「はっ?」

 使者達は思わず素っ頓狂な声をあげた。

 軽い。あまりにも軽すぎる。これが今まで巻を貶めることに執着していた男の発言か。

 使者達は李林甫のあっさりとした答えに拍子抜けしてしまった。彼の思考に全くついていけなかったのだ。


 そんな二人の様子に気づいたのか、李林甫が「何だ?」と不思議そうに顔を上げる。それを吉としたのか凶としたのか、使者の二人はどもりながらも「彼を始末しないのか」と問いかけた。

 すると李林甫は無言で二人の顔を見つめてきた。もう昼なのか夕なのかも分からぬ薄闇の中、机上の蝋燭が朧気な光で彼の顔を照らしている。その炎の光とはまた違う、刃物のように鋭い光を持った瞳。使者は顔を強ばらせた。何を考えているのか分からぬその瞳がひどく恐ろしいものに見えたのだ。そうやって彼を恐れた二人であったが、対する李林甫は意外な行動に出た。

 なんと鋭い瞳をふわりと緩めて愉快そうに笑ったのだ。突然相好を崩した彼に、使者達はまたもや目を丸くする。

「何だ。私の目的を忘れたか?」

 口元を緩めながら問いかけてきた声には、どこか二人の様子を面白がるかのような色が滲んでいた。しかし、当の使者たちは驚いて何も言えずに立ち尽くす。すると李林甫はおもむろに立ち上がって、机の上の木簡を大きな棚に戻し始める。

「その様子を見ると、あの真備とかいうやつも勘違いしているのだろう。私のそもそもの目的はあの青年を殺すことではない」

 コトリ、コトリと小さな音を立てて、李林甫の腕に抱えられていた木簡が規則正しく棚の隙間を埋めてゆく。その隙間が埋まっていくごとに、李林甫は目を細めながら言葉を紡いだ。

「私の目的はあくまで彼を唐の朝廷に近づけぬことだ。それ以上に何を望もう」

 その言葉を聞いて使者達はハッとした。やっと李林甫のひととなりを掴めてきたのだ。彼が言葉を並べれば並べるほど、それに比例して目的が見えてきた。まさに穴の空いた棚の上に木簡が並んでゆくように。

「私は余計な争いは好まぬ。無駄に諍いをしたところでこの身が滅びる可能性が増すだけだ。当てのない戦や政策を好むのは、先を見通せぬ愚か者のすることだろう」

 棚の半分が埋まったところで、李林甫は一つの木簡を使者に手渡した。そしてわけが分からずに突っ立っている彼らに背を向けると、再び残りの木簡を並べ始める。

「それを見てみろ」

 使者の二人が木簡を開くと、そこには日本の遣唐使についての報告が書かれている。それは、新たな遣唐使の一行が既に蘇州の港に着いているとの話であった。

「たとえあの青年が朝廷に取り入ろうとして来ても、もう既に手遅れなわけだ。彼は来年のうちには日本へ帰る」

 そう言って李林甫は笑った。その時の目は完璧に政権者のそれであった。皇帝をも操る聡明で悪賢い宰相の顔だ。彼はそんな瞳をしたまま、口の端をにやりと持ち上げて言葉を続ける。

「それならもう彼に用はない。彼が唐から消えようがこの世から消えようが同じことだ。しかし放っておいても勝手に消えるのならば、わざわざこの手を汚すこともなかろう。違うか?」

 ああ、彼のことはわからない。二人の使者はそう思った。目を付けたものにとことん執着しておきながら、用が済めばあっさりとそれを突き放す。そんなことを平気でやってのけるこの男が怖くて怖くてたまらなかった。

 しかもちゃんと政治が出来るのだからより一層恐ろしい。もしも政治も出来ずに私腹を肥やすだけの金食い虫だったのならば、簡単に皇帝から遠ざけられていただろう。しかし彼には政治のセンスがあった。内面を少したりとも見せない厚く大きな仮面があった。だから気のいい皇帝は気が付かなかったのだ。いつの間にか己が操られていることに。


 それと同時に使者達は悟ってしまった。軒並みの人間には彼を倒すことなどできないだろうと。彼の目を掻い潜って成り上がることなどできやしない。それをしようものなら途端にパクリと喰われてしまう。実際に何人もの人物が彼に疎まれ消されてきたのだ。彼の蛇のように鋭い瞳から逃れることなど不可能に近かった。きっと彼を倒すことが出来るものなどほんの少しに限られているのだろう。そう、それこそ老いか病か、よほどの愚か者でないかぎり。


 そしてのちに老いと病と愚か者が同時に李林甫を襲うこととなる。しかしそれはまだまだ先のこと。今から約二十年後の話である。経理には長けるが政治がまるでダメな愚か者と、それを利用してのし上がろうとする一人の大男。そんな黒い影が薄闇に乗じてじりじりと近づき、やがて病に倒れた李林甫と唐という大国そのものをも闇に突き落としてしまうのだ。


 しかしそんな未来のことなど今を生きる彼らには関係のない話。兎にも角にも、李林甫の栄光はこれからさらにさらにと力を増していくのだ。


 こうして真備はあっさりと解放された。あまりにも軽すぎて、今までの争いなどまるでなかったかのような、穏やかで冷たい終着であった。

 天変地異をどうにかしろという唐の役人たちを「明日には光が戻るだろう」とたしなめて、真備はいったん高楼を去るふりをする。高楼の様子をずっと見守っていた王維と儲光羲に抱き着かれたことは言うまでもない。

 しかし役人も詩人も立ち去った後、真備は再び人気ひとけのない高楼へと戻ってきた。


 暗い暗い宵闇に、待ち焦がれた月を蘇らせるために······。







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