13章 罪と過ちと
Greensleeves
* * * * *
Alas, my love, you do me wrong,
ああ、私の愛した人はなんて残酷な人だろう。
To cast me off discourteously.
私の愛を非情にも投げ捨ててしまった。
For I have loved you for so long,
私は長い間君を愛していた。
Delighting in your company.
傍にいるだけで幸せだった。
Greensleeves was all my joy.
グリーンスリーブス、君は我が喜び。
Greensleeves was my delight,
グリーンスリーブス、君は我が楽しみ。
Greensleeves was my heart of gold,
グリーンスリーブス、君は我が魂そのもの。
And who but my lady Greensleeves.
君以外に、誰がいるだろうか──。
こればかりが声帯から流れている。気づくと自分は歌っていて、自動的に吐き出されていく歌詞の意味を取るたび虚しさを覚えた。
椅子に座る俺の傍の壁には縦30センチ、横は僅か10センチほどの縦長な小窓があり、真向かいには質素な寝台、傍の小さな机には鞄が置いてあった。昼間でも薄暗いこの6畳ほどの部屋に、彼是1か月半ほど閉じ込められていた。牢でも想像していたより広く、過ごしやすいことだけが救いだった。
王妃の懐妊が知らされ、アイに提示した予言を外し、殺されるのを防ぐために銃を発砲したその日の夜に、アイの傘下にいる兵たちに突如背後から取り押さえられ、縛られてミノムシのような格好でここにぶち込まれたのだ。西の宮殿の支配者でもあるアイが、俺を危惧しての行動だった。
予期していなかった訳ではない。ネフェルティティにも気を付けるよう促されていたのに、何も待たずに一人でほっつき歩いていた俺が悪いのだ。自業自得だ。
いつもならば逃げるなり、身を潜めるなり、嘘をつくなり、すぐに対応できたはずだ。なのに、一つのことしか考えられなくなっていた俺は抵抗する間も無くここへ追いやられた。その時の自分の愚かさには思い出す度に呆れてしまう。
それでも取り上げられるかと思った鞄は今手元にあった。無いのは銃だけだ。
現代から持ってきたあの銃はドイツ製の中古、銃弾は8発。アイたちを怯ませるために天井に向かって放ったから残りは7発だ。ただ、命の危険を感じた時以外で使うつもりはなかった。いざという時のために取っておくべきものだ。取り上げられてからは誰が持っているのかは分からない。無駄に銃弾が使われていなければいいのだが。
脳が固まってしまったように、これからどうするかの考えが何一つ浮かんでいなかった。現代に帰ろうと言う意思も、この時代で生きて行こうという意思もない。かと言って死ぬ気もない。ただただ彼女を想う。想って、怒りと嫉妬と悲しみと、人間にとって醜いと言われるような感情が飛び散り、頭にある彼女の幻影を真っ黒にしていく。
長細い窓から月明かりが俺を照らしている。足元の影を薄く伸ばす。
時折顔を出すネフェルティティから何の知らせもないということは、弘子は順調に生活しているのだろう。あの男の子供を宿した腹と共に。それを考えるたびに自分の顔が苦しげに歪むのが手に取るように分かった。
居た堪れなくなり、立ち上がって窓に歩み寄って月を眺めた。太陽とは違う淡い光のはずなのに、何故だか眩しく感じて目を細め、瞳孔へ入ってくる光を絞る。
──弘子。
お前はこの時代の人間ではない。あの男との間に子供を産んでもこの時代に自らを釘打ち、縛り付けてしまうことにお前は気づかなかったのか。あの男の子供が生まれれば、ますますお前をここに繋ぎ止めるものが出来てしまう。それがどうして分からない。古代人と現代人の間の子供など、誰が許すと言うのか。その存在を脳裏に浮かべるだけで俺は吐き気がするのに。
「ヨシキ」
声に思考が切られて振り返ると、兵たちが厳重に守っているはずの扉が開いてそこに女が立っていた。誰であるかは言わずと知れている。ここに入ってから何度もやって来ては面倒を見てくれる彼女だ。
「大丈夫……?」
メアリーが食事を持ってきてくれたのだ。彼女が俺の近くまで来てやっと、小さな窓の月明かりに照らされて顔が明らかになる。
「さっき歌ってたの、グリーンスリーブスだよね?」
作者不詳。Greensleeves──緑の袖。
「手の届かない、愛する人に向けられた悲恋歌だったっけ?よく覚えてないんだ、ピアノで弾いたの、何年も前だから」
音楽をかじったことのある人間ならば大抵は耳にしたことのあるイギリス民謡、17世紀エリザベス朝に楽譜にされた名曲だ。実際に作曲されたのは16世紀であるとされ、約100年の間、口頭のみで伝えられたというシェイクスピアの劇にも用いられた楽曲。
題名の『緑の袖』は比喩で、『愛する人』のことを指している。何故相手の名にせず、比喩にされたかというと、名を出してはいけないほど高貴な人、または名を出すのは憚られる娼婦に恋い焦がれ、関係を持ちたいと願ったものであるからだとされている。
無意識とは言え、これを歌っている俺はなんて惨めな奴だろうと嘲ってやりたくなる。彼女は今や、王の子供を身籠った王妃で、俺はこんな牢獄に似た部屋に閉じ込められた何の身分も持ち合わせていない虚しい男。ぴったりだ。
弘子を取り戻したいと思うのに何もできず、今もこうやって嫉妬と怒りで本来の自分が分からなくなってきている。そんな自分が愚かしくて、馬鹿馬鹿しいのに、どうすることも出来ない。
「ありがとう。助かるよ」
当たり障りのない礼を言ってまた月に視線を戻した。
「まだ、あんな子のこと想ってるのね」
テーブルにパンと水と果物を置き終えた彼女は、表情に黒い影を落としている。『あんな子』とは『弘子』のことだ。メアリーはもう弘子を名前で呼ばない。
「ヨシキ」
じわりと音無く色を濃くしていく闇のように、彼女は傍に歩み、こちらの背中に腕を回して俺を抱きしめた。彼女の小さめの頭が背中にとんと乗る。
「あの子を想ってるからその歌を歌ってるんでしょ?分かるの。ヨシキがどれだけあの子を好きなのか……でもあの子は私たち捨てた。想ってどうするの?想って、あなたが苦しむ必要なんてないのに」
仕方ないと分かっているのに想ってしまう。それだけ弘子だけを目指してこの時代で生きてきたのだ。想ってどうすると言われても、どうしようもない。どうしたって、俺の中から弘子は消えてなくなることはない。
「あの子のせいで苦しんでるんだよね?辛いんだよね?」
率直に言えば苦しい。胸のあたりが重くて、感情の制御が利かなくなる。こんな感情に埋もれるのは生まれて初めてで、どうしたらいいか分からないというのも正直なところだった。こんな自分が嫌で、どこかに頭を打ち付けたくなる。
「せっかく会いに行ったのに追いやられた……あの子に裏切られたから」
俺を映した、弘子の怯えた目。他の男に触れられたくないという意思の表れ。
彼女をそうさせた、あの忌々しい男の顔が浮かんで唇を噛みしめた。
「でも私はあの子とは違う……裏切ったりしない。ヨシキが好きだから」
その言葉で背後から回される腕に力が加わる。
「ヨシキは私を救ってくれた。だから今度は私が救ってあげる。ヨシキのためなら何でもする」
「十分、救ってもらってるよ」
呟くように放って彼女の腕を解いた。向きを変えて鉢合わせる、彼女の瞳が光を増す。嬉しそうに、再会したばかりの時では見せなかったような笑みが浮かんでいる。
実際救われていると感じるかと言われれば、素直に頷くことは出来ない。だがここに入ってから何かと世話を焼き、俺のためなら何でもと言ってくれる彼女にそう言わない訳にもいかなかった。
「……ねえ」
縋るような目でメアリーは俺を見上げる。そこに虚ろとも呼べる俺の顔が映っている。
「もう、あの子のこと置いて、二人でここを出ない?」
今度は胸にしがみ付いて彼女は告げた。
「あの子はここに残るって言った。だからもう私たちだけで現代に帰ったっていいの。あの子はどうせ、ここでアンケセナーメンになって勝手に死んでいくんだから。それに私たちが関わる必要なんてどこにあるの?無いでしょ?」
説得しようと躍起になっている彼女に、俺は静かに首を横に振って身を離した。
弘子をみすみす死なせたくはない。あの男と同じ末路を歩ませるつもりは俺になかった。
「どうして!?あの子はもう!」
何も言わずに椅子に腰かけた俺に、メアリーは目を見開き、悔しさを露わにして声を荒げた。
この2年近く、弘子だけを追ってきた。現代へ帰りたいと言う願望は、あの葡萄園の紫の下で、弘子と共に無くしたのだ。
メアリーが弘子を憎み、妬んでいると言う。俺が同じように憎しみと妬みを向けている対象は弘子の中に芽生えた忌まわしい存在と、あの男なのだ。まだ帰りたいと願うメアリーと、ここに残ってでも弘子を取り返そうとする俺の思うところはもう、根本的に違ってきている。
「……許せない」
沈んだ静けさに落ちた彼女の声がある。憎しみと言う名の響きが漏出する。見やった拳は固く握られ、ふるふると小刻みに震えていた。
「何で!?どうして!?どうしてあの子ばかり幸せなの!?振り回される私たちは何なのよ!!」
彼女の精神は今も歯車が噛み合いづらく、少し外れると大きく崩壊してそのリズムを狂わせてしまう。ちょっとした発言で、突然泣いたり怒ったりヒステリックになる。その原因が弘子に関する俺の言動であることがほとんどだ。
「あの子が憎い!私たちを捨てて、現代を捨てて、愛をもらったすべてのものを裏切った!地獄に落ちてもいいような人があんな幸せになってるのか私には分からない!古代の王に愛されて、王妃にまでなったのに、ヨシキをまだ掴んだまま!」
殺してやりたいと、音にしないものの、彼女は唇だけで呟いた。爪先が食い込み、血が出てしまうのではないかと思うほどに脇へ流す拳に力を加えている。
「メアリー」
「ヨシキもヨシキだわ!」
宥めるために彼女に向けた俺の手が、振り払われ、闇を切った。
「あなたの気持ちを知っていてあの子はあの男を選んだのに!!何でまだ好きなの!?諦められないの!?どこがいいのよ!!あの子はもう少年王のもの!あの子のお腹にはあの男の子供がいるのに!」
反射的に俺の手が伸び、彼女の腕を掴んだ。これ以上と言わせまいとするかのような強い力が入った。案の上、ずっと鳴り響いていた彼女の声はそれでぴたりと止み、痛みに歪んだその顔は、瞬間的に怯えるような表情を取る。
「……ごめん」
自分のしていることに気づいて咄嗟に謝り、彼女から手を離した。
駄目だ。弘子の妊娠を聞くと俺はまた嫉妬に溺れてしまう。
「私の方こそ、ごめん。お願い、嫌いにならないで」
椅子に座り込んで頭を抱える俺と、腕を摩りつつ立ち竦む彼女は、また揃って黙り込む。項垂れる二人の髪が月影として床に落ちていた。額には嫌な汗が絡んで前髪にまとわりつき、手の甲には血管と骨が浮き上がる。
──弘子。
どうすればお前を。
ここを脱出する方法だとか、これからのことだとか。もっと考えることは他にあるだろうに、今の俺にはそれしか考えられないでいた。閉じた視界にちらつくのは紫を背景にした彼女だけ。あの腹に、子供がいたなんて。
辛い。これが辛いと言う感情なのかも、もう分からなくなるほどに何もかもが憎い。
「ヨシキ」
呼ばれると同時に、頭を抱き締められた。柔らかい、女の匂いが鼻に届く。
「私、ヨシキがまだあの子のこと好きだろうと一緒にいる……だって私には今、ヨシキしかいないから」
何でもしてあげると、彼女は俺の髪を撫でて繰り返す。それでも俺は何にも答えず、抱かれながらぼんやりと闇を見つめていた。頭部を包むこの手が弘子のものだったならと考えてしまう俺は、どこまで腐り切っているのだろう。
そんな時、扉が静かな音を立てて開く。それに呼応するようにメアリーは素早く俺から離れた。
「また、来るね」
そう小声を立て、持って帰るはずのものをまとめて扉の方へと向かう。
兵に命じ、部屋に現れたのは一人の女だった。彼女の持つ妖艶さがこの闇の中でも分かる。頭を下げながら慌てて出て行く友人の背中を見送ってから、こちらに何とも言えないような笑みを向けているネフェルティティを見やった。
「随分と女の子に人気なのねえ。女官も手玉って訳なのかしら、私の情夫殿は」
暗闇でも彼女の美貌は陰ることを知らないかのようだった。
「どうしてここに?」
皮肉たっぷりに言ってみるが、彼女は口角を上げたまま寝台に腰を下ろした。メアリーが俺のために持ってきてくれた食事をつまみ食いして、組んだ足を揺らしている。
「一人じゃ寂しいでしょ?」
確かにここは冷たくて孤独だ。光もあまり射さない、陰気くさい部屋を牢獄に改造したようなこの場所。それでも今の自分に寂しいという感情はない。
「添い寝でもしてあげようかと思って」
色目を乗せた声音を鼻で笑い、俺は視線を格子戸に投げた。欠けた月はさっきより動いている。
「あら、王妃のことで頭がいっぱいでろくに眠れてないくせに意固地ね。強がってないで私で忘れてしまいなさいな」
彼女は楽しそうに声を転がす。
絶世の美女、ネフェルティティ。思い返してみれば、数千年後の俺の時代には彼女とされる未完成胸像が残されている。褐色の肌に、エジプト王妃を示す縦長の冠。通った鼻筋に切れ長の目縁。すっとした輪郭と細い顎。ベルリン博物館所蔵、至高の美貌と云わしめたアマルナ美術の胸像。いつだったか弘子の父親に写真で見せてもらったことがある。目鼻立ち整い、手を触れることさえ憚れるような美しさと威厳を兼ね揃えたそれに、想像も難しい遠すぎる過去には、これほど美しい人がいたものなのかと思ったのも随分昔の話だ。実際俺が思い描いていたネフェルティティとは違う。目元も輪郭も似ている。そのものだと思う。だが、あの像は目の前にいる女よりももっと気高い何かを持っていた。
違いだらけだ。歴史の文章と写真と、すべてが。少年王も王妃も、国の強大さも、皆、俺の抱いていたものとは大きく異なっている。ただの文章でしかなかったそれが、生き生きと目の前で流れていく姿に歴史とは何であるのか、あやふやになる。数千年の空白はあまりにも大きすぎる時間だった。
「でもあの女官もヨシキと同じ未来の民だなんて。王妃と言い、あなたと言い、あの子と言い……私の周りは一体どうなっちゃっているのかしら」
彼女もそう零すのも当然で、王宮の中には存在しないはずの人間が3人もいる。だが俺としては3人だけ。それしかいない。
「アイはどうしてる」
話を切り替えようと出した俺の問いに、彼女の眼差しは急に鋭いものに変わった。
「どうせ、何か企んでるんだろう?」
あの強欲の塊が弘子の妊娠を知って黙っているとも思えない。子供が生まれれば王妃に渡った王位継承権はそちらに渡り、弘子を手に入れることで王位に就くというあの老人の一石二鳥は叶わなくなる。
王をも殺そうとしている後先短い老人にとって、これ以上王位継承者が増えれば、王位を継がずして死ぬという可能性も出てくるだろう。
「頭を抱えてるわ。どうやって御子を流すかってね」
やはり。顎に手をかけて思いを凝らす。
下手に行動すれば弘子の命に関わることになる。変な手段で目論んでなければいいのだが。
「最低な男よ。私の父親は」
己の父を彼女はいつもの如く吐き捨てた。そこまで言い貶められるのも逆に凄いと思う。それに匹敵するほどの何かがこの親子の間にあったのだろうが、自分には関係ないことであって、湧いた興味はすぐに引っ込んだ。人のことをあれこれ考えていられるほどお人好しではない。
「いい案は出てるのか」
頬杖を突き、顔を動かさず目だけで向こうの女を見た。
「あなたも父と同じという訳」
眉をわずかに吊り上げ、俺への眼差しには軽蔑を含ませている。それに対して俺は何も答えなかった。綺麗な言葉で取り繕う気はない。どんなに穏やかな人間だろうと、時に非情となり得る。言い逃れができないくらい、彼女の中の子供がそうなればいいと願う俺がいる。これはそこの女にも言わずとも伝わっているだろう。
「……諦めの悪い男ね。そういう人は嫌いよ」
「所詮あんたが選んだのはそれだけの男だったってことだ」
この女は分かっていない。時空を越えた人間が、すでに死んだ人間と関係を持つことがどれだけあり得ないことか。ずっとただ一人を想ってきた今の俺の気持ちがどんなものなのか。彼女を探すために人生を左右する仕事を蹴った。好きでもないエジプトに残った。一緒になることを決意した。それだけ弘子の存在が俺にとって大きく、掛け替えのないものだったのだ。その相手に、現代という故郷のことを忘れさせたあの男がどれだけ憎いか。
「王妃の座にいるのがさっきの女官だったなら、あなたがそこまで思うことはあったかしら」
聞く耳を持つつもりなどなかったのに、思わず目を見張り、言われた言葉を脳内で繰り返した。相手は鋭い眼差しに俺を捕えて言い放つ。
「あなたが流産を願うのは、よく言っている時代の違いから?それとも王妃を想う嫉妬からなの?」
その瞳は胸像に残された一つの瞳と重なるような気がして、ざわりと鳥肌が立つのを感じた。予想もしていなかったところを突かれ、返す言葉が見当たらなくなる。立場が逆転し、王妃の場にいたのがメアリーだったのなら俺はどうしていただろう。同じ想いをこの胸に抱いていただろうか。そうでなかったなら俺は相当自己中心的な人間だ。
「……分からない」
不意に出たのはこんなどうしようもない返答だった。分からないとは何だ。自己嫌悪を抱いても、これ以外に自分の心情に見合う言葉はなかった。何と言っても、ここに来たばかりの自分が、まさか近い未来こんな思想を持つようになっているなど夢にも思わなかったのだ。
メアリーがもし弘子の立場になっていたのなら、もっと別の何かが起こり、俺を同じ感情に貶めていたのもかもしれない。白が何色にでも染まるように、赤にも、青にも、緑にも、そしてそれらがぐじゃぐじゃに混ざり合い、何もかもを飲み込むような黒にも俺は染まるだろう。人とは、自分が思う以上に単純であるようだった。
手元の葡萄に目を向けていた俺に、美女は「まあいいわ」と呆れ気味に呟いて座り直した。
「耳を澄ませてみなさい」
眉を顰めた俺に、彼女も耳を澄ます素振りをする。
「遠くに聞こえるでしょう?」
言われる通り黙って意識を耳に集中させた。何も聞こえないと思いきや、兵の足音、女官の話し声がぱらぱらと耳へと届く。それらはとても微かだ。だが、そのずっと奥にある一つの旋律が流れているのに気付く。何やら流れる奇妙な音楽。音の深さからして声だろうか。海の波ようにうねり、空気を振動させている。
「これは?」
「神官たちが唱える歌よ」
神官たち。西の、アイを筆頭とするあの神官軍団。言われてみれば、踊り子たちの奏でるものではなく、儀式などで歌われそうな不気味さと近寄り難さのある曲調だ。
「流産させる呪いを意味するもの。お腹の御子だけを呪おうとしているの」
呪術か。それで叶うのなら、俺だって最初からやっている。
「他には転ばせたり、突き落としたり、毒を飲ませたりとも考えているようだけれど、それではアイが欲しがっている母体、つまり王妃まで死ぬ恐れがあって出来ない。だから呪っているの。これが私の知るアイのしていることのすべてよ」
馬鹿らしい、と美女は再び毒づいた。
呪いよりもまだ後者の方が現実的だが、利益と損失が求めるものと違う。もし実行すれば弘子の身はどうなるか。
「最後に言っておくわ」
寝台から立ち上がった美女が、真っ直ぐ俺を見据えた。ぎしりと、木の音が追うように鼓膜を揺らす。低く発せられた音は、床に向けて垂れていた俺の頭を何とはなしに上げさせた。
「怒りや嫉妬に溺れないことね。溺れたならそれはとても醜いことだわ」
彼女は俺に背を向け、扉に向かって歩き出す。サンダルの音が妙に空虚感を胸に降り積もらせた。扉が開いて、待っていた侍女と共に彼女は去って行く。兵によって閉ざされる入口は、また俺を暗闇に追いやってしまう。そして俺はまた一人になる。
置かれた水を勢いよく呑みほし、唇から洩れたそれを手の甲で拭ってからゆっくりと立ち上がった。拭いきれなかった水滴が、顎の方へと伝って下へ落ちた。
何をどうすれば分からず、未来も見えず、さっきまでネフェルティティが腰を掛けていた寝台に倒れ込むようにしてうつ伏せに寝転んだ。流れる麻を、感覚の麻痺した手の平で握りしめ、一度目を固く閉じる。
「……流産、か」
確かにこの時代の医療で、事故で起きた流産から母体を救うのは難しい。瀕死の状態までに持って行ってしまうのは言うまでもないだろう。
かといって、毒はどうかと言えば、母体と子供を一緒に殺すのなら最適だろうが、アイの望むように胎児、あるいは子宮を限定に作用するものではない。母子共に殺そうとするのなら有効だが、今回の目的は違う。弘子を、生死の境を彷徨わせるような危険な目には合わせたくない。
それにそんな都合の良い毒があったとして、ツタンカーメンは毒に関して的確に見分ける能力があるというのだから、その近くで食事を取る弘子に毒を飲ませるのはいくらなんでも無理というものだろう。
アイの望みを叶えるもの。そんなものはこの時代にはない。この時代に。
ここまで思って徐に瞼を開いた。腕を動かし、肘を立て、身体と顔を上げる。この時代ではない現代になら存在する。
──現代。
頭を動かして机に視線をやった。ぼんやりと炙り出されるのは、自分の鞄だ。アマルナに向かった弘子を追った時に肩に掛け、そのままここへ持ってきたもの。閉じ込められてからずっと開けていないそれは、間違いなく現代の、この時代にはないものだ。
寝台から降り、吸い込まれるように手を伸ばして掴む。ポリエチレン製の化学繊維の手触りがいつになく新鮮に纏わりついた。
持っている。この時代に存在し得ないものが今、俺の手の中にはある。
引き寄せ、鼓動が早鐘を打ち始めるのを胸に感じながら薬品やら用具やらをどかして記憶の筋を辿って行く。指を奥の奥へ。日本へ帰る弘子のために用意したものらのずっと、奥へ。
一つ。マラリア感染に対して用いられる薬品があった。白い粉状の薬剤。抗マラリア薬だが、とある一つの作用を持つ。
弘子の懐妊の時期と薬の性質を考え、どれくらいの量であればいいか、薬品の英文を見て計算を繰り返す。
できる。ここに閉じ込められている俺にも、あの男の顔を崩すことが。
できてしまう。弘子をこの世界に縛り付けるものを、消すことが。
自分の中に浮かび上がった考えに身体が震えた。右手の散剤が黒の中を揺れているのを見て、左手でその手首を抑え込む。だが、止まらない。震えが止まらない。
「俺、は……」
薬を両手で胸に抱いたまま、膝が崩れ、その場に屈み込んだ。手に取るように分かる自分の変わりようが、初めて悍ましいと感じた。
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