最後に

 茫然と、天井を見つめていた。

 くり抜かれたように作られたこの部屋は、陽の光が入ってこない。もうとっくに太陽は沈んだだろうから、どちらにしろ暗いのは当たり前だった。外から侍医と、彼やネチェルの声が微かに聞こえてくる。

 ぐったりとした身体を少し動かし、何気なく上に視線を向けると、ある物が目についた。21世紀の色を宿す、私の鞄。

 帰る道が絶たれてから触る回数さえ少なくなっていたけれど、ここに来た頃は肌身離さず持っていた私のショルダーだ。

 起き上り、乱れた髪を耳に掛けてそれを手に取る。専門書が入ったそれは、引き寄せるには思いの外、力を要した。

 確か、この中に。

 スケジュール帳を出し、携帯を出し、財布を出し、そうしてようやく姿を現す皺くちゃのパンフレット。

 これだ。

 タイムスリップした日に家族と良樹と行ったルクソール博物館で入場券と一緒にもらった小さな冊子。あの時は中身も見ずに、二つに折りたたんでショルダーに放り込んでしまったものだ。

 懐かしいアラビア語が並ぶ赤茶の表紙を、躊躇いながらも開いてみる。

 カイロ博物館には及ばないものの、秀逸なコレクションと分かりやすい展示は観光客にも人気の場所。収蔵品は中王国時代やローマ帝国時代のものもあるけれど、圧倒的多数はエジプト全盛期、新王国時代のものだった。ツタンカーメンが存在した第18王朝はそのど真ん中に当たる。

 あの日、興奮して良樹を連れまわすお父さんに構わず、私はほとんどの展示物に目もくれずに一周して終わっただけだった。

 パンフレットに並べられている収蔵品の名前を一つ一つ確認していく。

 第18王朝のファラオと呼ばれる人々の名前。トトメス4世のレリーフ、アメンホテプ3世の頭像、アクエンアテンによるアテン神殿壁画。

 そして、ツタンカーメン。彼の顔をした、小さな白石のスフィンクス。

 裏面には、小さな特集が組まれていた。


『当館展示品に関わるファラオたち』


 その中に彼の名を探した。簡単な解説が、載っているはずだった。


『ツタンカーメン Tutankhamun:紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃』


 文字を見つけるなり、息を呑み、うるさく鳴り響く胸を抑えて、その項目に並ぶ文字と数字を追い始めた。


『古代エジプト第18王朝のファラオ 在位年齢9歳~19歳。より厳密な表記ではトゥト・アンク・アメン(Tut-ankh-amen)。

 誕生名トゥト・アンク・アテン。即位名ネブケペルウラー。在位時に一神教アテン信仰から多神教アメン信仰に宗教改革を行う。首都はアケトアテン、メンネフェル、テーベ。王墓は王家の谷KV62。

 1922年、イギリス人考古学者ハワード・カーターより発見される。ミイラは今も王墓内にて眠る。

 幼少時に即位、若くして人生の幕を下ろした悲劇の少年王として有名。その死因には殺人説、事故説、感染説が挙げられているが、損傷が激しく、今なお解明されていない』


 何度も、何度も、その短い文章を繰り返して読む。見ている間に、文字が変わりはしないかとありもしない現象を願いながら。


「ああ……」


 パンフレットを顔に押し付けた。くしゃりと、この時代に存在しない紙が私の耳元で音を立てる。


「そんな」


 3000年ではなかった。私が越えたのは3300年。黄金に包まれ、落された世界は、紀元前1300年だった。


「そんな……!」


 知りたいと思っていた時代が、1年も経った今になってやっと分かった。こんな事実を突きつけられるくらいなら、知らないままの方が幸せだった。

 第18王朝、幼少時に王となったツタンカーメン。悲劇の少年王。

 ここに書かれているのは間違いなく彼のことだ。誕生名も、即位名も、彼が成そうとしていることも、綺麗に当てはまる。

 唯一違うのは年齢だけ。

 彼は今21歳。19歳までならば私と出逢う前に死んでいたはず。

 長い時を越えての情報だから、どこかで違って伝わっているのかも知れない。現代の科学技術においてでも、ある程度の誤差は生じる。過去のことを調べ、その結果がどんなに正確だと唱えても、結局はそれが真実であるか確かめられないのが未来で歴史を調べる上での最大の欠点だ。

 だが間違いなく、若い内に、年を取らない内に何かしらで彼は命を失う。

 21世紀の科学技術で19歳辺りと結論付けられているのなら、その技術の高度さと、生じうる誤差を考慮に入れても、あと数年の内に彼の身に何かが起こるということだ。

 死んでしまう。彼が。

 そう思った途端、恐怖が私を支配する。

 黒くて深くて。不安で。闇のどん底に突き落とされた気分にさせる。


 どうしたらいい。私は、どうすればいい。

 助けられるだろうか。ふとそんな考えが浮かんだ。

 未来の知識で、助けられるか。もし救えるのなら、私は彼を。


 いや、駄目だ。そんなこと絶対に駄目だ。

 頭を振って浮かんだ考えを否定する。

 何を考えているのだろう。何を甘い考えに縋っているのだろう。彼は王族だ。そんな大それた身分の人に存在するはずのない私が関わったら、寿命を延ばすなんてことをしたら、必ず未来に綻びが生じてしまう。

 ファラオの歴史を変え、国全体の未来を左右することになる。間違えれば、とても大きなズレを生み出してしまうかもしれない。

 生まれる人が生まれなくなって、存在しない人が生まれ、私の時代の人々が消えてしまうかも知れない。

 父がよく言っていた。歴史は、人が生きてきた証であり、人類が生まれてからずっと、様々な生や死が、命を懸けた行動が沢山の偶然で重なり合い、初めて成り立って来たものだと。だからそれを崩してしまうかもしれないタイムマシーンなんて、発明してはならないのだと。

 その言葉が、どれだけ重いものだったかを知る。どんな大事な意味を持っていたかを今になって思い知る。


 歴史を、決して変えてはならない。こんな私の勝手な考えだけで変えてはならない。私は、ここにいてはいけない存在だったのだ。私は歴史にとって邪魔な存在でしかなかった。

 彼を愛してはいけなかった。好きになってはいけなかったのだ。何よりそれが、一番どうしようもないほどに辛かった。

 また茫然と天井を見上げる。


 許されない恋だった。私がこの身を捧げてもいいと思えた相手は、共に生きたいと思えた人は、決して愛してはいけない人だった。

 希望も、夢も、明日も。彼の傍で輝き出していた私のすべてが、枯れ葉のように落ちていくのを感じた。


「ヒロコ」


 ゆらりと視線を動かすと、彼がこちらを覗いていた。歩み寄り、私を見るなり驚いた顔をする。


「どうした……泣いているのか?」


 知らず知らずの内に頬に伝っていた涙を、彼の手が拭った。

 その手も。その声も。腕も、瞳も。何もかも。失う時がやってくる。それも数年間という近い未来に。


「侍医が困っていたぞ、原因が分からぬと」


 殺されてか、病死か、事故死か。あなたは死んで、ミイラにされ、あの狭いお墓の中で3300年間も眠り続ける。ハワード・カーターに発掘された今もなお。あんな黒ずんだ、面影さえ残さないミイラになって。


「荷物を広げて……また、父母のことを考えていたのか?」


 優しい手だ。柔らかい微笑みがすぐ近くにある。生きている証を感じたら、より一層涙がぼろぼろと零れ落ちた。


「話せ。何でも聞くぞ」


 不安を和らげようとしてか、けろりと笑って、その人は寝台に腰を下ろした。

 抱き寄せて、頬を、髪を撫でる。私の髪を、その指が梳いて行って、私の身体の熱を上げていく。


「ヒロコは変な女だな。ここまで何度も泣かれると逆に笑えてくるぞ」


 あなた。

 ツタンカーメンの名を持つ、その名で死にゆく未来を持ちながら、今を生きるあなた。

 涙が滴り落ちるのを感じ、ただその人を見つめる。見つめて、その頬に手を伸ばすと、彼が手を取って愛しむように口づけてくれる。どうしたと、優しい言葉を囁きながら。

 もし、この人に傍に居続けて。この人が死ぬ時になって。病気や、事故があって、今にも死にそうで。未来人である私の力で助けられる状態であっても、私は手を出してはならない。彼を助けようとしてはならない。

 ここに、彼の傍に残ると決心するならば、この手が冷たくなって氷のように固まるのを、私は見届けなければならない。歴史を、崩さないために。

 私にそれが出来るのだろうか。歴史を変えないために、何もせず彼の命が消えていくのを、ただ傍観することが出来るのだろうか。


 出来るはずがない。助けようとしてしまう。歴史を変えてでも、彼を救おうとしてしまう。

 私はそれほどに彼が好きだ。そうなら。それならば、私はもう。


「……だ…しめて」


 掠れた声が、途切れて漂った。


「ん?」


 彼が俯く私を覗き、顔を近づける。


「私を……抱き締めて」


 小さな戸惑いが彼の表情に一瞬過った。


「……お願い」


 彼を見殺しにできない、未来を変えてしまうかも知れない私に、答えは一つしかない。それしかない。


「ヒロコにしては珍しい台詞だな」


 少し驚いた素振りを見せながらも、微笑んで私をその胸に招き入れる。その腕の中に沈めてくれる。存在を確かめようと、私も彼の背中に腕を回してしがみ付いた。

 胸の鼓動が、私の鼓膜を叩くたび、どうしようもない感情が押し寄せた。嗚咽が止まらなくなって、肩が上下し始める。


「泣くな」


 背中を彼の手が擦る。擦って、私を強く抱きしめてくれる。それでも、壊れ物を扱うかのように優しい強さだ。

 泣きながらその匂いに顔を埋め、嗚咽の中で好きだと言葉を乗せた。彼に聞こえないほど崩れた、虫のような声だったとしても。

 離れたくないと、失いたくないと心が悲鳴を上げる。彼には嗚咽としか聞こえていないだろうけれども、言葉で伝わらずとも、私の力の入らない腕から伝わればと願う。


「どうしたのだ、ヒロコ」


 静かに呼んで、私の髪を撫でる。


「案ずることはない、私がいるのだからな」


 その声。

 3300年の時を越えた声。KV62で聞こえた声は、そんな悠久の時を越えて私に届いた。


「お前には私がいる」


 これを最後に。そう思ってもう一度、彼に回す腕に出来る限りに力を込める。私にとって、精一杯の力を、想いを。

 その瞳を見ることも。この腕に抱かれることも。その声を聞くことも。すべて、最後にしようと。私はそう、心に決めた。


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