また、
言いたい言葉があるのかと問われたらそうではない。ただ会わなければと思った。メアリーが罪の告白をしたあの時、彼女も私も話す余裕のない状態で引き離されて終わったままだった。
もう一度、面と向かって彼女の目を見たい。前へ進まなければ。それが申し出の切っ掛けだった。
メアリーに会わせてほしいと依頼した二日後、彼は悩みながらもそれを了承してくれた。そして今、目の前には閉ざされた粗悪な扉がある。
宮殿のずっと端。あの華やかさとは掛け離れた質素さがあたりを取り囲んでいる。土で作られた空間に二人の兵を横に備え、厳重に閉ざされた部屋がひとつ。背筋を伝う緊張に唇を噛みしめて耐え、それを見つめた。
「この中に控えさせている。もし何かあったならすぐに呼べ」
手を握りしめて、彼の声にただ一度頷く。その後ろのセテムは気に食わないと言わんばかりに無表情を顰め面に変えていた。それもそのはずで、メアリーは王族に無礼を働いた者としてここに入れられている。そんな彼女に私が一対一で会いたいというのは側近であるセテムにとって不可思議で仕方のないことだろう。
私の流産が薬を入れられてのものだと知っているのは、私と彼、ナルメルとカネフェル、そして良樹だけであり、セテムにもネチェルにも自然な流産として伝えられていた。
「ここで待っている」
心配そうに送り出してくれる相手にお礼を言って、彼の傍から一歩前に出た。兵が一礼して木製の扉を開く。この先に彼女が、私の前に懺悔し、泣き伏した彼女がいる。一呼吸置いて、土の匂いを漂わせた部屋の中に足を踏み入れた。
6畳ほどのその部屋は、案外明るい。どうしてこんなに明るいのだろうと思って眩しさに目を細めたら、向かい側の高い位置に切り抜かれた窓が見えた。
黒に近い焦げ茶の土が剥き出しの床。平らにされていない、凹凸の多い壁。土の独特な香り。随分使い古した藁が光の射す地面一部に引かれていて、そこに座る小さな存在がやがて私の視界に入る。突然の白い光に目が慣れてようやく捕えるその姿。背筋を伸ばし、両足を横に平行に崩す体勢で座る、その影。床に見入っているように顔を伏せ、背中中央まで達した長い髪を垂らしていても誰だか瞬時に判断する。判断できたと同時に自分の身体が急に強張った。
「……メアリー」
声が土の空間に落ちる。呼ばれた彼女はゆっくりと顔をあげ、落ち着いた様子の瞳を上げた。はらはらと、肩にあった髪が宙へと流れて行く。こちらを捉えた、静かな憂いを秘めた眼差しが私を捉える。
私が来ることを知らされていたのか、彼女は驚きを一切示さず、一端目を閉じてから立ち上がり、私と向かい合った。そして切なさと穏やかさを併せ持った表情で「弘子」と呼び返した。
居た堪れないくらいの沈黙があった。見つめ合って向かい合うのに、何も言葉を交わさない。唇を閉ざしている時間が限りなく感じられる。そもそも私たちは、投げ合える言葉も持ち合わせていないのかもしれない。互いの感情というものがあって引き起こされた出来事に、言葉など何の役に立つのか。
「あのね」
沈黙を破ったのは彼女だった。
「死刑手前でも、あまり辛くないのよ」
学校へ登校した朝のやりとりに似た、他愛の無い会話のような口調だった。死刑だなんてとても出てくるような単語ではないが、彼女の少し笑いを混ぜながら発せられる声色が懐かしい記憶を彷彿させるのかもしれない。
「あの太陽の下で働かされても、エジプトで生きてきた私にはへっちゃら。それにね、ご飯も出るし、寝る時間もちゃんと用意してくれる。労いの言葉もかけてくれるし、怒鳴ったりしない。想像よりずっといいところ。むしろ生活習慣がしっかりしてる気がするの」
彼女が置かれている身分は、敵国捕虜と同等のものだった。午前中は外へ駆り出されて仕事を行い、夜は決められた部屋で寝るのだと彼から聞いている。食事も睡眠時間もある、決して無理をさせていない身分だと。自由を失った、孤独な罪人たちなのだとも。
「皆外国の捕虜が多いから、言葉が通じないのだけは辛いけれど、ジェスチャーで何とでもなるしね。女の人もいるし。面白い人もいるから時々楽しい」
手を使って身振りをして、彼女は苦笑する。その様子が、こんなことになる前の現代で普通の女子学生としていたあの時に戻ったような錯覚を起こした。頬に浮かぶ笑窪は変わらないことに湧き出るのは、泣きたいくらいの懐かしさ。6歳の頃、外に出て初めて会った幼い彼女と同じ。何もかもが発達した世界で、その窪みを見せて声を上げて笑っていた。一緒にのんびり帰って、一緒に将来の話をして、平凡に埋め尽くされた幸せなあの頃。
「ごめん」
何も言えずにいると、相手は悲しげな表情を私に向けた。
「弘子が来たのは、こんなこと聞くためじゃないよね」
一気に現実に引き戻される。現代の光景が消え、土壁の色に戻ってしまう。
「私も、もう一度弘子と会いたいと思ってた」
ずっと面会を申請していたのだと、彼女は続けた。それを知らなかったのは、おそらく彼が私を気遣って伝えてくれていなかったから。
「あの日、私は侍女に加わって弘子の飲み水に良樹から渡された薬を入れた……弘子とあの少年王を殺すために」
低められた言葉の列に、ぐっと身体の芯が揺れる。
食事を終えた頃、膨らみ始めていた私の腹部に突然痛みが走って、耐えられなくなって、気を失って目覚めたら赤ちゃんがいなかった。小さな籠の中で死んでいた。あの子を見つけたあの瞬間を思い出すだけで、彼女に対するやり場のない想いが私の奥底で膨れ上がる。
「弘子は私を許せないでしょう?」
悲しげな微笑に、どこにも持っていくことが出来ない想いに苛まれる。笑窪を浮かべて可愛らしく笑っていた彼女をそこまで追い詰めたのは紛れもない自分だと言うことも、分かっている。こうなる前に、私が私が気づいて何かを変えられたかもしれない。もっと彼女のためにできることがあったかもしれない。しかし私はそれが出来なかった。気づけなかった。自分のことでいっぱいになっていた。
それを知っていながら、憎いという気持ちは、それを嫌だと思えば思うほど色濃くなるものだった。この感情を彼女も私に対して感じてきたのだろう。
手を握りしめ、俯くように頷く。決して許すことは出来ない。メアリーが思いとどまってくれていればあの子は生まれていたのだろう。元気な声を響かせて、愛らしい顔で笑っていたのだろう。それを思うと、それを奪われたことが悲しくて辛くて、憎らしくて堪らない。
あの子に、何の罪があったというのか。
「……でも、殺したいと思わせるくらいメアリーを追いつめたのは私であることは違いない」
声が震えた。
「ちゃんとメアリーを連れてきたことの可能性を見出して、すぐにでも探して傍にいてあげるべきだった……ごめんなさい」
言い放った言葉に、彼女は僅かに肩から力を抜いて目を伏せた。
謝罪を互いに言い合って、解決することでもない。彼女が私にしたことも。私が彼女にしたことも。もう戻れない過去のことなのだ。
「許してだなんて言わない。自分のしたことの重さくらい、分かってるから」
自嘲気味に彼女は告げて、ほんの少し口端を上げた。
「私は一人の命をこの手で殺した。それも何の罪のない、生まれてくる前の赤ちゃんを殺したの」
無意識に私は両の拳を胸の前に固く握りしめていた。
「私はこの身に起きたことを全部弘子のせいにした。タイムスリップも、経験したことのないひもじさを四か月続けたことも。だから、王宮で王妃として私とは比べ物にならない生活をしていた弘子を憎いと思って、殺してやりたいと思った」
私を捉えた目は真っ直ぐで、逸らせない。
「今も、心の奥で弘子を憎いと思う私がいるのも事実。憎いというよりは嫉妬に近いかもしれないけれど」
予測していなかった言葉ではない。前回会った時よりもずっと穏やかさを取り戻した表情でも、あの時と同じ何かがそこにちらついているような気がした。
「あれだけ愛されて大切にされている弘子がすごく羨ましかった。私が弘子より先にここに来ていたら立場が逆転して、私があの人に愛されていたんじゃないかって言うくらい、嫉妬してた。何より弘子の隣にいるのが私じゃないのが嫌だった」
雲が切れたのか、差し込む陽光の量が増す。白い光を背に浴び、表情の明暗を濃くしながら相手は続ける。
「だから、羨んで、嫉妬して。憎んで怒って泣いて。嘘をついた」
人間の根底に潜む感情の名。私も持つ、それら。
「でも、ふとした時に人間ってこんなに醜くなれるんだと思った。殺人とかが減らずに世界のありとあらゆる所で毎日起きているのはこのせいなんだなって。呑気にね」
私たちが、それよりも人類という者たちが、どんな動物よりも繊細と呼ばれる感情を持たなかったのなら、今回のことのようなものは起きないだろうし、ましてや歴史というものも紡がれずにすべては単調に終わっていくのだろう。
歴史は、多くの人々の感情が絡みあってできた行動の、複雑な記録なのだ。
「そしてここに入れられて、本当に独りになった時、やっと気づいたの。すべては自分のせいなんじゃないかって。弘子に押し付けていたものの責任と原因は全部自分の中だったんだって」
メアリーは自分の胸に手を置いて視線をゆっくりと上げた。
「私は弘子のせいでここに来たと思っていたけれど、アマルナで弘子の腕を掴んだのは間違いなく私だった。私はあの時弘子の腕を放すことだってできたんだから。怖いくらい眩しかったあの光を前にしても弘子を放したくない、そう思ったのがすべての始まり……この道を、選んだのは私だった」
あの日、アマルナへ行った私を追いかけてきたメアリーと良樹が掴んだ。それがこの3人の始まり。もう一年以上前のこと。
「それなのに、全部を弘子の所為にした。多分自分のしたことを認めたくなかったんだと思う。何が起きたのかわからなくて、それの責任の全部を自分以外の何かに投げてしまいたかった……どうして自分の都合のいいことにしか考えられなかったんだろう」
「……きっと、人間だから」
不意に発した言葉に、彼女は私を見た。今自分がどういう表情をしているのか分からなかった。
「私たちが人間だから。私もそう。不幸ばかりが続くと自分のことしか考えられなくなる。都合のいいことをこじつけて、それでも生きようと我武者羅になるの」
そうでなくちゃ、生きていけないから。自分の醜い部分を見つめて抱いて生きていけるほど、私たちは強くはないから。
しばらくの間を置いて、私の声の余韻が消えたくらいに彼女は肩を落とした。
「なんて、不合理な生き物なんだろうね」
口元を緩めて放たれた声は、独り言のようでもあった。瞼が落ちたと同時に、透明な筋が彼女の頬を通っていく。
「どれだけ憎んでいても、その中でやっぱり弘子が好きだって言う自分もいたの。今もそう。……私の前にいるのはやっぱり弘子で、私の親友だって。あんなに酷いことをしても、会いに来てくれた弘子が好きなんだって」
彼女の声に抑揚が混じって、胸に柔らかさが滲んで、痛くなる。
「好きだからこそ、こんなに憎んだのかもしれない。もちろん現代を捨てたことも許せなかったけれど何より、ずっと私がいた弘子の隣に、知らない人がいて笑い合って、その人を大事だと言ってる……それが一番嫌だったのかもしれない」
息を呑んだ。どうしたらいいか分からないくらい、胸が揺さぶられた。
「どれだけも恨んでも、弘子と一緒にいた時間と記憶は消えない。なくならない。私たちは繋がってるって、どんなに憎んでも感じてた」
変わってなかった。ただ形を変えて、分からなくしてしまっていただけだった。
「私も同じだった」
彼女に頷いた。どれだけ忘れようとしてもなくならない記憶がここにある。
「許せないと思っても、メアリーと一緒にいた時の思い出はなくならなかった」
返された返事にメアリーの目が大きくなって、今までで一番大きな涙が落ちた後に「嬉しい」と泣き笑いを浮かべた。
「けれど私は許されないことをした。最終的には利用されたとは言え、弘子に突き放されたからとは言え、人として踏みとどまらなくちゃいけない場所があった」
人として。
当たり前のことなのに、追い詰められた立場でそれを行うことは、どれだけ難しいことなのだろう。
「それに私、ヨシキに一つだけ嘘をついたの」
涙を拭った彼女は、今度はすまなそうに肩を竦めた。
「弘子に見つけてもらうまで、食べるために身体を売ったんだって。ヨシキが味方に欲しくて。弘子を敵に回したくて、同情を買おうとして、必死になって、そんな嘘をついた」
窓から風が流れて行った。髪が揺れて、私の意識を引く。
「ヨシキが欲しかった。好きだったの」
彼女の奏でるこの言葉が、純粋な心から来るものなのだとすぐに分かった。
「ヨシキはね、すぐに私の嘘を信じて、私を抱き締めて、一生懸命に慰めてくれた。嘘だってひとつも疑わなかった。だから今度は私が救おうと思ったの。弘子を置いてここを出て、私が弘子を忘れさせてあげようって。……でも、こんな私じゃ最初から無理だったのね」
そうして、良樹はあの薬を用いた。必死に良樹に取り入ろうとしていたメアリーを逆に利用して、私に薬を飲ませた。
「あの人の中には弘子しかいない」
一歩踏み出して、彼女は言った。
「弘子はヨシキが変わったと思っているかもしれないけれど、あの人は何一つ変わってない」
驚いて相手を見つめてしまう。あの良樹が、以前の良樹と変わらないと言われるとは思っていなかった。
「弘子が好きで、好きで、堪らない人。弘子を守ろうとする行為が、あんな方法しか思いつけなかった悲しい人……可哀そうな人なの」
良樹はメアリーとは違う。私の赤ちゃんを最初から殺そうと目論んでいた人。メアリーにそれを遣らせた人。
「良樹のことは……殺したいほど憎んでるわ」
顔を背けて告げた。これは彼も同じ。死んでしまった大事な存在を思うと、哀れみを感じることは出来なかった。
「何よりも許せない」
やっとのことで振り絞って出せた言葉に、相手の眼差しは悲しみを含んだものになる。
「……誰かを想うことって、どうしてこんなにも残酷なんだろう」
返す言葉を見つけられないまま顔を上げれば、彼女の姿が視界に入る。その表情は何かを悟っているようで、それでいて切なげだった。
光が懇々と頭上に降り注ぐ。二つの影を伸ばす。入ってくるそよ風が土の匂いを運ぶ。それが何だか鮮明に感じられた。
「ヒロコは私をここから出すつもりで来たのだろうけれど、私は牢に入り続けようと思う」
相手の言葉を乗せて私に伝える、涼しめの風。この前の儀式と同様、静けさに自然と耳を澄ませていた。
「他の捕虜たちと一緒に、あのファラオに出ていいって言われるまで働こうと思う」
神とされる彼が刑から彼女を解放した時こそが、罪を償い終えたという何よりの証となる。けれど、彼の許しはそれほど簡単に得られるものではない。メアリーは死ぬまで刑に服す覚悟であることを知った。
「償いを最後まで全うする。たとえ、私が死んでも。私がこの手でしたことは私の責任。けじめ、つけなくちゃ」
そこまで言うと、メアリーの手が伸びて私の手を掴んだ。あの懺悔の時とは比較にならないほど暖かくて、私はその熱を無意識に握り返していた。このまま引いて牢から出してしまいたい衝動に駆けられる。でもそれでは彼女の覚悟を、けじめを、砕いてしまう。
「会いに来てくれて、ありがとう」
精一杯と思われる彼女の笑顔。一生心に残るような表情を残し、彼女は颯爽と私を離して隣を過ぎ、扉を軽く叩いた。
「王妃様をお連れしてください」
軋むような音の後に、彼が顔を出した。心配でたまらないと言った様子で、その淡褐色は眼差しはメアリーを越え、私に辿り着き着き、何だかほっとしたような安堵の息をつく。
「終わったのか」
問いに、ええと頷く。その時彼女と視線がかち合った。とても柔らかい視線があった。
「ならば行こう。王族がいるべき場所ではない」
歩み寄った彼に肩を抱かれ、彼女に背を向けた時。
「弘子」
私の名が彼女の声で呼ばれた。振り向くと、しっかりと床を踏みしめて立つメアリーがいた。
「また、会いましょう」
また。
清々しさを持った面持ちで、友人はもう一度口を開く。
「次は笑顔で、会いましょう」
次は、悲しみも切なさも憎しみも無い朗らかな笑顔で。また、向かい合えたなら。
芽生えた仄かな希望を胸に抱きしめ、私は小さく微笑みを返した。
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