アメンとアテン
鳥、人、太陽。道具、神様、虫。そして何を元にして出来たか分からないギザギザからくねくね。
パピルスに記された文字たちを眺め、本来なら会議を行う部屋で、私は今日も首を傾げていた。
「ねえ、ナルメル。この文字は何を表しているの?」
シンプルな四角が何を表しているのか分からず、隣に立つ宰相に尋ねた。
「それは『椅子』に御座います、姫君」
隣に立つナルメルは長身の身体を曲げ、座る私の手元を覗いて微笑んでくれる。
「椅子……これが椅子なのね。うん、ありがとう」
手前に置く象牙のパレットに植物の茎で作られた茶色のペンの先を浸し、油の煤が原料の黒いインクを付けて、椅子と言われた文字の隣に読み仮名を振った。
少しばかり書きづらいけれど仕方がない。その文字を頭に叩き込んでからまた次へ。
徐々に綴られた文章を頭の中で紡いでいく。
読める。勉強するたび、読める文が増えていく。それを実感できることが嬉しかった。
「しかし、姫君は覚えられるのが早くていらっしゃる。600ある内の300はもう覚えてしまわれた」
「ありがとう……でも大変よ。根性で何とか頭に詰め込んでるって感じなの。すぐに忘れそうで……使いこなせるようになるにはまだまだ時間がかかりそう」
はにかむと、相手は優しい笑みを湛えてくれた。
「根性で御座いますか。それは頼もしい。案ずることは御座いませぬ。姫君は実にしっかり理解しながら覚えておられる御方です。そう簡単には忘れませぬ」
ホッホッホッという軽やかな笑いが、柱の間から零れる白い光に差し込んだ。
最近、私が力を入れて勉強しているのは象形文字、ヒエログリフだった。宰相であるナルメルが「文字を忘れたのなら、もう一度勉強してみないか」と私に勧めてくれたのだ。ここに来てから文字は読めなかったし、何か新しいことを学んで今の憂鬱な気分を紛らわしたいという気持ちもあって、毎日ずっとこの文字に入り浸りだった。
書き方によって、左右どちらからも読みことができるヒエログリフの数は約600。文字を書くというよりは、絵を描いている気分だ。ハヤブサやら禿鷹やら。頭に飾りを付けた人やら、普通の人やら。似たものばかりでややこしい。
テキスト代わりのパピルスを見やって、一通り読み終わったことを確認してから息をつく。
数千年後、古代エジプト文明を未来に生きる人々へ伝える文字。文字で記すというこの習慣があったからこそ、古代エジプト文明は長い時を越えて明らかになる。この神聖な文字こそが古代と現代と繋げたものなのだと教えてくれた父の声が甦った。
それでもこの象形文字を扱える人間が存在したのは4世紀まで。それ以降いつしかこの文字は忘れ去られ、エジプト最後の女王クレオパトラ7世の終焉と共に文明も終わりを告げ、その存在さえもぱったりと消え失せた。
中世、近代に入ると多くの学者達がヒエログリフの解読に挑んだけれど、成功には辿り着かず、19世紀になって初めて「古代エジプト学の父」と呼ばれるフランス人エジプト学者シャンポリオンによって解読される。
4世紀から19世紀までのその約1500年間、人々はエジプトのあちらこちらに残された巨大な文明の証をただの瓦礫としか思わなかったと言う。
後に黄金に煌めいた時代を忘れたエジプトは、外国の植民地支配を受けるようになり、多くの遺跡が外国に流出したというのが私の知る限りの歴史。
こんな素晴らしい黄金の文明が、いつか綺麗さっぱり人々の記憶の中から失われる日が来るのだと思うと少しばかり胸が痛んだ。
「では、今日はここまでにいたしましょう」
ナルメルはそう言って、頭を下げた。宰相という存在にあり、いつまでも私の勉強に付き合っている訳にもいかない人だ。
「今日の課題は?」
「姫君は本当に勉学がお好きでいらっしゃいますな」
「やるからには完璧に覚えたいの」
こんなことを言うけれど、実際は課題を貰って彼と話す機会を減らしたいと言う気持ちの方が大きい。
「ならば……」
ナルメルは髭を撫で、隣にある木製の戸棚からパピルスの薄い巻物一つを手に取って、私に手渡した。
「これをお読みになってきてください。明日、その読めなかった文字についてお教えいたしましょう」
受け取って、少しだけ開いて中身を眺めてから頷く。
「はい、先生。今日もありがとうございました」
宰相は少し照れくさそうに口に弧を描いて髭を撫でた。
夜も自室にこもって文字を頭に詰め込んでいた。
寝台に腰を下ろし、机を引き寄せてペンを持って課題に向かう。夜の闇が苦手な私のために用意された部屋の隅の大きな火が、机の上の私の手の影を伸ばしている。
課題に目を通して読もうと試みるものの、知らない文字が大半を占めていた。勉強し始めたと言っても所詮半分しか覚えてないのだから、半分は読めない字だ。こんなものだと分かっていながら、肩を落としてしまう。
「また読んでいるのか?」
飛んできた声に驚いて顔を上げると、目の前に彼がいた。
「入るときは声をかけてって言ってるでしょ」
「この部屋はもともと私の部屋だ。いいだろう、勝手に入っても」
全くこの人は、とため息をつく。
これ以上反論しても、きっと無茶な言い分を跳ね返されるだけだと思って仕方なく妥協した。
「何故わざわざ覚える。私が読んでやっているではないか」
不服そうに腕を組み、私の手元のパピルスに目を向けていた。
「文字くらい自分で読みたいの」
読み書きができないのはそれはそれで困るし、そもそもこんなことだけのために人に頼るというのも嫌だった。ただでさえここでは自分で出来ることが少ない。
「まあ、勉学は悪いことではないが」
彼は呟きながら端にあった椅子を引っ張って、私の向かいに腰を下ろした。
出て行ってほしいのに。この前のことを思い出すと、少し気まずい。
「で、何を読んでいる?」
一方、彼の方はと言えば、この前交わした言葉なんてすっかり記憶から消し去ってしまったのか、偉そうに手足を組んで私に尋ねかけている。
「何って言われても……まだちゃんと読めてないから分からないわよ」
「見せてみろ」
了承を得ないまま、私の目の前からパピルスを取り上げた。少し目を伏せ、長いまつ毛がその褐色の頬に影を落とす。そんな他愛のない仕草なのに、麗だと見惚れてしまう私がいる。
分からない。
私が分からない。前はこれくらいのことで動揺なんてしなかったのに。
「何だ、『教育の書』ではないか」
彼が小さく笑って、懐かしそうに呟いた。
「教育の書?」
彼はパピルスから視線を上げ、言葉を繰り返した私に視線を向ける。
「数百年前、我が王家に仕えていた宰相プタハホテプの教訓だ。ナルメルも随分と懐かしい物をお前に出してきたものだな」
「あなたもこれを読んだの?」
「王子だった頃に暗唱させられた。我が国は王族も民も、これを基に教育される」
なるほど、これが古代の教科書。
それも王族から平民まで同じ内容だなんて、よほど素晴らしい文章なのね。
「これにはためになる教訓が沢山載っている。王家の者として……いや、この世に生を受けたものとして必要な素質を説いている」
例えばと、私に向けてそのパピルスを置き、最初の分を指差して示した。
『自分の知識を自慢することなく、教育のない者の助言を求めよ。教育のある者の助言と同じように』
『懸命な言葉は貴重な石よりも稀な物であり、悪しきことを成した罪人の口からも出ることがある』
『盲人をからかってはならない。小人を嘲っても、足の不自由な者の行く手を遮ってもならない。神が病を与えたものをからかってはならない』
『汝は己の話そうとすることが良く分かっていると確信できる時のみ話すが良い。会議で発言しようとする者は言葉の職人でなければならない。話すことは他のどんな仕事よりも難しい。そして完全に習熟した者だけが面目を施すのだ』
すらすらと流れる言葉たちに、私は感嘆の声を漏らしてしまった。
ナルメルが課題として出してくれたのは、正しく生きていくための教訓を集めたものだったのだ。これをエジプト人が読んで勉強しているから、ある程度の秩序ある国家が成立しているのだと知る。
まさかこの時代に、こんな教訓があるなんて思わなかった。これならば、未来にも通じるものだろう。
「私も時々読み返す。道を外しそうになったり、迷った時に」
「あなたが?迷うことなんてあるの?」
少しからかったら、彼は当たり前だと眉を顰めた。
「神の化身とされるが、私とて生きている内は人間だ。民と何一つ変わらぬ。死んでから別格になるのだからな」
ファラオは死後、神になる。だが生きている間は皆と同じ人間。これがこの時代の思想。
いつも真っ直ぐで自信に満ちていて、勝手に決断を下してしまうあなたも時には迷う人間なのね、と思って何気なく微笑む。
「……今も、迷っている」
少し目の光が陰ったのを見て、私は思わず聞き返した。
「改革を、するかどうか」
遠くを映していたその瞳を動かし、静かに私を見据える。
改革。その言葉の意味が、すぐに頭に出てくれなかった。
「王家の……そしてエジプトの命運を、左右するであろう改革だ」
先程交わしていた声ではない。深刻さを空気の中に走らせる声だ。
「神を替える」
「……神を?」
そうだと相手が頷いた。
「民を思った父が造り出した神アテンを廃し、太古から我が国が崇めていたアメンに戻そうと考えている。都もアメンが守護しているテーベに遷すつもりだ」
「ま、待って。分からない。アメンとアテンがどう違うのかも、それがどんな意味を持つのかも、何のためにやるのかも、私、分からない」
慌てて彼の言葉を止めた。突然の話に、たじろいでしまう。
改革だなんて。それも王家とこの国の将来を握るだなんて。全く分からない。
そんな私を見て、彼は小さく苦笑とも取れる笑みを零した。
「そうだな、ヒロコは何も分からぬのだったな」
悪かったわね、といういつもの言葉が出てくれない。どんな深刻な話か、彼を取り巻く空気で感じられた。
「……我が国はもとは多神教。今のアテンは無く、アメン崇拝だった」
椅子に座り直して、彼が話し始めた。エジプトが多神教であったことは、宗教に疎い私でも知っている。
エジプトは世界に存在するあらゆるものに神が宿るとされる、昔の日本と同じで八百万の神たちがいるという発想を持っている。その神たちの頂点にいるのが、太陽神ラーと一体化するアメン神。
「だが、先々代である我が父アクエンアテンはそれを廃し、一神教にしたのだ。故に、ヒロコが知っているラーやソティス、他の神々は今はもう奉られていない。一神教、つまり今の我が国の宗教はアテン神だけを崇めている」
太陽神も星の神もナイルの神も風の神も、砂の神も、今はいないということ。
エジプトに一神教だった時代なんてあったかしら。ずっと変わらず多神教のアメン崇拝だったと思うのに。
「……どうして、あなたのお父さんは多神教から一神教に替えてしまったの?」
まずはそこからだった。
「多神教となると、代表的な神それぞれに神官が付き、その神一人一人に対して儀式を行っていた。1年中ほとんどにおいて儀式に追われ、政が出来る暇などなかった。神官どもが大きな権力を持つようになってしまった。それで一神教にし、儀式の数を減らし、神官たちの力を抑え込み、王家の手で国政に力を注ごうとしたのが理由の一つだ」
確かに、たくさんいる神様一人一人に儀式を行っていたら政治を行う時間なんてない。神様を一人にして、儀式の数を減らした方がずっと効率が良いのは当然だ。
「そしてもう一つの理由は、父の理想を実現するため」
「どんな理想だったの?」
「人は皆太陽の下に平等である、そんな国家を作りたい──それが父の何よりの望みだった。それ故に太陽の名をアテンとし、太陽のみを崇める宗教を新たに作り上げたのだ」
人は皆太陽の下に平等。太陽は神、アテンを表す。言い直せば『人は神の下に平等』。
「キリスト……」
頭に浮かんできた歴史上の人物の名が、小さく口をついて出てきた。
彼の父であるアクエンアテンが唱えたのは、この時代から1000年以上経ったエルサレムで神の子イエス・キリストが唱える教義とよく似ていた。
キリストも『人は皆、一人の神の下に平等である』と説いたのだ。キリスト教と同じ思想を、アクエンアテンはもうすでに持っていたということになる。
「平等は素晴らしい思想よ?どうしてその思想を失くそうとしているの?」
尋ねると、腕を組んだ彼が小さく唸った。
「民が納得しなかったからだ」
王も貴族も、平民も無く、平等に暮らそうと言う考えがどうして駄目なのだろう。
「今まで信じていた神を捨てられたのだ、怒るのも当然と言えば当然だった。父もそれを覚悟していての決断だったと今となれば思う」
熱心的な信者がいれば、アクエンアテンの改革は言語道断。
「アメンを捨てた父を殺そうとする者まで出てきた」
「そんな」
民のことを考えた人なのに。
宗教でここまで動くと思うと、数千年と信じられてきた宗教を揺るがすということはどれほどの脅威を生むのだろうと、恐ろしくなる。
「私が生まれた頃、父はアテン信仰に替え、テーベのアメン信仰の像をすべて破壊した。そしてこのアケトアテンに都を無理に遷したのだ」
だから首都がテーベではなく、こんな場所にある。
私の知らない地であるアケトアテンに。
「私が物心つき始めた頃にはもうすでに悪夢だった。何度父が毒を飲まされそうになったか、何度放火が起き、この新たな都が火の海となったか分からぬ」
王宮から外へ連れ出してもらった時、彼が呟いた『悪夢』とはこのことだったのだと気づく。アメンを崇拝していた人々は、王家を恨んだに違いない。自分たちが心から愛していた神を捨て、その像まで破壊した王家を。
「そしてもう一つ、問題が起きた。神官が、再び力を持ち始めたのだ」
彼が出した人差し指が、炎の灯りを浴びて影を机の上に落していた。
力を持った神官。それを聞いて思い浮かぶ名前はただ一つ。
「それが、アイなのね」
呟くと、その人は一度だけ静かに頷いた。
「多神教だったときは30人ほどの神官が神の言葉を王に伝えて政を進めるが、一神教では、神に仕える神官は一人だけ、王に助言をするのも一人となった」
「そのアテン神に仕える唯一の神官が、アイ?」
「そうだ、あの男だ。おかげでアメンの時よりも面倒なことになってしまった」
私の中でたくさんの事実が次々と繋がっていく。
30人の神と神官が言えば、自分の遣えている神はこう言っていた、と神官たちの様々な意見が聞けるけれど、一人の神と神官では話が違ってくる。
アイの言葉が神の言葉だ。それしか、その人の言葉しか、信じるものがない。だからアイは、彼さえも簡単に手を出せない力を持った。自分の言葉を、神が発したものとし、政に組み込むことが出来たから。自分こそが神官に相応しいと神が言っている、そう言えば役職から降ろされることはない。
「しかし、唯一の神に仕えるあの男の言葉を無下には出来ぬ。かと言って無理矢理神官から降ろすことも出来ぬ。だが、このまま一神教を続ければ、我が国はあの神官に乗っ取られ、王家の権威は飾同然のものとなるだろう」
目を伏せ、少しだけ俯き、彼は顔を陰らせる。低い声が事の由々しさを際立たせた。
「民のアメンへの想い、そして神官の暴走。……これらを抑えられぬまま父は死に、兄もすぐに死んだ。そして王位というものを回されたのが、残された唯一の王子だった私だ」
そんな大変な国を任されたのが、あなた。混乱の渦に巻きこまれた、13歳の少年王。なんて大きなものを、小さなあなたは背負わされたのだろう。
「国内も治安が悪く、宿敵ヒッタイトとも戦争が起こる、そんな時期にだ。そこでアンケセナーメンは私に提案をした。神を替えよと」
彼女が。
賢く、美しき王家の姫君と謳われたアンケセナーメンが。
「ヒッタイトと一時同盟を結び、民をまず宥め、そして神を戻せ、と。同盟を結び、民を落ち着かせ、今の状態に持ってくるまでに恐ろしいまでの時間が過ぎたがな」
彼が王に即位してからの、アンケセナーメンと結婚できなかった期間が7年。そしてやっと結婚できるとなった時に、彼女は病に侵された。
「私を諭し、支えてくれていた彼女が死に、どうしたらいいか分からなくなった。……路頭に迷った」
彼女こそが支えだった、という彼の微かな声がその後に落ちた。
「神を替えるとはどれだけ恐ろしいかを知った。どれだけ国を揺るがすかを知った。どれだけエジプトという国が外国から今か今かと狙われているのかを知った」
淡々と話していた彼の声に、抑揚がつき、その表情に苦が滲む。
「そして神を替えること──これは民を心から愛し、すべての平等を解いた父を否定することになる。あれほど民を想った父を、だ。異端と呼ばれようと父は父だ。何も変わらない……」
拳を握りしめ、彼は小さく言葉を並べていく。
「怖い」
短い言葉だった。たったそれだけの言葉に、彼の苦しみを窺い知る。幼い頃から背負い、今もそれに悩んでいる。でも、その悩みや揺らぎを、自信の裏に隠して生きている。決して人に見せまいとして。
あなたは、王家の人なのだ。
「だが、やらねばならぬ。父が造り出したアテンに、終わりを告げなければならぬ。我が王家を、我がエジプトを守るために」
国のため。王家のため。
そのために、愛した自分の父親を否定し、やりたくもないことを行わなければならない。あなたに課せられた使命は、どれだけ重い物なのだろう。
「アンク」
そっと、その人の名を呼ぶ。
はっとしたように彼は顔をあげ、その目に私を映した。丸くした目を私から反らして、やがて俯き、自分の額を手で押さえた。
「……いらぬことを、話した。お前に話しても仕方ないことだ」
今までに見せたことがないほど、動揺した面持で彼は立ち上がる。
「疲れているらしい。今日はもう寝る」
「アンク」
私に背を向け、去ろうとしたその人の腕に手を伸ばして掴んだ。掌から、彼の体温が私に流れてくる。そんな私を、美しい淡褐色が振り返った。
「ここまで話すつもりはなかった。忘れろ」
「出来るわ」
え、と小さく言って彼はわずかに動揺を見せた。
根拠なんて私のどこを探しても無い。そんなものを簡単に発していいはずはないのだけれど、私の何かが確信していた。
「大丈夫よ、あなたなら出来る」
「何を」
「だってこんなにもあなたは民を想ってる。こんなにも国を想ってるじゃない。あなたは王、この国を治める雄々しきファラオよ。やらないで終わったら負けだわ。どうせ変えていかなくちゃいけないんだもの。何かしらやらなくちゃ」
ラーの化身。死後は神となって甦る、エジプトの太陽。
「この国のことも、時代のことも分からない私が何を言ってるのかと思うかも知れないけれど」
王家の事情を中途半端にしか知らない私が、言えることじゃない。それでも、彼を見つめてもう一度唇を開く。
「誰が何と言おうと、私は確信してる。あなたは上手くこの国を治められる。それだけの素質を、素人の私でも感じるの。それに、あなただけじゃないでしょう?セテムもナルメルもいる。カーメスも。皆、忠誠を誓ってるほどだもの、もっと自分に自信を持ってもいいと思うの」
彼を慕う人々の顔が浮かんだ。
「あなた、あんな素晴らしい人たちに慕われて、相当な幸せ者よ。きっとみんな支えてくれる」
驚いた顔をする彼に、私は微笑む。
「大丈夫。勢いで何とかなるものよ。駄目だったときは根性で何とかすればいいの。私はそうしてきた。勉強だって、何だって、根性で乗り越えて来たの」
最後は出てくるありったけの応援を込めた。そんな自分を思い浮かべて恥ずかしくなるけれど、構わず続ける。
「怖さも戸惑いも辛さも、きっと私には想像できないほどのものがあなたにはあるのでしょうね。あなたは乱れた国を目の当たりにしているもの、それは仕方ないことよ。でも踏み出さなくちゃ始まらないわ。何も変わらないんだもの。やる前に弱音を吐いちゃ駄目よ」
私、本当に馬鹿なこと言ってる。
「お父さんが作ろうとした世界を諦めることになるけれど、そう判断したあなたをお父さんは怒ったりするかしら。むしろ、民を考えて決断したあなたを褒めてくれる気がする。自分にまで気を遣ってくれた息子を、きっと誇りに思うはずよ。私だったら誇りに誇ってるわ」
私が生まれてこのかた経験してきたことなんて彼にとってはちっぽけなもので、勉強のように根性で解決するならば、彼はこんなにも迷わないし、こんなにも苦しまない。
それでも何も言わず、「はいそうですか」で済まされる話ではない。彼が話してくれたことに、私なりの精一杯の答えを、しっかりと返してあげなければならなかった。
全部言い切り、彼から手を離して自分の足元を見下ろした。
「……何も分からない私の言葉だから、聞き流してくれて構わない。私からの細やかな、使い物にならない助言よ。アンケセナーメンにはずっと劣る、ちっぽけな私の助言でしかないけれど」
ぽんと肩を叩いてみる。
「私が言いたいのはそれだけ。止めてごめんなさい。さあ、寝ましょ。おやすみなさい」
唖然と私を見つめるその人の背中を押して歩き出す。前に浮かぶ背が、いつもより小さく見えた。
「……ヒロコは」
私の部屋を出る寸前になって、彼が足を止めて微かに声を零した。いきなり立ち止ったものだから、その背中に顔をぶつけそうになる。
「ヒロコは味方か?」
焦げ茶の短い髪を揺らして、彼が私を振り返った。伸びた彼の黒い影が私の視界に重なる。
「味方?」
少し屈み、私に顔を近づけて、彼は音もなく頷く。
「……宗教はあまりよく分からないけれど、私はあなたを応援する。それだけは確かよ」
どうやっても私は無宗教の国、日本の生まれ。彼との宗教の価値観が違う。
「ならば」
褐色の両手が動いて、私の両手を取った。背中に感じていたものより、ずっとぬくもりを孕んだ手だ。
「アメンを信じればよい」
私の目の前で、相手は柔らかく笑った。
「私と同じ、アメンを信じればよい。アメンの下に入れ、ヒロコ」
掴まれるたび、その手の温度が増しているように感じるのは私の気のせいかしら。熱に呑み込まれてしまいそうになる。
「それはそうと雑だな」
手の力を緩め、いつもの調子の響きが空気に乗った。
「ヒロコは考え方が雑だ」
何かと思えば、そんな台詞がさっきまで弱音を並べていた彼の口から飛び出した。
「……はい?」
ころりと雰囲気を変えて笑う彼に、眉を顰めた。
「根性で政が出来るはずあるまい」
「それは」
「勢いで政などすれば国は瞬く間に潰れるぞ」
呆れた、と言うような苦笑が飛んでくる。
「そ、そんなこと分かってる!」
私なりに頑張って答えたのに。
ああ、駄目。恥ずかしくなってきた。真面目に元気付けようとした私が馬鹿みたい。
顔を覆いたいのに、握られたままの手ではできなかった。
「しかし、話してよかったと思うのも事実だ」
顔を上げて視界に広がるのは、彼の自信に満ちた笑みだった。暗闇の中でも、太陽のごとくそれは強い光に満ちている。
一度その目を伏せてから、彼は再び瞼を開く。ゆっくりと、開き切った切れ長の瞳に誇りが灯る。
迷いを消した勇ましさ。私は呼吸さえ忘れて、その様子を固唾を呑み見つめていた。
「決めたぞ」
沈黙を切った。放たれた余韻に、自然と握られた手に力が入る。視界に浮かぶ、整った薄い唇が再び徐に動き出す。
「決めたぞ、ヒロコ」
淡褐色が輝く。いつもの威厳を、その中に満たしていた。
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