時を越えて

 ナイルの氾濫が起きた日の夜も、昼の賑やかさは変わらなかった。

 未だにナイルには灯りを灯した小舟が揺蕩たゆたい、その上で人々が歌って踊っているのが容易に想像できる。空が暗くなっただけで、他のものは何ひとつ変わっていないかのようにも感じられた。


 自分を取り巻く強い酒の匂い。楽器の音、思い思いのナイルへの感謝を讃えた歌声。宗教改革の決断を下した時の宴も大勢の人がいたが、あの時以上の盛り上がりを見せていて目が回ってしまいそうだ。

 とにかくお酒、お酒、お酒。どこを見回しても、顔を真っ赤にして笑っている人たちばかり。彼らの手には決まったように杯が握られ、笑う度に並々と注がれた葡萄酒が床に零れていた。


 ナイルの氾濫が起きた日は、日本で言えばお正月のお祝いに当たるものの、全く雰囲気が違っている。料理の量も半端じゃない。踊り子の人数もいつもの倍で、音楽の大きさもいつも以上。

 彼と私の席を中心として、その右側、私の隣にカーメスとセテム、左側である彼の隣には宰相ナルメルを含む大臣たちが座っていた。

 広間の奥の席には、ネフェルティティが鳥の羽根で作られた柔らかな扇を口元に当て、優雅にお酒を口元に運んでいる。美しいその人の身のこなしすべてに、同性の私まで惚れ惚れとしてしまう。人とは違った不思議な雰囲気をまといながらも、先日の宴で自分の父親が不利になるのにも関わらず彼の決断を褒め称えてくれた彼女には、ちょっとした好感が私の中で芽生えていた。

 彼女の父親であり、権力が半減することになったアイの姿はない。その代わり彼女の隣には、彼女の気を引こうとしているのか、あのエロ将軍ホルエムへブがお酒の壺を自ら抱えて注いでいる。当の彼女は注がせるだけで、全く将軍に見向きもしていない。若干可哀相な気もした。


「姫様は飲まないのでひゅか?」


 普段ならお酒を飲まないカーメスが、突然私に声をかけてきた。


「私は大丈夫だけど……カーメス、あなたは大丈夫?」


 どれだけ飲んだのか、カーメスはこれでもかと顔を真っ赤にさせて、ほとんど潰れた状態だ。


「何を仰るのでひゅかあ!私はまだまだ飲めまひゅ!全然酔ってまへん!!そこの御方!私にも注いでくだおくれへぬか!!」


 あちらこちらとお酒の壺を抱えて走っている女官の一人に、カーメスは杯を降るようにして呂律の回っていない声を響かせている。


「はい只今!」


 慌てて重そうな壺を抱えてやってくる女官たちは随分忙しそうだ。


「実においひい!これほどの幸せがありまひょうか!!」


 呑みながら叫ぶ将軍を見て、もう駄目ねと笑ってしまった。

 その奥のセテムは黙々と飲んでいるから酔ってないのかと思いきや、目がとろんとして今にも眠ってしまいそうな様子。この人はお酒飲んだらより一層無口になるようだ。


「なかなか面白いだろう」


 耳元に声がして隣を見やれば、私のすぐ隣に座る彼がこちらに顔を寄せていた。言うまでもなく、その手には誰よりも立派な杯が握られている。


「カーメスもセテムも酔い方が笑えるのだ」


 けらけらと私の肩を抱いて笑った。


「時間が経つに連れ、カーメスは何を言っているのか分からなくなる。セテムは指一本でつつけばその場で倒れて爆睡だ。こういう機会でないとなかなか見られぬ、貴重な光景だぞ。よくその目に焼き付けておけ」


 そう言うなり、彼の指が肩に垂れた私の髪をいじり始める。くるりと長い指に巻いては離して、また巻いて。その行為が、何気ないふりをしている私の熱を上げるのに、あなたは気づいていないのかしら。

 恥ずかしくて、でもその手を払う気にもなれなくて、私は黙って両手に包んで持つ杯の水面を見つめている。それでも気になってちらと横目で彼を見れば、また鮮やかな紫の液体を口に含んではその褐色の頬に紅を混ぜていた。


「アンク」

「ん?」

「お酒の飲みすぎは駄目よ。身体に良くないわ。そんなに飲んでいたら肝臓に負担が掛かっちゃう」


 あまりの飲みっぷりに耐えられなくなって、注意を促してみる。


「カンゾウ?何だそれは」

「人の大事な臓器よ。それが壊れたら大変なの。生きていけなくなるわ。お酒が原因で死んでしまうこともあるのよ」


 そんな簡単な説明しか出来ない自分がもどかしいが、ここでアルコール分解酵素の名前を並べても分かってくれるはずがなかった。


「ねえ、聞いてるの?お酒はほどほどに……」


 説明している最中に、妙なざわめきが続きを遮り、彼の意識が向こうへ逸れてしまう。


「ファラオ」


 柔らかな女声と共に、一風変わった雰囲気をまとった人たちが、周囲の視線を独占しながらずらずらと10人ほど並んでこちらへ向かって歩いてきていた。


「御側室様方だ」


 誰かがそう呟くのを聞き、不安のような何かがぽつりと胸に落ちて、じわりと広がる。


「来たか」


 杯から口を離し、彼はふうと色気の混じる息を吐くと、お酒の強い匂いが私の所まで漂ってきた。


「お待たせいたしました」


 目の前に女の人10人がずらりと並んだ。大人の女性、と説明するのが相応しい、落ち着いた物腰。様々なかつらや飾りを身に付けた彼女たちは、私よりもずっと美人でかけ離れた存在のように感じられた。

 美しい色の石でできた大きな耳飾りが、身体を滑らかに動かすたびにキラキラと揺れ動き、思わず息を呑む。この人たちが噂の側室かと、ぽかんと見上げている自分に気づき、急に恥ずかしくなって俯いた。


「今年も豊作の兆しがすでに見えているようで、私共も大変嬉しく思います」

「私たちをこの宴に呼んでくださったこと、心より感謝申し上げます」


 誰もが見守る中、彼女たちが十人十色の挨拶を言い終えると、彼はいつものように笑みを浮かべて頷いた。


「座ってお前たちも飲むと良い。今日は特別な日だ」


 その言葉で、カーメスとセテムやナルメルたちが席を開け、私と彼を囲むように彼女たちが座り込む。どこに視線をやっても、慣れない美人ばかりという状態に陥ってしまった。


「また、雄々しくなられましたのね」

「まあな」


 側室の一人が彼の肩から胸に触れ、首をくにゃりと傾げながら言うと、彼も笑って返す。


「まだ狩りもやっておりますの?」

「いや、久しくやってない」

「あら、お目にかからない内に御顔も随分とお母君に似てまた一段とお美しくなられましたのね」


 違う人の手が、今度は彼の頬に伸びる。


「母の顔は覚えておらぬ故、何とも言えぬな」

「あらあら」


 笑い声がくすくすと周りに交差する。居心地の悪さを覚えて、俯いたまま自分の膝元の麻を握りしめた。

 私、ここにいていいのかしら。一人だけ浮いている気がする。


「さあ、何か食べさせて差し上げましょう。何がよろしいですか?」


 10人中5人はお酒の壺を持ったり、食べ物を捧げるように彼に向けたりして、彼を囲んでいる。


「酒を」

「はい、どうぞ」


 彼は注がれるままお酒を再び口に運んでいる。お酒はほどほどにと注意したばかりなのに、私の言葉なんてもう忘れてしまったよう。そもそも、彼にとって私はそれくらいのものでしかないのかもしれない。

 大勢の女性に囲まれて悠々としている姿に、随分と女性に慣れた人なのだと嫌でも分かる。足を組んで、何でもかんでもしてもらっているその姿がそれを物語っていた。

 口から零れた葡萄酒を拭ってもらって、口に食べ物を入れてもらって、挙句の果てには私を抱く腕とは反対の腕で側室の一人を抱き寄せて。

 彼の振る舞いに無性に腹が立ってきて、お酒に溺れていく彼の手を強く払ってしまった。そんな私を彼は訝しげに見たものの、すぐにお酒にその視線を戻し、再び側室の人たちに澄ました笑顔を向ける。

 また笑って。飲んで。触られて。頬を摺り寄せられて。追いやられた私は身を小さくして、彼から目を逸らした。


 嫌だわ。ここにいたくない。


「あら、姫様はお飲みになりませんの?」

「い、いえ。結構です」


 声をかけて来た隣に座る側室の視線を避けながら、控えているネチェルの方を見やる。視線に気づいた彼女は、すぐさま私の傍に腰を低く落として来てくれた。


「いかがいたしました」

「部屋に戻りたいの」


 驚いたかのように彼女は目を瞬かせ、私の隣の彼をちらと見やる。


「しかしファラオはまだ」

「彼はいいの、私だけ」


 囁きかけるように頼み込み、私はネチェルと共にその宴の席を抜け出して楽しそうな側室たちの笑い声を背中に受けながら宴の席を後にした。







 身に付けていた煌びやかな飾りを取り、化粧も落として、寝間着に身を包み、深いため息をついてから自分の寝台に腰を埋めた。そのまま両手で顔を覆って先ほどのことを思い返す。


 ああ、もう。

 胸に蟠りがある。顔を両手で覆ったまま、一度深く呼吸をした。


「……嫉妬」


 私の苛立ちの原因であろう、その感情の名を小さく呟いてみる。落ち着いて考えてみれば、蠢く感情はきっと嫉妬、あるいはやきもちなのだろう。

 女の人に囲まれている彼が嫌だった。感じたことのない感情ばかりで、自分がどうしたいのかも分からなくなってしまう。

 今も彼があの人たちの肩を抱いて、お酒やら料理やらを口に運んでもらっていると思うと嫌で仕方なくて。ならば自分も同じようにすればいいのに、それも出来なくて。


「……変」


 寝台にうつ伏せに身を投げ、麻に頬を押し付ける。私は変だ。

 これ以上考えるのが億劫になって、このまま眠ってしまおうと目を瞑った。


 それからしばらくして、眠るか眠らぬかの瀬戸際でふと、背中に暖かな感触が走ったのに気づいた。何事かと反射的に身体を起こすと、視界を埋めたのは淡褐色の瞳だった。覆い被さるような体勢で、苛立ちを露わにしたその眼差しを私に向けている。彼が私の背に触れていた。


「……アンク」


 驚きが大きくて、声が裏返った。

 いつの間に入って来ていたのだろう。入る時は声を掛けてと注意するのに、この人はいつもいきなり現れる。


「何故一人で戻った。私がいるというのに」


 険のある物言いだった。暗がりで表情はよく見えなくとも、私を睨んでいるのは分かる。


「だって、あなた、側室の人たちと」

「あれは母親のようなものだと言っただろう」


 お酒でほんのりと赤く染めた顔を、私にぐいと近づけてくる。

 確かに母親のような存在だとは以前にも言っていたけれど、思っていたよりずっと若くて美人で、やっぱり側室だと思わせるものあった。色気や上品さのような、私の持っていないものばかりが溢れた彼女たちの姿は、とても母親のものではなかった。

 それに、一夫多妻という考えはやっぱり私には受け入れられない。


「席を立つならば私に断るべきだろう。なのに何故」


 どうして、いちいち行動の許可をもらわなくてはいけないのだろう。むっとして相手を睨み返し、彼の手を払った。


「今日は疲れていたの。だから戻った、それだけよ」


 嫉妬をしていたなんて言えるはずがなく、自分の感情を誤魔化してそっぽを向く。こんな自分にも嫌気が差す。これほどに自分が素直になれないなんて知らなかった。


「もう寝るわ。話なら明日にして」


 彼を前にしていたら変なことを口走ってしまいそうで、相手を無理に押しやり、返答も待たずにおやすみなさいと告げる。


「ヒロコ」


 不意に静かな声で私の名が響く。引き寄せられるように視線を上げると、真剣な瞳が私を強く捉えていた。逸らせない強い眼差しに声が滞る。


「私の妃となれ」


 唐突に私の手首を掴み、彼が言った。


「え?」


 聞き返した声が鳴るや否や、私の身体に力が加わり、視界がぐるりと回って、見ていた世界が一瞬にして姿を変えた。驚いて閉じた眼を開けたら、見えた肩越しに天井がある。


「今夜、私のものになれ」


 状況と思考が伴わない内に、彼の熱い息が耳元にかかった。

 背中に感じる寝具の柔らかさと、目の前に光る淡褐色。そして手首に感じる暖かさに、自分が押し倒されたのだと初めて気づく。


 彼は、何と言ったのだろう。

 妃?私の、もの?──それって。


「待って、冗談言わないで」

「冗談など言わぬ」


 彼の胸を押し返して逃れようとした私を、その腕が捕えて再び乱暴に寝台に押さえつけた。反動で私の口から小さな呻きが漏れる。

 目を開けた先、息も感じられるすぐそこに彼の顔が近付いていた。闇に細められた淡褐色が灯る。


「ヒロコ」


 苦しげに呼ぶ声に、頷いていいものか分からなかった。

 彼の名を呼ぼうと口を開きかけた瞬間に、彼の薄い唇が噛み付くように私の唇に押し付けられた。

 ただ触れ合うだけものから、徐々に深いものに変わり、私に何が起きているのか分からなくさせる。混乱に陥れる。──苦しい。


 唇が離れる合間合間で私の口から漏れたのは、自分の声かと疑うものだった。彼の吐息が唇にかかり、そしてまた両手で頬を包まれ、熱い唇で声を遮られる。強引に激しいものを重ねてくる。息苦しさでもがくと、少し顔を離した彼の、苦しげに歪んだ表情が視界をいっぱいにした。


「やだ……!」


 説得しようとしたら再び唇が重なってきて、口が緩んだ隙に舌が入ってくる。熱が、熱い何かが、口先から私に流れ込んでくる。

 苦しくて、苦しくて意識が朦朧とし始めた頃、激しさが止んでゆっくりとその唇が私から離れた。互いの口元から伸びた銀糸が、霞む視界にぷつりと切れ、その先に私を抑えつける影が現れる。


 どうして。どうして、こんないきなり。

 私を映すその眼差しが、いつもと違う。お酒のせいだろうか。滞って思考が進まない。分からない、何も。

 自分の熱を含んだ唇から、乱れた呼吸の音が闇を流れていく。


「……アン、ク」


 喉の奥に言葉が絡みつくのを感じながら、覆い被さる相手に手を伸ばす。やめてと言いたかった。言えば、止めてくれると思っていた。


「ヒロコ」


 熱を持った声で私を呼ぶと、彼は私の両肩を掴み、そこに掛かる肩紐を何の躊躇いも無く外した。


「やっ……!」


 首筋に彼の唇を感じて頭が真っ白になる。


「や、やだ!」


 唇が、首筋から私の露わになった肩を伝う。ゆっくりと、滑らかに。

 燃えるような手が肩をなぞり、背中に回って私の肌蹴た素肌を這う。私の寝間着を剥ごうと、身体の上を力ずくで動く。


「お願い!やめて!いやっ!!」


 でも彼の手は止まらない。止めてくれない。

 そんな、強引な。無理矢理だなんて。この人が。


「や、やめ……」


 怖い。彼が、怖い。


「アンク!」


 部屋に私の悲鳴が走った瞬間、肌を這う動きがぴたりと止んだ。

 押さえつける腕から力が抜け、唇も離れ、最初と同じ、夜の静けさと闇が私を取り囲む。規則性を失った呼吸が、暗い空間を満たした。


 私と同様で、彼もその広い肩を上下に揺らし、俯いて短い髪を下に垂らしている。私の横についた彼の手が、じわじわと拳に形を変え、麻を握りしめ、走る皺をより濃いものにした。その褐色の手の甲に、骨と血管が浮き出る。


「アンク……」


 いつもと様子の違う彼の名を、そっと呼びかけたその時。


「ヒロコ!!」


 いきなり名が弾け、強い力が私の身体を荒々しく抱きしめた。呼吸さえ止まってしまいそうなほどの力を、この身に感じる。

 彼が私を抱き締めながら、私の名を呼ぶ。吐き出されるその声が、滅多に取り乱すことのない彼のものだと知って、戸惑った。彼のものであることを疑うほどに揺れて乱れていた。


「お前を、帰したくない……!」


 初めて聞く、感情が堰を切って飛び出したような悲鳴に、胸が締め付けられる。


「3000年も先になど帰したくはない!」


 言葉が成される度、私の苦しさが増す。抱き締められた私の身体は、彼の呼吸と共に大きく揺れた。


「手放したくなどない!」


 はっとして、思わずその人の腕に触れた。


 それが、あなたの想いだろうか。あなたの、私への。

 覆い被さって私を抱く相手の身体が、呼吸と共に大きく揺れているのを感じた。


「お前が」


 静寂にぽつりと、零れる。


「帰れぬようにしたかった」


 私の耳元に顔を埋めて、今度は静かに、噛みしめるようにその人は囁く。


「お前を、縛り付けてしまいたかった」


 ようやく分かった彼の行動の意味。息を呑むと同時に、また切なさと愛おしさが胸に募っていく。


「……だから、こんなことを?」


 枯れてしまった、所々途切れる声で尋ねた。


「だから、私を……」


 彼が静かに頷くと、その短い髪が私の頬をくすぐる。すまぬ、という弱々しい声と一緒に。

 私を帰したくなくて。だから、抱こうとして。それでも私の声に耳を傾けて、あなたはその手を止めた。

 いつものあなた。私を思い遣ってくれる、優しい人だ。

 そっと、相手の焦げ茶の髪を掌で撫でた。


「お前さえ構わぬのなら、私は……」


 顔を上げ、その人の顔が黒い影から姿を現す。悲しそうな、切なさに歪んだ色を宿している。


 ──ああ。

 あなたも私と同じだった。どうしようもないこの想いを、その胸に抱いていた。


「……アンク」


 上半身を起こして、彼の淡褐色を見つめた。自分の名に、彼も少し顔を動かして私をその目に捉える。胸の高鳴りを抑え、震える唇を開いた。


「あなたのことは好きよ。このまま傍にいられたらとも思う」


 これは本当のことだ。彼も、この時代に命を煌めかせて生きる人々も。自然と共にあるこの国も、心から好きだと思える。


「でもね、私はやっぱりお父さんとお母さんを忘れられない。未来に帰ることを、まだどうしても諦められない」


 落ちた肩紐を肩に戻し、乱れた服を直しつつ自分を両手で抱き締め、小さく息をついて彼を見つめた。


「そんな中半端な気持ちで、私は関係なんて持ちたくないの。……ううん、持ってはいけないんだわ」


 もう戻れないかもしれない時代と、彼の間に揺れている私。こんなどっちつかずのまま、彼の想いを受け入れる訳にはいかない──それに。


「あなたが見ているのは、アンケセナーメンであって、私じゃない」


 私をこんなにも返したくないと縋るのは、私が彼女と瓜二つで、彼女の面影を背負っているから。私じゃない。あなたはそれに気づいていないだけ。

 今まで思ってきたことを彼に対して言ってしまったら、胸が裂けるほどに痛んだ。


「あなたが帰したくないと思っているのは、私をアンケセナーメンだと思って……」

「違う」


 焦げ茶の髪を振って、彼は遮り、私を再びその目に映す。やっぱり何度見ても、澄んだ綺麗な瞳だと思う。

 そこに灯る色は私から言葉を奪ってしまい、私は理由も分からないまま泣き出したくなる。


「私が欲しいのはヒロコだ」


 声が。


「お前が、欲しかった」


 どうしても。と呟いた彼は、私の頬を大きな手で優しく触れた。


「3000年後に生まれ、そして今、時を越えて私のもとにいるお前が欲しかった。今でも欲しいと思う」


 声が、闇に響く。響いて、私の心を揺さぶる。目頭が熱くなって、胸が焦げるように燃え出して、咽ってしまいそう。


「いつか、帰ると言うのならば」


 気を取り直したように、その顔に笑みを浮かべる。


「その時が来るまで、ずっと傍にいて欲しい。そう、約束してほしい」


 ずっと、傍に。あなたと共に。そんな未来に、惹かれてしまう。


「……ヒロコ」


 私の唇をその指でなぞりながら、吐息混じりの声を生む。唇に熱が走って行くのを感じ、その人に微笑みを返した。それはきっと、悲しいくらいに頼りない表情に違いなかった。


「この時代にいる限り、あなたの傍に」


 彼の手を握って告げた言葉に、彼は笑ってくれた。柔らかな寂しさを混ぜたその優しい表情に縋り付きたくなる。

 もう一度、私の頬を熱い大きな手が包むように撫で、熱を帯びた薄い唇が私の額に落ちる。ふわりと触れて、離れる。彼の腕が私を抱いて、向かい合う体勢で寝具に沈んだ。

 私たちを受け止めるのは、麻の柔らかさ。その中でただ、互いの瞳を見つめ合う。何か言葉を交わすこともなく、ただそれだけ。

 彼の指が、私の頬にかかった黒い髪を後ろに流していく。一本一本、黒い線が私の視界から消えていく。頬を伝う指のぬくもりを、目を伏せて感じていた。


「眠れ、ヒロコ」


 彼は呼ぶ。私の名を。

 アンケセナーメンでもなく、他の誰でもない、私だけの名を。


「このまま眠れ」


 私を抱き込み、彼はすぐに眠りに落ちた。長い睫毛がその頬に影を落とし、静かな寝息が一定のリズムを紡ぎ出す。


 酔っていたからかもしれない。彼の寝顔を見上げながら、そんなことを思う。

 いつもなら絶対言わないようなことばかりだった。たとえそうであったとしても、さっきの言葉も、私を抱いたその手も、その腕の力も。何もかもが愛おしいと思えたのは事実なのだ。


 彼を想うたび、感じたことのない、胸を焦がすような想いが私の全身を駆け巡る。不思議な炎にでも焼かれているよう。手を伸ばして彼の頬に触れれば、そのぬくもりが私の肌を伝って胸に流れる。

 いつの間に私はこんなにも、彼を好きになっていたのだろう。誰か異性を愛するなんて感情を、持ったのだろう。


 名前も残さないあなた。歴史という大河の中で、忘れ去られてしまうほど、小さな存在のあなた。

 いずれは歴史から消えてしまう人なのなら、いいだろうか。少しくらい歴史を変えてしまっても、いいだろうか。

 あの時代に、両親のもとに、もう二度と帰ることが出来ないのなら、私はこの人と生きたい。生きて、一緒に歴史の渦に埋もれて消えてしまいたい。そう思うくらい、私はこの人に惹かれている。


 そっと額を彼の胸に付けて、目を閉じた。

 鼓動。彼の胸の音が、聞こえる。

 あなたは生きている。私の時代ではとっくの昔に死んでいる人なのに、生きている。死んだ人ではない。私の傍で今を生きる、たった一人の人。その揺るがない事実が、泣いてしまうほど嬉しかった。


 この世に本当に神という存在があるのなら、答えて欲しい。

 ここで好きになることを許してくれるだろうか。彼を、愛してもいいのだろうか。3000年の時を越えた、恋をしてもいいのだろうかと。


 呼吸に微かに動く彼の胸に自分の額をつけて、温かい気持ちに包まれながら、私は眠りに誘われていった。


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