夜の海

 白いサンダルの裏にはまだ砂漠の砂が残り、分厚い専門書は角が折れてしまっている。2011の時が並ぶスケジュール帳はもう使えず、エジプトポンドが入った赤い財布も必要がなくなってしまった。それとなく財布を開けば、お守り代わりに入れていた日本円の福沢諭吉と目が合う。これを使うことも、もう無いのだろう。ここではただの紙切れだ。

 遠くから微かに改革の声明を喜ぶ余韻を乗せた人声が、私の耳を通り抜けては消えていった。

 夜は随分前に更けたのに、宴はまだ続いているらしい。今夜は誰も眠ることを知らない。民も臣下も、このエジプトという国自体が、彼の出した声明に喜び、夜の海に舟を出し、火を灯して歌い、踊っている。宴の席にいた時だって、私の周りを男女の踊り子がこれでもかというくらい舞っていたし、いつもなら真っ暗な柱の間の外も点々と明かりが揺れていた。とにかく何もかもがお祭り騒ぎ。

 それでも夜の暗さがしとしとと足音を忍ばせてくるにつれて、私の瞼は次第に落ちかけ、今は何とか堪えているといった状態だった。何だかんだで緊張の上に緊張を重ね続けたような一日だったのだから、眠気が来ないはずがない。


 部屋の隅に揺れる炎の橙が手元のショルダーにその色を混ぜて影を伸ばす。床に座りこんだ私を囲むのは、現代の色を残す物たちだ。

 初めてここに落とされた頃、現代が恋しくて帰りたくて、何度も何度も縋り付いた数少ない私の荷物。観光で回っていた時の荷物だけだから必要最低限のものしか入っていない。それらに手をそっと置いて目を瞑れば、今でも瞼の裏に懐かしい世界の景色が浮かんでくる。

 黒い電線に覆われた空に、電車やバスや車の音。高く聳えて景色を遮ってしまうビルに、どんな暗闇でも照らし出し、真昼のような光を生み出す蛍光灯。

 消えてしまった訳ではない。消えるどころか、今も鮮明に私の中で息づいている。

 唯一のもとの世界との繋がりとも言えるこれらを手放すにはどうしても勇気が要る。いくら手放しがたくとも、けじめをつけるためにも、もう手元に置いておくわけにはいかなかった。私からあの時代に別れを告げたのだから。

 並べた懐かしい物たちを撫でたら胸が痛んだ。


 それにしても、と前屈みだった身体を起こして部屋の入口へ目をやった。

 彼は、いつ来るのだろう。

 身体に香油を塗り、普段より飾り立てられた寝間着に着替えて、最後の仕上げにとネチェルが私の髪に小さなハスを差して出て行ってからもう数時間は経っている。

 侍女に囲まれて着飾られている時は、生まれてこの方感じたことのない緊張に板挟みにされて潰されそうだったのに、今では待ちくたびれ、彼の部屋から自分の部屋へと移動し、荷物の整理を始めてしまっている始末。気を紛らわすために始めた作業に熱が入って、整理と思い出に浸るのでいっぱいになっていた。

 もしかしたら、今日は来ないのだろうか。

 寝台に座っていたらそのまま眠ってしまいそうだからと床で作業をしているものの、このまま来ないとなるとさっさと寝具に埋もれて夢の中に飛び込みたい気分になる。

 いや、でも。それはさすがに駄目だと頭を振って浮かんできていた考えを打ち消した。

 うーんと一人で唸っていたら、そわそわし始め、また緊張がぶり返してきて、どうしようもなくなって、ついに堪らず立ち上がった。行く宛もなく立ち上がったものだから、私の足は迷う様に行ったり来たりを繰り返し始めた。

 この緊張を早く解いてしまいたい。早く寝て、朝を迎えてしまいたいというのが本音だけれど、夜が明けるまでの内に起こるであろうことを考えたら耳朶まで燃え上がりそうになって、ぶんぶんと首を横に振って紛らわした。


 落ち着いて。落ち着くのよ、弘子。

 まずは深呼吸。深く吸って、吐いて。うん、そう。大丈夫。


 大人しく待っていよう。そうしよう。本来の彼の部屋で座って待っていた方がいいに決まってる。

 ただ一緒に夜を過ごすだけの話だ。今まで壁一枚を隔てていくつ夜を越えたかを考えれば、一晩などどうってことないはず。好きなのだから、よぼよぼになるまで添い遂げると決めたのだから、夜を過ごすなど当たり前のことだ。

 もう結婚式のようなものも終えた訳で、周囲は私が彼の妻となったと認識した。歴史と戦うなんて大層なことを言っているのに、これだけで挙動不審になってどうする。


 よし、と気合を入れ、彼の部屋へと繋がる四角にくり抜かれたそこに足を踏み入れようとした時、目の前にぬっと影が現れ、勢い余った私は見事、それに額を衝突させた。

 驚いた拍子によろめいた私の肩に手が伸びて、支えられたと思ったら、突然彼の顔が視界に現れて変な奇声を上げてしまった。勿論のこと、顔を見て変な悲鳴を上げるような相手ではない。ぬっと、なんてそんな擬音語が似合うような相手ではないことも重々承知。


「大丈夫か」


 彼がいた。宴の時の輝く装飾品をすべて外した、いつもより自然な姿で、ただ香油だけが香っている。金の腕輪がない姿は何だかとても新鮮だった。


「何を変な顔をしている。本当に大丈夫か」


 本気で心配するような顔で投げられた掛け声に、こっくんこっくんと何度も縦に首を揺らす。


「すまぬ、話し合いが長引いたのだ。待っただろう」


 私から手を離し、彼はすまなそうに笑みを浮かべた。

 先程の余韻で未だに変な声が出そうになるのをどうにか喉で押し留め、今度は数回横に首を振って返した。話し合いがテーベやメンネフェルに関わることだろうから、文句なんて言うつもりはこれっぽっちもない。むしろ、私が待っているからと急いで来てくれのだろう。


「私は大丈夫。お疲れ様」


 私の返事に、彼は嬉しそうに頷いた。


「先に寝ていたらどうしたものかと考えていた」


 ふわりと困ったように笑い、その人の指が私の髪を飾るハスを小さく撫でる。直に触られているわけではないのに、それだけで体の芯が熱を持ったのを感じて、どうしたらいいか分からなくなった。


「待たせておいて悪いのだが、もうしばし待て。今夜中にこれを書き終えなければならぬのだ」


 そう言って右手に持つパピルスの巻物を私に示した。何かの書類のようだ。


「すぐに終わらせる」


 私の髪を軽く撫でてから、すたすたと横を通り過ぎ、そのまま炎の近くの机に腰掛けて作業を始めてしまった。

 残された私は一人立ち竦む。彼が部屋にやって来て緊張が走り抜けて行ったのに、そんな反応をされてはこちらが拍子抜けと言うもの。がちがちに固めていた覚悟が無残にも崩れ落ちて行った。


 褐色の背中に歩み、彼の手元に自分の影が伸びないように注意しながら覗いてみる。パピルスの上に綴られていくのは彼の筆跡で並ぶヒエログリフ。所々に数字を表す棒や点も沢山あるから、おそらく計算をしているのだろうということだけは分かった。

 確か、この時代には無を示す「ゼロ」という概念はない。正確には数学が発達していて無理数の存在さえ知っていた古代エジプト文明では、ゼロの存在に気づいていたのに発達しなかったのだと言う。

 ゼロがある世界が当たり前の私にはゼロ無しでどんな風に計算しているのかは謎だけれど、すらすらと彼の手が動いて黒い炭のインクをパピルスに伝わせていくのを見るとそれほど不便という訳ではないらしい。


「……何か、建てるの?」


 彼が計算するものと言えば、神殿やら王宮やらの建設で使う石の量や作業員の人数などなど。こんな専門職がやりそうな仕事はこの時代、すべてファラオが行う。王様なんて贅沢三昧の中で生きて、のらりくらりやっているだけかと思いきや、4歳の頃からこの国の王子として数学や軍事関連、水泳、洋弓、乗馬、言語、文字、政治を学ばせられたファラオである彼は、決してゆったりできるご身分ではないということをここにきて初めて知ったことでもあった。


「まあ、何かと言えば何かだが」


 私の問いに彼はすっと顔を上げてから、意味ありげな視線を私に向けてくる。


「王宮?それとも神殿?テーベに建てるものでしょう?」


 思いつくものを挙げてみるものの、その人は何も答えず、炎のせいで橙が混じる淡褐色にじっと私を映してから、しばらくして喉を鳴らして笑った。


「教えぬ」


 きょとんとした私を、彼はまた面白いと言って笑う。あまりにも楽しそうに笑うものだから、何で笑うのかという疑問も喉の奥へ引っ込んでしまった。


「ヒロコには教えぬ」


 その後に秘密だと、口に弧を描いた。

 この夜に早速隠し事だなんて、と口先を尖らせるも懸命にペンを走らせる背中を見ていたら、それ以上問い詰める気にもなれない。

 仕方なく、散乱している荷物の方に踵を返した。ここまで言われてしまったら聞いても教えてくれないのがこの人だ。

 彼が作業を終えるまで待っていようと寝台に腰を下ろし、荷物の整理を再開させた。


「準備は、済んだのか?」


 不意に声がかけられた。


「明日の出発は昼だが」


 明日、私たちはこのアケトアテンの地に別れを告げ、北方の古い王宮へ向かう。古代エジプト発祥の地、メンネフェルへ。

 心機一転のいい機会でもあるから、最低限のものだけを残して、現代へと私の後ろ髪を引いてしまう服やら携帯やらはすべてこの地に置いて行こうと決めていた。


「もとから少ないもの、明日から始めても問題ないくらいよ」

「そうか」


 彼が再び自分の手元に視線を戻したのを見届けると、私も荷物を改めて見渡す。

 服と靴、あとはウンともスンとも言わない携帯に細々としたものは置いていくとして、医学の専門書は何かの役に立つかもしれないから持っていく。鏡もお財布もハンカチも、ここでお別れ。あとは、と周りを見渡して、スケジュール帳の中の写真を思い出した。2011の文字が書かれたそれを開くと、20枚くらいの写真が溢れて膝の上へはらはらと落ちた。

 こんなに沢山。写真を貰うたびにこれに挟んで整理の機会を失って、そのまま増え続けこれだけの枚数した自分に呆れて笑ってしまう。

 お父さんとお母さん。現代の風景。日本とエジプトの景色。良樹とメアリー。私の学校。これが数少ない荷物の中で一番、一番大事なもの。

 本当なら肌身離さず持っていたいけれど、写真というものが、一番心を揺らすものだということも知っている。それに、エジプトの王妃の名を選んだ以上、私にこれを持っている資格はない。

 一枚一枚をそっと撫で、畳んだ服の上に丁寧に添えた。もう二度と、私の決意を鈍らせないために、決心をより固いものにするためにもこれらとは別れなければならない。両親や懐かしい風景を忘れないようにとしばらく眺めて目に焼き付けていた。


 最後に何も残っていないか確認するのに、ショルダーを逆さにして振ってみると、ひらりと床に落ちた最後に残った現代の色があった。あまり記憶にないもので、すかさず手に取って確認してみると、何であるか分かった途端に自分の身が硬直するのを感じた。ツタンカーメンの経歴が綴られた折り曲げられた冊子──ルクソール博物館の、パンフレット。

 床に膝をつき、呪いにでも触れるかのような素振りでパンフレットを眺める。こんな薄っぺらの冊子に、持つ手が震えた。いっそのこと破り捨ててしまいたい、彼の死を記すものだ。

 それでも、私が未来を変える何かをして、彼の若くして死ぬという事実がなくなれば、ここに述べられた史実とされる文章は姿を変えるはずだ。そう考えれば歴史と戦う何よりの武器になる。証拠になる。捨てられない。


「何を見ている」


 声と共に、いきなり私とパンフレットの間に手が伸びてきて、私からそれを取り上げた。


「何を難しい顔をして見ているのかと思えば……未来の書物ではないか」

「駄目よ、返して」


 何が起きたのかをすぐに知って、いつの間にか向かいに腰を下ろしていた彼に手を伸ばした。けれど彼の腕は私の身体を絡め取って、動きを封じてしまう。


「お前の時代のパピルスは随分と丈夫だな。手触りも違う。実に興味深い」

「アンク、お願い。返して」

「そのように声を荒げる程のものか?なんだ、昔の男から送られた何かか……さては、ヨシキか?」


 片手で器用に冊子を開いた時、彼は読めない未来の文字の中に何かを悟ったのか言葉を切った。中に並ぶのは、現代のライトで幻想的に照らされた多くのファラオの遺物。今とは違い、数千年の年月の為にひび割れ、色褪せて朽ちた悲しい色合いの写真がある。察しの良い彼ならば、私の反応とそれらを繋げてすぐに勘付くだろう。


「これか」


 私を抑える腕の力を緩め、ぽつりと零した。


「あの時も見ていた」


 私が彼の本名を聞いて、別れる決意を固めた時のこと。

 私はこれで、彼の未来を知った。


「もしやこれに」


 怯えるように彼の片腕の中で小さくなる私に、彼は問う。


「私の生涯が書かれているのか」


 僅かに目を伏せ、その目元に睫毛の影を落としながら私を見つめる。

 どうしてそんな表情が出来るのだろう。静かな表情が見ていられず、私は顔を背けた。

 黙りこくる私に、その人は聞こえるか聞こえないかくらいのため息をつき、それを床に置いてページを捲っていく。

 この時代にはない、艶のある紙は、灯りに照らされてとても奇妙なものに見えた。


「……読めぬな、一文字も」


 しばらく経ってから、彼は穏やかに呟いた。

 アラビア文字は紀元前3年頃、つまりこの時代から約1000年後にやっとのことで原型ができる文字だ。彼には読めない。この世界で今、唯一私だけが読める文字だった。


「ヒロコ」


 宥めるように私の背を擦り、私を呼ぶ。言われることが分かっていたから、何も答えず顔を両手で覆った。何も聞きたくない。


「これを読んでほしい」


 あなたはいつもそうだ。私の気持ちなんて、無視してしまう。

 分かってない。強引で、我儘だ。


「……絶対に嫌よ」


 俯いたまま、低い声で答えた。どうしてこんなものを声に出して読んで、教えなければならないのだろう。死因など、死ぬ時期など、どうしてこの口で語らねばならないのだろう。私たちにとってはまだ知らぬ未来だ。来るかも分からない、むしろ来てほしくはない願わぬ未来だ。


 頑なな私に、彼は困ったと小さく漏らして私の顔を覗いてきた。顔を上げろと言うように指が顎を伝ったのを感じて、唇を噛みしめながら少し頭を動かして相手を見つめる。きっと睨んでいる、歪んだ表情。でもこの顔を崩したら、泣き出してしまいそうだった。

 そんな私の頭をそっと撫でる手があり、見えた顔には困ったという苦笑が浮かんでいる。肩に流れる黒髪の間に指を絡め、私の頭にその額を寄せ、彼は徐に口を開いた。


「戦うにはまず何より、相手の情報が必要だ」


 私たちが迎え討とうとしているのは歴史という目に見えぬ敵。それに繋がる手がかりはこれだけ。そうではないかと尋ねられながら、私は何も答えなかった。答えたくなかった。


「それに書かれているのは私のことだ。私には知る権利がある」


 言ってしまえばここに書かれているのは彼の生涯で、彼が知る権利は十分と言えるほどある。私だけに留めて置くものでもないことも。──でも。


「これを知ることにより、私もいろいろと気を付けることが出来よう。私とて、早死には出来るのなら避けたいからな」


 熱を帯びた指が私の額からこめかみへ、そして髪先まで辿っていく。髪でさえ熱を持って、言葉にしがたい思いを身体中に駆け巡らせる。


「やっとヒロコを妃に出来たというのに、みすみす死にたくはない」


 流れる声にただ耳を傾け、その人を見つめた。私の頬を撫で、彼は床に置いていたパンフレットを手に取り、私の前に差し出してくる。


「頼む。未来で語られる私の生涯を教えて欲しい」


 そんな縋るような声で言われてしまったら、抗う理由も分からなくなってしまう。

 読みたくないという気持ちが、単なる現実と向かい合いたくない私の弱い心が生み出したものだと思い知らされる。一度大きく呼吸をして目を伏せてから、憎いとさえ思えるパンフレットに、震える手を伸ばした。

 さあ、と促されて私は読み始めた。ツタンカーメン、悲劇の王と呼ばれるその人のこれから歩むとされる人生の概略を。あらましを。


 なんて淡々と書かれた文章だろう。人の人生の喜怒哀楽を一つも感じさせない。これを綴った人は、この人物が遠い昔に自分と同じように息をして地を踏みしめて生きていたことを想わなかったのだろうか。血の通った人間であったことを、想像しなかったのだろうか。

 そもそも歴史を綴るもののほとんどがこういうものだ。多くの想いや決断などで何十年、何百年、何千年と積み重ねられて来たものが、たった数ページに綺麗に起承転結でまとめ上げられる。何年に誰が何を行って、どうなったか。それだけが抑揚なく。


 途中で上擦ったり、途切れたり、彼が全部聞き取れたか分からなかったが、上下に揺れ始める自分の肩に置かれた確かなぬくもりを感じながら私は最後まで読み上げた。

 しんみりとした沈黙の中、彼は私に顔を寄せる。


「そうか。テーベへの遷都までは確実に生きているのだな」


 彼は考えるような素振りをしてからそう呟いた。

 ツタンカーメンはテーベへ都を戻したことが唯一の治績とされている。その前に命を落とす可能性は極めて低い。少ない知識と冊子の文字を照らし合わせながら、彼の腕の中で頷くと、相手は良かったと言って笑った。


「テーベに都を戻せば国も安定する。その前に死なぬのなら、良い」


 気がかりが一つ減ったと、胸を撫で下ろし、彼は私の頬に唇を落とす。


「よく読んでくれた」


 優しい声を聴いたらまた目頭が熱くなった。死ぬだなんて言葉をその声で聴くと、胸が引き裂かれてしまいそうだ。

 王妃という立場を選んだ以上こう何度も泣いてはいられないと思って必死に涙を押し込んだ。

 頬を辿った柔らかさが離れた時、私が見たのは彼の寂しそうな瞳だった。いつも自信に溢れ、陽気に笑う姿とは相反するその表情。

 分かってる。私より、あなたの方がずっと堪えていることくらい。自分の悲惨だと言われる未来を聞かされて、一番胸を痛めているのは、あなたということくらい。私が慰められている立場じゃないことくらい、分かってる。


「大丈夫……」


 私の放った声も擦れていた。綺麗とはお世辞でも言えない、笑ってしまうくらい頼りのない声だと思う。


「大丈夫だから」


 彼の頬に手を伸ばし、繰り返し同じ言葉を相手の耳元に囁く。

 彼を安心させたい、そういう思いもありながら、こう繰り返すのは多分、自分でも安心したかったからなのだろう。この人を失う訳がないのだと。


「あなたを死なせはしないわ」


 褐色の首元に縋って、何度唱えてきたか分からない言葉を繰り返した。

 彼の髪が頬に擦れる。彼の息遣いが鼓膜を侵す。


「あなたは私が守る……絶対に」


 そのために生まれ育った時代を、私は捨てた。


「そう言ってくれるのは嬉しいのだが」


 私の身体を柔らかく抱き締め、彼は苦笑を漏らす。


「妻が夫に言うような言葉ではないな」


 よしよしと背中を擦り、私を深く抱き込む。彼の胸元に自分の耳を押し付けるようにして聞こえた彼の鼓動に目頭が熱くなった。

 仕方ないじゃない。私が守らないといけないのだから。私しか、いないのだから。

 そう言い返してやりたいのに、今にも泣きそうで、泣いてしまいそうで、彼に回す腕に精一杯の力を込めた。


「ヒロコ」


 離れるよう肩に力を加えられ、二人の間に若干の距離が生まれる。長い指が俯く私の顎を伝い、そのまま上げられた途端、唇に熱が触れた。

 ほんの一瞬。ふわりと。

 気づいた時には彼の嬉しそうな、少年のような顔が目の前にあった。


「ヒロコの唇はやはりハスだ」


 何をされたのか気づくや否や、ばっと私の身体に熱が弾けて呼吸を止める。


「愛おしい。何もかも」


 彼の紡ぐ言葉が耳を掠めた後、ぬくもりを帯びた手が私の顎を掴み、柔らかく唇を重ねた。

 静かに、それでも次第に激しく。緊張に強張った私の身体を更に引き寄せ、吐息を絡める。抵抗の声は絡められた舌に奪われ、舐められる間に溶けて消えた。


 彼の身を案じる不安も、自分に残された疑問も、いつか失うのではないかという恐怖も、歴史に対する虚しさも、溢れてしまいくらいに今の私の中で渦巻いている。足も腕も、私のすべてが未来を前に竦んでいる。それでも彼に抱き締められていると何故か安心して心が和いだ。

 彼をこの目で、この手で、身体全部で感じたい。彼に触れ、声を聞き、存在を強く感じる程にその欲求は大きくなって抑えられなくなる。

 唇が離れ、堪らなくなって彼の首に腕を伸ばしてしがみ付くと、待ちかねていたように身体が抱え上げられた。

 この人の呼吸を耳にして落ち着く原理なんて分からない。分からなくても構わなかった。


 抱えられている間、心臓は早鐘を刻み、胸を押し上げるようだった。

 鼓動で胸が壊れてしまうのではないかと思うくらいの柔らかさが背中に広がり、薄く開けた視界が彼で満ちていた。

 寝台の軋む音を背景に彼の吐息が近づき、再びどちらからともなく互いの口先が合わさる。唇から伝わる甘さに埋もれてしまう。角度を変えて熱を交わし、二人の吐息が間に溶けてはぬくもりを落として消えていき、やがてはどちらの息かさえ分からなくなる。

 ようやく熱が離れると、彼はこちらの顔を覗いて額にかかる私の前髪を撫でるようにして払った。


「──ヒロコ」


 互いに見つめ合う中、沈黙に溶け込む声で息を乱す私を呼ぶ。発音しきれてないこの名を、その声で。

 強い眼差しに息が詰まってしまいそうな感覚に陥りながらも、途切れた声で呼び返す。

 名前を呼び合えていること、こうして触れ合えているという事実に胸がいっぱいになって、さっきまで闇雲に堪えていた涙が一気に涙腺を破って目尻を辿り、落ちていった。頬を雫が滑り落ちて行く感触に唇が震える。

 この人に出会って、私はどれだけの涙を流しただろう。


「……どうした」


 彼がそっと、私の瞼に触れる。涙の軌跡を辿り、目元から顎までを指先で拭う。肌で感じる優しさが嬉しくて、また新たな一粒が零れた。見えた彼の表情は小さな戸惑いを孕んでいる。

 彼の指を頬に感じながら、私は相手に微笑みを返した。


「嬉しい」


 霞む視界に浮かぶ愛しい人の頬に片手を伸ばして包む。

 闇に灯るその人の褐色はとても綺麗だった。私の黄色の肌なんかよりもずっと。


「あなたがここにいて、あなたの腕が、背中が、声が、ここにあって……あなたに触れられていることが、泣いてしまうほど嬉しい」


 このまま、涙腺が壊れてしまうのではないだろうか。こんなに泣いていたら、いつか涙が出なくなってしまう日が来るのではないだろうか。


「涙が止まらないほど、嬉しいの」


 そこまで言い切ったら、また涙の量が増す。彼の指は涙を追いかけ、目元から顎までを辿って行く。

 そうかと零した後、最後にまた息が止まるほどの長いキスをくれた。


 家族を捨てた。友達を、幼馴染を捨てた。時代を捨てた。それでも後悔なんてしない。これまでも、これからも、私はこの時代に残って王妃の名を受け入れたことを、誇りとして生きていくのだろう。


「好きよ……あなたが大好き」


 離れた熱が灯る唇で発した言葉に、彼は色めいた眼差しで柔らかく微笑み、伝う私の涙に口づける。空気に晒され、冷たい跡を残していたそれが再び発熱し始める。


「……本来ならば」


 何かに思いを馳せるような趣を含んだその声は大きく私の胸を揺さぶった。

 手が動いて、私のこめかみにあるハスを静かに抜き、その白が寝台の下へと落ちていくのを視界の端に見る。


「こうして手を重ねることも、抱き締めることも叶わぬさだめだったのだな」


 ハスを落とした指が、向かいの私の指に音無く絡む。絡み合う指に力が加わり、二人のぬくもりが合わさってその熱を上げていく。

 汗ばもうが何だろうが、もう関係ない。彼の何もかもが愛おしくて、どうしようもない。


「会うことさえ許されぬ定めだったのだな」


 そうね。私たちは本来なら出会わなかった。

 現代ではあなたは死んでいてミイラで、私は古代のことなんて全く考えないで平然と生きている存在で。古代ではあなたはこうして生きていて、私はまだ生まれてもいない存在で。見つめ合うことも、笑いあうことも、話すことも、互いの息遣いを感じることもないはずだった。

 そんな中で、あなたの声が時を越えて3300年後に生きる私に届いたのは、どれだけの奇跡だったのだろう。どれだけ、素晴らしいことだったのだろう。


「悠久なる君よ」


 額を寄せ、彼は私をそう呼んだ。


「え?」


 いきなり出てきた言葉に首を傾げて問うと、広がった私の黒髪が麻に擦れてナイルの細波のような音を生む。彼は小さく肩を揺らし、目を伏せて私の左耳に唇を落とした。


「3300年の時を越えた魂を宿すヒロコには、一番相応しい呼び名だろう」


 だから、悠久なる君。

 確かに私の魂が越えた3300年は、遥かな時の流れで、永遠に近い年月かもしれない。

 悠久だなんて、こんな泣いてばかりの私には勿体ないくらいの言葉ね、と笑ってしまう。

 私に釣られるようにくすりと肩を揺らしつつ、彼は再び唇を動かした。


「我、悠久なる君を愛さん」


 私の頬に口付ける彼の髪に触れ、頬に触れる。

 時を越えた魂で、引き裂く物なんて何もないと言えるくらい、愛し合いたい。魂の底から、あなたを想いたい。

 想い続けよう、どこにいても。どんなに時代が阻もうとも。ただ、あなたを。あなた一人の魂を。


「愛してるわ」


 未来を想い、彼の背に腕を回して言葉を返す。

 こんな言葉だけでは足りない。もっと、もっと、それ以上の言葉が欲しい。溢れるものすべてを伝えられる言葉が欲しい。

 でも私が本当に言いたいと思うことを表す言葉はどこにもなくて、彼を思う私の想いは声で伝えられるような単純なものではないことを知る。言葉とは難しい。なんて、役に立たないものだろう。


 彼が呼ぶ。3300年の時を越えた声で。

 私の名を、何度も何度も繰り返し囁いて。


 私は溺れる。彼の熱に、声に、手に、溺れていく。


「永久に共に」


 薄い唇がその声を象ったのを見、私は頷き返して彼に縋り付いた。

 彼の唇が首から肩に伝い、指が私の肌に沿って肩紐を外していく。反射的に身を固くすると優しく肩を撫でられた。胸元が夜気に触れ、身を震わせた私の素肌を彼が温めるように優しく触れたのを最後に、恋やら愛やらの海に飲まれ、褐色の腕の中に私は沈んだ。

 古代の静かな透き通る夜の中で。ゆらゆらと、たゆたいながら。

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