側室

 あまりの眩しさに片手で目元に影を作りながら、晴れ渡る青空を仰ぐ。

 日本で言えば春に近い季節のはずなのに、エジプトの太陽は相変わらず元気が良い。今腰を下ろしている白い宮殿の床石さえも熱を持って、どれだけ熱いかを私に伝えてくる。

 一通り空を見渡してから、再び手前に広がるナイルにヤグルマギクをそっと放った。

 掌より二回りほど小さな青が、始めに浮かんでいた白いハスの間に流れていく。夏に向けて強くなりつつある陽の黄金に近い白い光で、花たちの色が霞む。


「姫様、お持ち致しました」


 ネチェルと侍女の数人が、4つの束にされたヤグルマギクを私の傍に置いた。


「ありがとう」


 小さく波打つナイルの青さを見下ろして、息をつく。

 アンケセナーメンのミイラを沈めた底の世界はどこまでも黒く、何も見せてはくれなかった。身体を起こして花束から一本、青い花を摘み、じっと花弁を眺めてみる。

 彼から聞いた。彼女も、私と同じで何よりも花を愛していて、特にこの花を好んでいたと。理由を問えば必ず「私の愛する王家の花だから」と答えたのだと。意に反して私が発した理由と同じだった。

 あの時、彼はそれに驚いて私をアンケセナーメンと呼んだ。

 その後すぐに、私は慌てて「冗談よ」と誤魔化して笑い、彼も「そうか」と戸惑いながら頷いてくれて落着したあの日。

 帰る途中、彼は何も言わなかった。私の手元に揺れるその花をじっと見つめ、馬の上で私を強く抱き締めた。片腕で何かに縋るように。

 私は何も言えなかった。抗うこともせず、その腕の力を感じていた。

 彼は私に『彼女』を見ていて、私ではなく、『彼女』を抱き締めているのだと嫌でも分かった。


 ──アンケセナーメン。


 深いナイルの青に顔を映し、底に眠る彼女に呼びかける。

 あなたは誰なのか。幽霊にでもなって、私に乗り移っているか。

 あなたの好きなこの花を手向けるから、答えて欲しい。

 あなたは、誰。私の、何。


「姫様ー、そろそろお部屋に戻りましょー」


 変なリズムに乗せて歌い、相変わらず可愛らしいくせ毛を揺らす人がリズミカルに歩いてくる。しんみりとした雰囲気が一瞬にして打ち砕かれた。


「……カーメス」


 呆れながら呼ぶと、相手はけろりと笑う。


「お命が狙われているのですから、一刻も早く戻っていただかなければなりませんよー」


 座り込む私の半歩後ろに膝をつき、カーメスは私の顔を覗いた。


「生前の御身体にお花を手向けるのは大変よろしいことに御座いますが、いくら生前の御身体だからと言ってそのように未練たらたらでは……」

「未練たらたらって」

「まっ、分からなくもないですよ。生前のお身体の方が何と言うか、女性らしさが滲みでていたと申しますか……それはそれは、立っていらっしゃるだけで絵になるようなお姿で、ファラオに香油を塗って差し上げている光景さえもとても美しく……今の御身体より、生前のあの御身体の方に戻りたいとお思いになるのも無理はないことと存じております。ですが!ですがで御座いますからね?このままではいつまでたっても立ち直れませぬ!神々はあなた様にこちらのお身体にお宿りになれとお命じになられた!そのお姿なのですから、もっとご自分に自信を持ってください!!ね?ねっ?」


 動揺せず、はいはいと聞き流せるだけになった私も成長したものだ、なんて思うけれど、今の言い分を要約するとアンケセナーメンの方がずっと綺麗でそっちの方がこの人にとっても好みだったということ。

 悪かったわね、女っぽくなくて。


「もう少し、ここにいたいの」


 こうやって彼女の愛した花を捧げながら問い続ければ、声が聞こえてくるのではないかと、彼女が私に何かを教えてくれるのではないかと思った。

 それに、最近は私がこの時代に来たのも彼女が大きく関わっているのではと思えてきたから尚更。

 祈っても、彼に帰れと叫んでもらっても、走っても、ジャンプしてもスキップしても未来に帰れないのなら、一番の原因と思われる彼女に頼るしかない。


「なりませんよう。ファラオもそろそろお帰りですし、お部屋に戻りませぬとファラオが驚かれてしまいます。我が誇りであるファラオに声をかけていただけるのは何にも代えがたいほど誉れ高きことでありますが、さすがにあの方に怒鳴られるのは避けたいです。あの方が怒ると怖いのですよー。殺す勢いなのですから。ね?ね?」


 一歩前に進み、ほとんど黒に近い緑のマントを地面に広げて再び私を覗く。


「私としては尊敬する方に殺められるのなら本望。いや、しかしまだ私は25。まだ妻も持たぬ身で、さすがにこの世を去るのは心残りと言いますか……いろんな女性とあれやこれやとしたいですし、ああ、いかがわしいことではありませんよ。子供も孫も、曾孫も欲しいと思う今日この頃ですし、ああ、私の人生も今日で幕を下ろすと思うと、もう悲しくて悲しくて」


 おいおいと、大きな両手で顔を覆ってカーメスは泣き始める。泣くとは言っても、泣き真似なのは誰がどう見ても明らかなのだけれど。

 周りを見れば侍女たちがくすくすと肩を揺らしていた。当たり前よねと思いながらそんな将軍に構わず、私はナイルを覗いて、再び彼女に語りかけてみようと試みた。


 私と同じ花が好きで、王家の姫君である、アンケセナーメン。

 何か答えてと。


 でも。全く。何も。


「私はここでファラオに命を捧げて死んでいくのです。ああ、皆さまさようなら。ああああああああ~」


 集中、できない。


 横目でその人を見やれば、覆う手を微妙に動かし、指と指の間からその真っ黒な瞳をちらちらさせて、私を窺ってからまた顔を覆って泣き喚く。


「ああ、もっと生きていたかった。我が国の役に立ちたかった。ああ、みなさん若くして逝く私の分まで」

「分かった!分かったから!」


 遮るように発した私の声に、ぴたりと嘘泣きが止んだ。


「戻ります。戻るからその泣き真似やめて」

「はいっ!さっ、帰りますよ!」


 ぱっと両手を顔から放し、くせ毛の将軍は立ち上がった私に、輝かんばかりの笑顔を向ける。

 彼も少年のようにくしゃりと笑う時があるけれど、この人の笑顔は子供を通り越して赤ちゃんのよう。まるで屈託がない。


「侍女の皆さんはその花の中の良い物を選び、ファラオと姫のお部屋に飾っておいてください。あとは分け合って構いません。王宮内だけは汚さぬように。兵たちは元の場所に戻って警備を続けるよう。神官がこちらの王宮に入って来た場合は、構わず私まで知らせなさい」


 てきぱきと指示をし、侍女と兵たちが一斉に返事をしたのを見届けてから、さあ行きましょうと私の肩を押した。

 50人ほどの人々が全員一斉に頭を深々と下げる光景にはやっぱり圧倒される。カーメスもこの大国の将軍という権威があるのだ。


 ふと、宮殿の中に入ろうとした時、声が私の耳に届いた。

 笑い声だ。女の人たちの。

 上品な、いくつかの声が絶妙に入り組んで風に乗って流れてきている。まるで音楽のよう。


「ご側室の皆さまで御座いますね」


 浮き世離れした音に聞き惚れている私に気付いてか、カーメスが告げた。


「……側室?」

「ええ、ファラオのご側室様方に御座います」


 当たり前だと言わんばかりに、カーメスはにっこりとして頷く。

 その笑顔に、古代エジプト王家にはたくさんの側室がいたなんて話が脳裏を横切った。

 加えて一夫多妻制。私でも知っているファラオ、ラムセス2世は大勢の側室を持ち、息子111人、娘69人を儲けたという話。

 彼に側室なんてむしろ当然のことで、いない方がおかしかった。


「ご側室とは申しましても、ファラオよりは15歳ほど年上の方ばかり。確か10人ほどいらっしゃいます。なかなかの熟女揃いで御座いますよ」

「……じゅ、熟女」

「あちらの囲いがご側室様専用のお部屋ですが、行かれてみますか?姫君ならば快く迎えて下さると思いますよ。御側室の方々は皆、お優しい方々ばかりですから」

「い、行かない!」


 声がひっくり返った。

 そんな世界が離れすぎた場所に一人放り込まれたら、私は一体どうすればいいのだか分からない。側室なんて、そんな縁も無いのに。お優しいと言われても、そんな。


「左様ですか……ならば戻りましょうか」


 行けばよろしいのに、と言わんばかりの口調だ。

 未来に戻れるまで、この時代の色に染まってしまおうと思ったけれど、やっぱり感覚が違い過ぎる。カーメスに行きましょうと告げて足を踏み出すと。


「姫君」


 横に繋がる廊下の柱から、髭を撫でながらナルメルが私を呼んでいた。


「ナルメル、どうしたの?」

「ファラオが御帰りになられたように御座いますよ」


 彼が帰ってきた。ならば、出迎えに行かなければ。

 自然とそう思考が回る様になった。最早日課と化した行動となってしまった。

 足早で向かったのにも関わらず、すでに部屋に戻ったとのことで、カーメスとネチェルたちと共にそのまま彼の部屋に直行する。

 部屋の前でセテムが顔を顰めて私を見、「姫を部屋から連れ出すなとあれほど言っただろう」とカーメスに詰め寄り、そのまま引っ張ってどこかへ行ってしまった。

 外に出たいと無理を言った私が悪いのに、怒られてしまうのはいつもカーメスだ。心配になって彼らの姿を見送っていると、カーメスのへらへらとした笑い声が廊下から聞こえてきて大丈夫そうだと胸を撫で下ろし、部屋の扉を開けた。


「やっと来たか」


 部屋に現れた私に待っていたのは彼の呆れ声だ。


「お帰りなさい」

「相変わらず出迎えには間に合わぬとは。のろまめ」


 上着を脱ぎ捨て、彼は黄金のハヤブサの額当てを外そうと手を動かしている。そんないつもの光景に、ふとカーメスの言葉が甦った。


『──ファラオのご側室様方に御座います』


 この人も何気に奥さんいるのね。それも10人。

 今までそんな存在知らなかったせいか、まだ少し驚いている私がいる。


「どこに行っていた。あまり外には出るなと言っていただろう。カーメスがついているのなら大丈夫だろうが」

「ナイルの方に。アンケセナーメンにヤグルマギクを手向けていたのよ。何か教えてくれないかと思って」


 側室持ちという彼の新たな一面を知って、若干距離が離れた気がした。相手の事をより知ったら距離が近づくと思っていたのに、案外知ってみると遠くなることもあるらしい。彼がまたいつもと違って見えた。


「で、アンケセナーメンは何か言っていたか?」

「いいえ、何も」


 ぼんやりと返事をした。


「……何も、言ってくれないわ」


 そうかと小さく頷いたのを見て、私も自分の部屋へ行こうと足を動かす。

 今の私の部屋は彼の大きな天蓋付きの寝台を越えた、一番奥にある小さな部屋。暗殺未遂事件が起きないようにということと、この部屋にいるのが一番安全だろうという彼の思い付きからこうなった。

 その部屋と言うのが、ワインカラーのカーテン1枚で仕切られているだけのほとんどルームシェア状態で、最初の頃は「覗かないで」「覗かぬ」「入ってこないで」「入る訳がない」と激しい言い争いが繰り広げられ、数日間は変な緊張して眠れず大変だった。

 それでも、そんな日々が続いたのはせいぜい始めの1週間ほどで、2か月ほど経った今では慣れてしまってお互い安眠状態。

 カーテンをくぐり、自分の寝台に座って、ため息をつく。ふわりと柔らかい寝具が私の腰を受け止めてくれた。

 膝の上に置いた私の手首に煌めく細い黄金の腕輪を見つめて、熟女と呼ばれる女の人10人に囲まれた彼を思い浮かべる。


 側室。あまり好きではない響きだ。

 そもそも一夫多妻制なんて考えが受け入れられない。男はたくさんの妻を持つのに、女は一人だの妻だけを愛せだなんて、不公平というか何と言うか。

 男の人も、ただ一人の人を愛してほしいというのは贅沢な望みなのかしら。やっぱりこの時代の男の人に、そういうことは無理なのかしら。


「ヒロコ」


 顔を上げると、私の空間に彼がひょっこり顔を出していた。


「どうした、今日は元気がないな」

「そんなことないわ」


 仕切るカーテンをめくって、彼が入ってくる。


「いつもなら色々ともっと報告してくるだろう。カーメスがうるさいだの、セテムは私を怒らずカーメスを怒ってばかりだの」


 言われてみれば。

 何でだろう。喋る気力がない。


「外せ」


 隣に腰をどっぷりと降ろした彼が、私の目の前に褐色の腕を突き出してくる。

 彼が腕輪を外せと言うのはいつものことだ。朝には香油を塗って、両腕両足に黄金を付けてあげることも、いつの間にか私の役目。私の日課──でも。


「ご側室の皆様にやってもらったらいいじゃないの」


 突き出された腕を押しやった私に、彼が目を瞬かせた。


「やってもらえばいいじゃない。香油塗りも、腕輪を付けてもらうのも、全部。10人も奥さんいるんだから。私である必要はないでしょう」


 そのまま私はそっぽを向いてしまう。


「……何だ、いきなり」


 彼は驚いていた。自分の取った行動に、私も自分で驚いてしまう。なのに止められない。子供みたいだ。


「カーメスから聞いたのか」

「しっかりと聞きました。随分年上の女性をお好みのようで」


 振り返らず、冷たく言い放った。

 気分が悪い。もやもやする。


「……もしや嫉妬、か?」


 その言葉に虚を突かれて、彼を見返した。不思議そうに、その人も私を見ている。


「え?」

「ヒロコ、嫉妬しているのか?」


 嫉妬?まさか。

 ぽかんとする私を置いて、彼はそうかそうかと何を納得したのか突然首を縦に振り始めた。


「なかなか私になびかぬとは思っていたが、今頃になってようやく私を気になり始めたか、そうかそうか」

「何を勝手に解釈してるの。どうして私が嫉妬なんてするの」


 近づいてくる相手の肩を押しのける。


「誰に何のために嫉妬するっていうの」


 彼の言う嫉妬って、やきもち、ってことよね。そんな感情、ある訳ないじゃない。

 それでも私の否定を無視して、彼は笑いながら話を続ける。


「私を好いているのではないのか?」

「そんなことない」


 私の言い分が聞こえていないのか、彼は私の肩を抱き寄せて高らかに笑う。


「案ずることはないぞ。確かに側室を持ってはいるが、皆母のようなものだ。幼き頃よりあの女たちには随分と可愛がってもらっている。私はあの者たちにとって息子同然なのだ」

「側室がお母さんみたいなもの?」


 驚いて身体を離した私に、そうだと彼が軽やかな表情で頷く。


「もともとあの者たちは父の側室だ。父と兄が亡き後、私がその側室を引き継いだまでのこと」


 側室が引き継がれるものだなんて、初めて知った。そうなの、と納得した途端、胸のもやもやがすっと消える。


「私の父は、祖父とは違って平民から側室を集めたのだ。貴族から娶るとなると、王位や政権を貴族が奪われることもありうると危惧してな。父が死んだからと言って帰れというのはあまりに酷だろう。帰る場所が無い者もいるというのに」


 確かに日本でも貴族に天皇の政権が取られると言うことが起きた。今から2000年後の平安時代に存在し、天皇の祖父にまで上り詰めた人、藤原道長。

 それを防ぐために、王位に執着のない平民から自分の子供を産ませる女性を選んで側室にしたのが、彼の父親だった。


「その中にいたのが父の寵愛を受けた私の母。名をキヤという。何でも私は母似らしいぞ」


 ならば、彼は平民と王様の子。


「私の母は私を14で産み、すぐに死んだため、同時期に来たその側室たちによく面倒を見てもらった」


 14歳だった頃の自分を思い浮かべてみても、出産なんて想像がつかない。


「私の妹も弟も、兄も姉も皆、その側室たちから生まれている。皆、病で死んだがな。私をよくしてくれるのは唯一生き残り、ここまで育った王家の血筋故だ」

「あなた……妹も弟もいたの?」

「皆生まれてすぐに死んだというのもあって、名さえつけられなかったが。すべては赤子特有の病だったそうだ」


 さらりと言いのける。でも、この時代の乳児死亡率を考えれば驚くことではないのかも知れない。予防注射も何もないため、無事に育つ子供の数はきっと極端に少ないはずだ。だからこの時代の人々はたくさんの子供を成していた。


「かれこれ12人近くいた兄弟の中で10歳という年齢を超えるまで生きたのは、私と兄スメンクカーラーと姉アンケセナーメンの3人だけだ。どの母も他界しているものの、皆その側室だった女から生まれた」


 彼が立てて見せてきた三本の指をまじまじと見つめた。なんて低い生存率だろう。


「……でも、スメンクカーラーもアンケセナーメンもあなたと同じ側室の子なんでしょう?正妃はいなかったの?」


 話に出てくるのは側室ばかりだった。王様なのだから、正妃がいるはず。


「勿論、いたぞ」


 一度言葉を切って、彼は告げる。


「一人がアンケセナーメン」


 父親と結婚して、やがて未亡人になる誇り高き姫君。どうしても父と夫婦になるなんて考えられない。


「そしてもう一人が、ネフェルティティ」

「……あの、美人さん?」


 ボンキュッポンの三拍子を見事兼ね揃えた、男の花畑を作っていそうな彼女。あの人が王妃だったのか。


「そうだな、あの美人さんだ」

「正妃は一人じゃないの?」


 彼は顎に手をやって楽しげに首を傾げる。


「最初の正妃は幼い頃のネフェルティティだった。しかし一度王女を産んだもののすぐに亡くし、その後子供が生まれなかったというのがあり、父は自分の娘であるアンケセナーメンを自分の妻として、王位継承権を与えた」


 子供の内に結婚だなんて。父親であるアイの策略が絡んでいるように感じる。


「つまり、ネフェルティティから権威を譲り受けたのがアンケセナーメンなの?」

「そうだ。父はそのまま病にかかり、アンケセナーメンに王位継承権を持たせたまま死んだ。アンケセナーメンの夫となった者がファラオとなる。その夫の地位を手にするのに相応しいとされたのが王家最年長の王子、我が兄スメンクカーラー」


 彼のお兄さん。アンケセナーメンの第二の夫。


「だが、兄は身体が弱かった。アンケセナーメンを妻としたすぐ後、多忙のせいか持病が祟って死んだ。故に私が次のファラオとして君臨したのだ。だがそのアンケセナーメンも病にかかって死んだ。王家としての身分を持つアイの娘を妃にするかという話が出た時に現れたのがヒロコという訳だ」


 へえ、と声が漏れた。

 何か凄く長い物語でも読み終えた感覚。今まで知らなかった王家の事情というものがぼんやりとだけど見えてきた。


「……王家って大変ね」


 しばらく経ってから口を開いた。


「大変だ」


 短く返し、彼は私の寝台にごろりと寝転がる。

 反対に私はぼうっと、小さなハスのレリーフを見つめて今までの話を頭の中でまとめる。

 王位やら側室やら妃やら。娘と結婚する父親やら、すぐに死んでしまう子供たちやら。病気やら。この時代の人たちは本当に大変。私には想像も出来ない苦労ばかり。


「それでヒロコは」


 寝転がって頭に手をやりながら、彼が私を呼んだ。静かで、独り言のようにも聞こえるくらいの声だ。


「何?」


 隣の人は、夜の草原で寝転がって星でも眺めているような姿勢だった。


「私の側室が気になって、怒っていたのか?」


 淡褐色の目がこちらを捉える。


「私が側室の女どものところへ通っていると思って、怒っていたのか?やきもちか?」


 怒っていた?やきもち?そんなこと、思ってもいない。


「だから誰にやきもち焼くの。何も思っちゃいないわ」


 そう。変な気分になったのも、もやもやしていたのも、この人が側室という私の世界からかけ離れた存在を持っていて、きっと戸惑ったから。気を取り直して、そのくつろぐ人に再び視線を投げた。


「私はあなたが誰と会おうが、誰と遊んでいようが何とも思いません」


 そっけなく言い放つと、突然がばりと勢いをつけて彼が起き上ってきた。目の前に、互いの鼻先さえ擦れてしまいそうな所に、その顔がある。

 驚いて身を離そうとした途端、彼の手が飛んできて私の頬をがっしりと捕え、身体の自由を奪った。


「な、何す」

「……きす、してやってもいい」


 風に流れるような声で、形の良い唇が動く。

 頬に、彼の指がひらりと動いて、やがてそのうちの一本が唇に達する。拭うように右から左へと私の唇の上をなぞった。そこに熱が走る。空気も時間も、何もかもが止まってしまった感覚に陥る。


「口付けたい」


 一瞬、何を言われているか分からなかった。キスだなんて、いつの間にそんな単語を覚えたのだろう。

 そう思って口を開くけれど、案外真剣な目なものだから、何も言えない。言葉に詰まる。頬にあるその指先からぬくもりがじわりと頬に滲んで、声と言うものを忘れてしまう。


「……ヒロコ」


 流れる一つ一つの音の粒に、胸が鳴る。

 真剣な瞳。でも、見惚れるほどの淡褐色の瞳を見て気づいた。その目に映る私は、私ではない。

 彼の中にいるのは私ではなくて、私と瓜二つの顔を持つ彼女。アンケセナーメンなのだ。

 我に返って目を逸らし、その人の胸を押しやった。


「冗談やめて」


 突き放す声に、私の頬にあった手から力が抜ける。


「私、キスは本当に好きになった人としかしない。私がこの命を懸けたいと思える人としか、私を本当に想ってくれる人としかしない。そう決めてるの」


 手が完全に離れたのを見て視線をあげると、その人はただ静かに、私を瞳に映していた。

 我ながら冷たい言葉だと思える。様々な形で私を守っくれて、居場所のない私を養ってくれて、優しくしてくれるこの人に突きつける言葉ではなかった。

 けれど、冷たく言い放たなければ駄目だった。私はどう考えてもここにいるべき人間ではないのだから。

 いつかは未来に、3000年先の世界にいる両親のもとに帰る。その時に迷わないようにするために、誰かに恋することもあってはいけない。誰かを愛することもあってはいけない。

 彼がどんなに名前を残さず消えていく歴史上の人だとしても駄目だ。私という存在がタイムスリップしてこの時代の人と会話した時点で、何かしら変わってしまっているかもしれない。これ以上歴史を変えないためにも、元の時代に迷わず帰るためにも、私は──。


「これからあなたを好きになることなんてないし、そういう存在として見ることはないわ」


 あくまでも冷静に、氷のような言葉を突きつける。


「私は必ず未来に帰る。いつかいなくなるの。あなたもそういう存在として私を扱って」


 そうだ。私は帰る。

 もし、百歩譲って彼が私を好きだと、そういう感情を持ってキスしたいだなんて言ったとしても、それは私ではなくて、アンケセナーメンに対してのもの。

 彼は気づいていないだけだ。どれだけ自分が母であり、姉であり、妻であったアンケセナーメンが好きだったのか。愛していたのか。

 彼は瓜二つの私に彼女の面影を見ているだけでしかない。


「そうだな」


 何を言われるかと思いきや、彼は目を伏せて頷いた。


「ヒロコは未来に帰る。3000年も後の未来にな」


 優しい声だった。いきなりよしよしと私の頭をその手で撫でてくる。その扱いにむっとして睨むと、その人はへらりと笑った。いつもより、朗らかに。


「約束通り、ヒロコの帰る方法は探している。きちんと守っているのだぞ。何も見つかっていないが」


 彼の反応にどう返したらいいか分からなくて、こくりと小さな子供のように頷いた。

 戸惑う私を尻目に、失礼しますと声が聞こえ、彼が返事をすると侍女が入ってきて頭を下げた。


「宴の御席が整いましてございます」


 王宮での夕食は、3日に1回の割合で宴を行う。今日は騒がしい中での食事なのね、とぼんやり考えた。


「今行く」


 何も無かったよう。私には大きな壁を越えたくらいの脱力感が巣食っているのに。

 行くぞと小さく言って、彼は私の腕を引いてこちらの返事なんてお構いなしに立ち上がる。いつものように自信が満ちるその背中を、私は小走りに追う。

 私の部屋を出て、彼の部屋を出て、いつの間にか暗くなっている廊下を、兵士と女官たちの間を行く。


 繋がる手から彼の体温を感じる。この間に流れる大きな時間の川なんて感じさせないほどの、あたたかさ。

 好きな訳ではない。側室が気になったのは、側室がいると聞いて動揺したのは、彼を意識している訳ではない。



 違う。


 そうよね。

 そうよね、弘子。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る