文選 3


 涼やかな夕方の風が吹いてくる頃。真備はそんなことなど微塵も感じられない高楼の中で、仰向けになりながら寝っ転がっていた。

 閉じ込められているとはいっても、食事は与えられているからかそこまで辛いものではない。辛いといえば何もやることがない上に、時間の経過が全く感じられない高楼の中で一日を過ごさねばならないということであった。

 真備はごろりと横に寝返ってみる。目を閉じれば微かに高楼の下の方から虫の音が聞こえてきた気がした。それをもっとよく聞こうと、真備はそっと耳をすます。すると、虫の声ではない何かの音が高楼の入り口の方から聞こえてきた。それは高楼の扉に誰かが手をかけたような音だった。真備がハッとして身体を起こせば、ちょうどそのタイミングで低くしわがれた声が聞こえた。

「真備さん、仲麻呂です」

 その声にほっと胸を撫で下ろす。入っていいと告げれば、しばらくして扉が開き、一人の赤鬼が高楼内へと足を踏み入れた。

「今日はよく休めましたか?」

 赤鬼は真備に向かって微笑む。初めは鬼の笑い顔というのも奇妙なものであったが、今となってはすっかり見慣れたものになってしまった。

「ああ、お前が何考えてんのかはしらないがしっかり休めたよ」

「それは良かった」

 赤鬼、もとい仲麻呂は満足そうに頷くと、どこか仰々しく真備の正面に腰を下ろす。

「さて、今朝お伝えしたお出かけについてお話したいと思うのですがよろしいでしょうか?」

 その言葉に、真備は「きた!」と言わんばかりに背筋を伸ばした。実は一日中そのことを考えていたのだ。一体どこに、何のために出かけるのだろうかと······。

 そんな真備が面白かったのだろう。仲麻呂は可笑しそうに微笑むと、真備のことを真似するように姿勢を正してみせた。

「真備さん、遂に彼らが動き出しました」

 彼ら、とはあの役人たちか。その言葉に真備は思わず身を乗り出す。すると、仲麻呂は真剣な顔で眉を寄せた。

「貴方を痛い目に合わせようと何やら企んでおります」

 真備は困ったようにため息をついた。随分と執着してくる奴らだと思った。ここに閉じ込めただけでは満足出来ないのか。

「お前が出かけるっていってたのはこれに関係があるのか?」

「はい」

 真備の問いに頷くと、仲麻呂は身を乗り出してにこりと笑う。その唐突な笑みに不意をつかれた気がした。

「それならこちらも黙ってはいられません。そのための策がこれからのお出かけです」

 真備は「どういう事だ」と言いたげに仲麻呂を見つめる。彼は真備の瞳を真っ直ぐに見つめると、どこか誇らしげに笑みを強めた。

「実は今夜、帝王宮殿にて彼らが話し合いをするのです。そこで話し合われるであろう、貴方への嫌がらせの内容も先ほど掴んでまいりました」

「本当か!?」

 真備は目を丸くして彼に詰め寄った。たった一日でそれほどの重要事項をつかめるのか、この赤鬼は。そんな真備に些か押されながらも、仲麻呂は「はい」と嬉しそうに笑った。

「どうやら貴方に難読の書を読ませ、誤りを笑って恥をかかせようとしているようです」

「難読の書?」

「ええ。朝廷に古くから伝わる書物で、号を『文選もんぜん』と言います。一部三十巻、色々な家の様々な言い伝えを集めたものだと聞いております」

「お前は内容を知っているのか?」

 真備は正直不安だった。難読の書を読むなど日本人の自分に出来るのだろうか。そう心の靄を打ち明けたが、仲麻呂は申し訳なさそうにかぶりを振った。

「残念ながら、私はその書物を見たことがないので全く······ただ、案ずることはありません」

 真備は思わず顔をあげる。彼は一体どんな策を持っているのだろう。仲麻呂は、そんな真備を見ながら柔らかく微笑んだ。

「先ほど申しあげたでしょう? 今夜、彼らが話し合いを設けると。貴方に恥をかかせるには、貴方の間違いを指摘する必要があります。そのためには彼ら自身が文選の内容を知っていなければなりません。それを今夜確かめるのでしょう。つまり······」

 仲麻呂は悪戯に笑みを変えた。そして鋭い爪の生えた人差し指をそっと顔の前に立ててみせる。

「彼らの話を盗み聞いてやればいいのです」

 悪事を思いついた子供のような顔だった。そんな顔も出来るかと呆れたが、真備も「なるほどな」と同じように笑ってみせる。

「でも、どうやって帝王宮殿まで行くんだ?お前はここの鍵を開けられるとはいえ、ここから大分距離があるぞ?」

「心配ありません。今の私は人ならざる身です。そのおかげか、いくつか不思議な術を使うことができます。それを使えば帝王宮殿までひとっ飛びです」

 「それこそ文字通り、ね」と付け足すと、仲麻呂は楽しそうに立ち上がった。

「では、早速帝王宮殿へと向かいましょう。何か他に聞いておきたいことは?」

「いや、今は特にない。まずは現場に行ってみてからってところか」

 仲麻呂は「わかりました」と頷いて、高楼の扉に右手をかざす。毎度毎度不思議なことではあるが、ガチャッという金属音と共に軽々と鍵があいた。

 扉の隙間から明るい月の光が差し込み、涼しい夜風が舞い込んできた。真備の髪を揺らしたその風は、爽やかな草花の香りと美しい虫の音色を運んでくる。久しぶりに感じたその自然の伊吹に、真備は思わず瞼を閉じた。

 ずっとこの高楼に閉じこめられていたからか、生命の営みがひどく懐かしく感じられた。五感で感じる自然の鼓動が真備の身体を包み込む。思わず涙が零れそうになった。そんな真備のことを、仲麻呂はしばらく静かに見つめていた。その優しげな瞳は、瞼を閉じていた真備の心にもしっかりと届いたことだろう。

 しばらくすると、衣擦れの音がして仲麻呂が高楼の端に立ったのが分かった。それと同時に声が掛かる。

「さて、行きましょうか。この手につかまってくださいませ」

「ああ」

 瞼を閉じたまま返事をした真備は、瞼を開いて自分の手を重ねようとした。しかしその瞬間、真備は目を見開いて動きを止めた。

 仲麻呂が「どうかしましたか?」と声をかける。しかしその声にさらに眉を寄せると、真備は震える声で口を開いた。

「お前その手······それにその声······」

 首を傾げながら自らの手に目を向けた仲麻呂であったが、その瞬間ハッとしたように眉を寄せる。そこには赤黒く、鋭い爪の生えた鬼の手などどこにもなかった。その代わり、そこにあったのは女性のように白く、そして男性らしさもみえる美しいであった。それに気づいた瞬間、仲麻呂は瞬時に空を振り返る。

「あ······」

 そこには煌々と光を放つ月が浮かんでいた。仲麻呂は美しい光を瞳に宿したまま、思わず驚きの声を漏らしたが、しばらくしてハッとしたように息をのむ。そして恐る恐る真備の方を振り返った。


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