4章 陰謀

朝食

 朝起きて、着替え、髪を整え、髪や手足に飾りをつけてもらう。眠気に襲われながらも、くりぬかれた小さな窓から降り注ぐ朝の陽射しを目にして、また一日が始まったのだと実感した。


「では、お時間になりましたらお迎えにあがります」

「ええ」


 ネチェルや他の女官が去って行ったのを見て、寝台に腰を下ろした。目をこすりながらショルダーを膝の上に置き、慣れた手つきで携帯を取り出す。電源ボタンを押しても反応しなくなった黒い画面をぼうっと見つめ、指でそっと撫でた。

 この携帯が何も反応しなくなって早数週間が経つ。電話が来てもメールが来ても、これが受け取ってくれることはない。両親がどれだけ私に電話をしても、この携帯から着信音が響くことはもうない。いつか充電は切れると覚悟していたから電源がつかなくなった時はただ茫然とするだけだった。電源がなくなってしまう前に帰りたかった。延々とそれだけを考えていた気がする。

 白さを指でなぞる。つるつるとしたこの感触さえも、物悲しさを私に植え付ける。


 ああ、駄目だ。絶望に埋もれてしまっては駄目になってしまう。

 携帯を閉じてバッグの中に押し込んだ。携帯を戻す手にスケジュール帳が触れた。取り出して開けば、最初の方に挟んでいる数枚の写真が顔を出す。友達に、家族に、私。

 目についた、母が私にくれた一枚。生まれたばかりの私を、まだ五歳の良樹がぎゅっと後ろから抱きしめている写真。一人っ子だった良樹にとって生まれた私は妹のような存在で、彼は毎日のように私の家に来ては、こうやって抱きしめてくれていたという。この頃の良樹は女の子みたいでとても可愛い。肝心の私は目が半開きで、苦笑してしまう。

 懐かしい。私が帰りたかったのは、この世界だった。


「姫様、お食事の準備が整いまして御座います」


 扉の前にネチェルと女官が頭を下げて、私に朝食の時間を伝えに来た。その光景に慣れてしまった自分が怖くも感じる。


「今行きます」


 写真をしまいながら、ショルダーの中を覗く。現代の服、学校の専門書、携帯、財布にスケジュール帳。そしてルクソール美術館で貰ったしわくちゃの小さなパンフレット。息をついてから、ショルダーを元の場所に置いて立ち上がる。


「向かいます」


 あのミイラを流してしまってからは何も感じない。私は私のまま。やはりミイラのせいで、私はおかしくなっていたのかも知れない。アンケセナーメンが私の中にいるなんて馬鹿らしい。現実主義の私が一体何を考えていたのやらと、今更ながらに呆れてしまう。彼も彼で気を遣ってくれているのか、『弘子はアンケセナーメン説』を唱えることもなくなった。それどころか何回か私を神殿に連れ出して、未来に戻れないかと試行錯誤してくれている。叫んでみたり、囁いてみたり、ジャンプしてみたり、一晩中祈り通してみたり。戻れそうだったことは一度たりともないものの、考えてくれているのは有難いことだった。彼は案外優しい人だ。


「やっと来たか。遅いぞ」


 私が朝食を取る部屋に顔を出すと、不意にそんな声が掛けられる。彼は前にある動物の肉を手に取りながら、私にちらとその視線を投げた。


「遅くて悪うございました、ファラオ」

「早く座れ。私がすべて食べてしまってもいいのか」

「駄目です、許しません」


 ソファー型に絹やら毛皮やらが重ねられた長い腰かけに腰を下ろす。毎日のようにそこに二人並んで座り、朝食夕食をとるのが日課だった。


「全部なんて食べたら、あなた、威厳も何もないおデブさんになっちゃうわよ。そうなったら笑ってあげますからね」

「私は太ったことなどない、見くびるな」


 これでもかと寛いで目の前の葡萄を丸ごと口に放り込もうとしている。何を食べるにも豪快なのに、その中に上品さが漂うからまた不思議だ。そして何より目の前に並ぶのはナンに似た古代のパンや、鳥の丸焼き、野菜、そして山盛りの果物。例えるのなら、フランス料理フルコース勢揃を思わせる豪華さだ。

 顔を上げれば、セテムとナルメルが供え物のように私たちの食べる様子を澄まして眺めている。二人には彼の一日の日程と政治の動きを朝食の間に知らせる役目があった。最初は見張られているようで違和感があったが、これも今では普通の光景になってしまった。木製のコップがあって、それを差し出すだけで傍に控えている女官が飲み水を注いでくれる。誤って何かを零してしまっても、透かさずそれを拭ってくれる。彼がまずいと言えばすぐに別な何かが用意され、逆にうまいと言えばそれが大量に並べられる。至れり尽くせりとはこう言うことなのだと身に沁みて感じた。

 目の前のパンを取って、ちぎって口の中に入れる。タヒーナと呼ばれるゴマだれにヨーグルトと塩を混ぜたものがあって、味の薄いパンにそれをつけると結構おいしい。バターやマーガリンなんていらないほどに現代人の私の口にも合う。


「お前は本当に小食だな。パンだけでよく持つものだ」

「あなたが大食いなのよ。私はこれくらいが丁度なの」


 私を無視して、彼が鳥の丸焼きを奥から取って私の目の前に置くと、すぐさま女官がやってきて、大きな包丁のようなもので食べやすいようにと切り刻んでくれた。


「もっと食べて肉を付けろ。そんな少ししか食べないからお前の乳房は小さいままなのだ」


 口の中のパンを噴出しそうになった私とは反対に、隣の人は平然と、次は何を食べようかと目の前に広がる御馳走を眺めまわしている。やがてパンを手に取り、呆気にとられている私を横目で笑いながら、選び抜いたパンをぽいと口に頬張った。


「気にしているのだろう?その小さな乳のこと」


 ごくりと呑み込む音の後に、にやりと笑ってくる。


「そんなことありません!私はこれで十分なの!満足してるの!」


 顔に熱が走って自棄になる言葉に、彼は口端をあげた。


「ほら、乳のことになるとすぐに怒る。気にしているという何よりの証拠だろう」


 前に控える二人を見れば、ナルメルは髭を撫でながら穏やかに笑っているし、セテムは何も聞いていないかのように沈黙を通している。そして後ろと横、前方に控える女官たちが私の胸元にちらちらと目をやっているのに気づいて、恥ずかしさという感情が飛び散った。


「アンク!あなたね!」


 彼の肩を引っ付かんで、その顔に顔を近づける。


「なんだ、何か言いたいことでもあるのか?」


 結構な剣幕で詰め寄っているつもりなのに、彼は飄々と水を飲んで口を歪ませる。腹が立つ笑みだと思う、本当に。


「いい?あなたが言ったことはセクハラよ?セクシャルハラスメント!人の嫌がることをしてはいけません!」

「そんな訳の分からぬ言葉など私は知らぬ。私が知らぬものはどうでもよい」

「人の身体のことをあれこれ言うなってことよ!触ったりするのも駄目!」

「ファラオである私が法だ。罪か否かは私が決める」


 目の前の顔がにっと笑った途端、腕が伸びて私の身体に絡みつく。


「ちょっと!言った傍から」


 ぐいと引かれていきなり迫った顔に慌ててしまう。


「これが駄目だって言ってるの!」


 まるで子供でも扱うかのように私を膝の上に乗せて、ケラケラと彼は声を立てる。アンケセナーメンを流してから、何かが吹っ切れてしまったようだ。あのミイラが彼の重みだったのかも知れない。あれ以来、彼はよく笑うし、冗談も口にする。少し度が過ぎることもあって、私が怒鳴り散らすことも偶にあるけれども。


「よし、小食なお前に私が直々に食べさせてやろう」

「はい?」

「これで貧相な乳も豊かになろう」


 私の返事も聞かず、私の顎を引っ掴んだ。そのまま私の口に何かを詰め込もうと無理に近づけてくる。


「な、何するの!」

「食べろ」

「いい!いらない!自分で食べる!」


 全身全霊をかけて拒否するのに、彼も負けじと腕に力を入れてくる。


「この私が食べさせてやると言っているのだ、素直に食べろ」

「いいって言ってるじゃない!やめて!」


 繰り広げられる朝からの大戦争。食べろ、いらない、ファラオだぞ、それが何よ、の繰り返し。私の口の前を食べ物が行ったり来たり。無理矢理。強引。自分勝手。優しいなんて少しでも感じた私が馬鹿だった。

 どちらも疲れを感じ始めていた時、聞こえてきた穏やかにホッホッホッという笑い声が私たちの動きを止めた。サンタクロースでもやってきたのかと思ってしまうほどの陽気さにきょとんとする。いきなり響いた明るい弾みに、一時休戦して彼と一緒にその方向を見やると、ナルメルが白い髭を撫でながらまるで愉快な笑い声を立てていた。


「ナルメル殿!失礼ではありませぬか!」


 隣のセテムが少し焦りを混ぜて叫ぶ。


「いやいや、見ていてとても楽しくなりましてな。失礼に当たりましたら申し訳ありませぬ」

「お前が声をあげて笑うなど珍しいな」


 彼が驚いてそう言うほどなのだから、余程珍しいことなのだ。


「姫君の生前ではお二人とも黙々と召し上がっていらっしゃったのに、今では仲睦まじくそのように……いやはや、朝から微笑ましいものを見せていただきました」


 どこが微笑ましいと言うのだろう。止めてほしいくらいだったのに。


「まあ、生前のアンケセナーメンは澄ましていることが多かったからな、あの時の朝餉は随分静かな時間だった」


 思い出すように、瞳を上にやって呟く。


「懐かしいな」


 うんうんと彼は頷いた。アンケセナーメンは彼より四つも年上の二十四だったわけだから、きっと落ち着き払っている大人な人だったのだと思う。彼女とは普通に食事をとっていたくせに、どうして私とだとこんなにちょっかい出してくるのか。


「なら今もそうすればいいでしょ!私はあなたと違って朝食ぐらい静かに食べたいのよ。ほら、放して」


 腕を払って、やっとのことで彼の膝から降りた。ナルメルが国の名前を並べて政治の話を始めたから、彼もそっちに意識を向けて私を追いかけるのをやめてくれる。座り直して口をついて出てくるのは深い溜息だ。ああ、痛い。頬と顎がすごく痛い。あんなに強く掴まなくてもいいのに。力の加減と言うものを、彼は知らないらしい。それでもこれでゆっくり食べられると、背筋を正してパンに手を伸ばした。


「……姫、薬湯をお持ちしました」


 私に木製の湯気の立つ飲み物を手渡してくれていたのは、初めて見る男性だった。


「薬湯?」

「ええ、最近お疲れのようですので、薬草を煎じ、入れておきました。風変わりな香りがすると思いますが、お気になさらず……」


 服装はセテムより格下のものだから、使用人の一人だろう。時々大勢の女官たちに混じって一生懸命行ったり来たりしている男性を見たことがある。


「ありがとう」


 受け取って薬湯を覗いてみる。言われた通り独特な香りが鼻先をつく。それが湯気と共に、私の頬を撫でて周りへと広がった。古代のハーブだろうか。水面の色も少し違う。体調を考えて薬草を煎じてくれるとは有難い。


「おいしそうね。いただきます」

「では」


 頭を下げ、去りゆくその人の背中を見ながら口に運んだ途端。


「待て」


 彼が素早く私に腕を回してその薬湯を取り上げた。


「何するの!」


 取り返そうとする私を抱き寄せるように抑えて、その飲み物の匂いを嗅ぐと何かを感じたように顔を険しくした。こちらが言葉を失ってしまうほどの表情でセテムの方を見やる。


「セテム、さっきの男を捕えろ」

「はっ!」


 セテムの兵たちに命じる声が散乱する。何か、起きたのだろうか。空気が一変し黙り込んでしまう。ついさっきまでの馬鹿馬鹿しい雰囲気が、恋しくなってしまうほどに。


「……ねえ、何?どうしたの?」


 この雰囲気に耐えかねて、じっと飲み物を見下ろしている彼に尋ねた。ナルメルも周りの女官たちも何かを感じているようで、重い空気が周りを取り巻く。私だけが理解していない様子だった。


「飲んでないな?」

「飲んでないけれど」


 飲み物に移された彼の視線が険しい。細められ、深刻さを物語る。


「この臭い、有名な王族殺しの毒草だ。過去にもこれを盛られて死んだ王は数知れず」


 王族殺し?毒草?


「で、でも私……それを飲もうとしてたのよ?」

「お前を狙ったのだろう。これを飲めば、確実にお前は死んでいた」


 平然とした答えに、愕然とする。意味が分からない。死んでいた?もし、彼が取り上げてくれなかったら、私は死んでいた。現実味の湧かない言葉だらけで、唖然とすることしかできないでいた。


「ファラオ!」


 セテムが戻ってきて、跪く。悔しそうな表情が側近の顔に刻まれていた。


「申し訳ありませぬ!我々が追いつく前に同じものを呑んだらしく、男はいきなり苦しみ始め、自害を……!」

「えっ……!」


 思わず声をあげてしまった。では、私が良い人だと思った男の人は私を殺そうとして毒草を混ぜた、確信犯ということになる。私を殺して、自分も果てるつもりだったということに。殺人未遂。テレビや新聞でしか聞いたことのない言葉が生々しく頭の中に浮かんできた。


「証拠を消したか」


 私に腕を回したままの彼は少し悩んでから、再び顔を上げた。


「その男の身元、どうしてこの王宮にいたのかを徹底的に調べあげ、何か分かり次第、報告せよ」

「はっ!」


 セテムが去ると、ナルメルがやってきた。いつもの穏やかさを消して、白い眉を顰めている。


「ファラオ、その御飲み物は私がお調べいたしましょう」


 彼がナルメルに例の薬湯を渡す。


「どこで取られたものかまで調べておけ。お前なら出来るな?」

「御意」


 深々と礼をして背中を向ける。静寂に陥った空間に、ナルメルの足音が異様に響いていたような気がした。


「……ねえ」


 眉を顰めたまま、宙の一点を見つめている彼の胸をそっと叩く。自分の腕が震えてしまっている。殺人未遂だなんて、縁の遠すぎる話だ。


「今は気にするな」


 そう言って、私の頭をよしよしと撫でる。気にするなだなんて、無理な話だ。毒草が混じった水を飲まされそうになったのは私だというのに。それでもそれ以上何も言えなかった。頭には色んな言葉が、疑問が溢れて止まらない。声に出して訴えたいものがまとまらない。


「ネチェル、アンケセナーメンを頼む」


 私を残し、彼はすっくと立ち上がる。回されていた腕が離れて、脇腹にひんやりとした寒気が走った。


「姫様……!」


 後ろでそわそわしていたネチェルが飛び出して、私の足元に平伏した。


「私めが気づかなかったばかりに御身を危険な目に!申し訳ありませぬ!」

「お前のせいではない」


 前をじっと見据えながら、彼は彼女を慰めた。私から見えるのは彼の背中だけだ。


「お前のすべきことは、これからその身を持ってアンケセナーメンを守ることだ。それが出来れば責めたりはせぬ。私が行くまで、アンケセナーメンを部屋に閉じ込めておけ。一歩たりとも外に出すな」

「仰せのままに」


 ネチェルの歯切れの良い返事が響き終わるや否や、彼は扉の向こうへと消えていった。


「さ、姫様、早くお部屋へ。危のうございます」


 促されて立ち上がり、私は茫然と数人の女官に囲まれて部屋へと歩き出す。まだたくさん残っている、豪華な朝食の綺麗に並んでいる様子だけが、私の目にはやけに鮮明に映っていた。


 寝台に腰を下ろして、胸にショルダーを抱きしめる。何かを抱きしめていないと、胸の奥を這う不安に、呑みこまれそうだった。


「姫様、私共がおります。私共が、この身に変えても必ずやお守り申し上げます」


 私の足元に跪き、ネチェルは柔らかい声をかけてくれている。何かに押し潰されたような声で、小さくありがとうと返した。奥には五人ほど、顔見知りの女官が心配そうにこちらを覗いている。名前は分からなくとも、よく世話をして、話し相手をしてくれる人たちだ。彼女たちに笑顔を向けようにも頬が引きつって言うことを聞いてくれない。


「……どうして」


 固まってしまった口元を、わずかに動かして音を発した。


「どうして毒なんて盛られたのかしら」


 不安が爆発してしまいそうな私の手を、ネチェルがそっと包んでくれる。その手は温かく、優しさを宿す眼差しに縋りつきたくなる。否応なく母が思い出された。


「……怖い」


 あの男性に何かをした覚えなんてない。殺されるような覚えなんて何も。落ち着いて考えてみれば、あの人は誰かに命令されて私に近づいたのではないか。それに、彼はもう誰だか見当がついているようだった。私も全く思い浮かばない訳じゃない。一人だけ。一人だけいる。私を邪魔に思っている人が。でも、命を狙われるなんて信じたくなくて、浮かんでくるその顔を振り払って消してしまう。握ってくれるネチェルの手を力なく握り返す。自分の指が小刻みに震えているのが目についた。今になって気づく。私は怯えているのだ。自分がどれだけ怯えているか分からないほど、怯えてしまっている。


「ファラオがいらっしゃる限り、心配なさることはありません。危害を加えようとする者は誰一人として、姫様に触れることは叶いません。ご安心ください」


 彼がいる限り。そうは言っても、彼だって私たちと変わらない人間で、超能力を持っている訳でも、スーパーマンでも神様でもない。古代の人たちにとっては彼がすべてであり、彼は神様の子、神の化身、万能無敵な存在。だからそう言える。だが現代に生まれ、無信教の日本人の私は違う。彼を神様と思うことも出来ないし、万能とも思えない。彼の存在で、不安が消える訳ではない。


「……ファラオ」


 何かに気づいたネチェルが私から手を離し、頭を下げる。いつの間にか、扉の方にセテムを連れた彼が立っていた。


「下がれ、二人で話す」


 腕を組み、つかつかと足を鳴らしてこちらまで歩いてくる。いつもと同じ、自信に満ちた表情だった。もっと深刻そうな顔をしてくるかと思っていたから少し驚いてしまう。


「では、失礼いたします」


 女官たちが下がって行き、その部屋には私達だけが残される。気持ち悪いほどの緊張が私の中に流れ込んだ。再び胸にショルダーを抱いて、彼の言葉を待つ。


「……おそらくアイ、だな」


 私の目の前に立った彼が、今の私にとって一番恐ろしい男の名を告げた。顔を上げれば、視線がかち合う。


「あれがあの男を雇い、命じて、ヒロコを殺そうとしたのだろう」


 ああ、やっぱり。そうだったのだと、視線を膝の上に落とした。

 最高神官アイ。もともと私を邪魔に思っていると聞いていたから、思い浮かべるとしたらその人しかいなかった。私の存在を恨む、唯一の人。まさか殺そうとまでするなんて。


「先日の儀式で、ヒロコがアンケセナーメンの偽物と証明し、ここから追い出すという手段が断たれ、今回強引な作戦に出たという感じだな」

「どういうこと?」


 彼は椅子を引き寄せて、私に向き合う形で腰を下ろした。


「言っただろう、あの時、誰もがお前にアンケセナーメンを見たと」


 儀式を中断させた私が、信じられない声を発したあの時、彼以外の誰もが私に平伏した。それは忠誠を誓い、王族への尊敬を表した証だとも言えるだろう。あれ以来、甦ったアンケセナーメンだと周囲に認められ、とても過ごしやすくなった。


「あれ以前はアイも『あのアンケセナーメンは偽物だ』と噂を徐々に広めていたのだろうが、あの時を境に噂の根は断たれた。今や、誰もがお前をアンケセナーメン本人が甦った者だと信じ、アイ自身もそれを認めている……いや、威厳に満ちるお前を見て、認めざるを得なかった、というところだろうな」


 頬杖をついて、ぺらぺらと解説をする。あの時はまるで竜が私の中を駆けあがっていくような、そんな勢いだった。今思い出しても、あれは夢だったのではないかと思ってしまう。


「噂でお前をこの立場から追い出すことが不可能となった今、殺すしかないと考えたのだろう」


 びくりと身を竦めた。野蛮だ。吐き気を感じるほどの恐怖や、不安はある。私の奥を巣食っている。実感は湧かない。殺そうと思う人がいるとは考えたことがなかった。足元に目をやると、彼の組んでいる足に嵌められた金が、眩しく光った。それをぼんやりと見つめて口を開く。


「……捕まえられないの?」


 そんな怖い人を、野放しにしてほしくない。あの儀式に生贄として出された異国人も、民に怪我を負わせたから罪人だと彼は言っていた。ならば、殺人未遂を犯した人ならば、更に重い刑が当てられるはずだ。そんな私の期待に反し、彼は首を横に振った。


「証拠がない。今私が言ったことも、ナルメルとセテムの考えを含めての推測に過ぎぬ。確証が得られぬ限り、捕まえられることはない。それが掟だ」

「掟……」


 証拠がないと捕まえることは出来ない。これは現代と同じ。紀元前にも、冤罪を防ぐ平等な法律があったということだ。


「それもアイは王家であり、最高神官だ。簡単に罪人として騒ぎ立てることは出来ぬ。神に仕える者が罪人などと民に知れれば、それこそ我が国は混乱に陥る」


 そうだ、この国は神に支配されている国。神がすべての国だった。神の声を聞くとされる神官の長が殺人未遂で捕まったなんて、国の命運がかかるほどの一大事になってしまう。神官という存在の大きさを、今になって思い知る。


「神官って偉いのね」

「偉いな。私ほどではないが、神の声を聞くという仕事を担っているからな。ある意味、権力を一番乱用できる立場にいるのがアイだ」


 神の声を聞く立場の強さを、目の当たりにした気分だった。もし、神の思し召しと称すれば、何でも自分の好き勝手命じることができる。それが神官。何故そんな大切な役職にアイがいるのだろう。


「まあ、あの者も証拠が残らぬよう、あの男を使って自殺までさせたのだろうな。決して自分の手は汚さぬ、それがアイのやり方だ」

「……汚いわ」


 ただの卑怯者だ。


「やるなら自分の手でやればいいのよ」


 腹を立てた私に、彼は頬を緩める。


「確かに汚いな。私もそう思うぞ。おそらく今頃、お前を一発で仕留められなかったことに相当焦っているはずだ」


 今度は肩を小さく揺らして、くっと喉を鳴らした。


「あなたね、笑いごとじゃないのよ?」


 むっとして詰め寄った私に、彼は伸びをして、再び体勢を整えると、小さくすまぬと言ってまた笑う。


「あの者が慌てていると思うと、腹の底から笑えてくるのだ。笑わずになどいられぬ。ヒロコは笑わないのか?」

「笑えるわけないでしょ!」


 殺されそうになったのだから。何故笑えるのか、その神経を疑う。さっきから深刻そうにしているのは私だけで、彼の様子は至って普通だった。そのさっぱりとした様子に調子が狂う。


「そうだな……これからはネチェル、他の女官に加え、カーメスをお前の側近として控えさせる。あの者は普段は変な奴だが、しっかりした男だ、頼りになる。それと毒味の数も増やすことにした」

「はあ」

「とにかくあまり出歩くな。お前に死なれるとこちらとしても困る。アイの思い通りになど、この私が絶対にさせぬ。アイめ、私に歯向かえばどうなるか、その身で思い知るが良い」


 楽しそうに言葉を言い並べていく。殺人が起こるかもしれないと言う恐怖感や不安感は彼にはないのだろうか、と首を傾げるほどに彼は活き活きとしていた。殺害予告が送られてきた警視庁の刑事のようにもっと眉間に皺を寄せて頭を捻って、警戒してくれてもいいくらいだと思うのに。一人、ショルダーを抱きしめてびくびくしている自分が間抜けに感じてくる。それともアンケセナーメンの偽物の私など、殺されてもいいと思っているのだろうか。それはそれで、少し寂しい。


「あの時私が気づいてやらなければヒロコは間違いなく死んでいた。私は命の恩人だ。感謝しろ」

「そうね……ありがとう」


 ありがたみがこもってない、と不満げな彼は考えるように眉を寄せて再び私を見つめた。


「毒草と薬草の匂いの区別もつかぬとは、ヒロコの時代の人間は一体どうなっているのだ」

「どうなってるって?」

「毒を盛られても気づかず、鼠のように死んで終わりか?そこらに死人がいるのか?」


 ふざけて言っているのかと思いきや、本気で心配しているようだった。大丈夫なのか、と八の字の眉がそう言っている。


「そんなことある訳ないでしょう。あなたが凄いのよ。臭いで判断できるなんて……毒草マニアや専門家じゃないとできっこないわ」


 思わず声を大きくして訴えた私に、いつものように彼の顔は歪に顰められる。


「まにあ?また意味の分からぬことを」

「とにかく、私の時代では朝食に毒草を盛るなんてなかなか起きないの。だから毒かどうかを嗅ぎ分ける能力なんていらないのよ」

「おかしな時代だ」

「この時代がおかしいのよ。あんな簡単に毒を入れられた飲み物が渡されるなんて……戦争や殺人が無い訳じゃないけれど、普段の生活で毒が出てくることはまずないわ」


 ほう、と小さく頷く。


「やはりヒロコの生まれ育った時代というのは、随分と生温いのだな。だがそれでは毒を盛られても、自分の能力で判断し、身を守れぬではないか。無知すぎる。危険だ」

「仕方ないでしょ、時代が全く違うんだもの」


 そこまで言うと、何故か切なさが流れた。

 時代。彼と私の間には気の遠くなるような時代が流れている。三千年くらいの、長い、長い時間の川だ。その川の中で、人間はたくさんの物を発明、発見し、多くの物を手に入れた。光やガス、自然破壊や温暖化。良い物も、悪い物も、生み出したものは数え切れない。


「時代か」


 彼は悩むように顎に手をやる。彼も遥かな時代の果てをその脳裏に思い浮かべているのだろうか。そんなことより、と思ってゴホンと咳払いをする。


「なんだ、いきなり。偉そうだな」


 頬杖をやめ、彼は顔を上げて私に視線を投げてきた。


「なんだ、じゃないわ。どうして毒を盛られてあなたはそんなに平然としていられるの」

「どうしてそれではいけない」

「だって毒よ?もしかしたら私じゃなくてあなたが殺されるところだったかもしれない。私なんて今朝のことを思い出すだけで、今でもドキドキして怖いのにあなたときたら」


 自分の命に危機が迫ったことをやっと実感し始めたのか、身体が緊張している。鼓動が少し早いかもしれない。それなのに、そんな私を見て彼は薄ら笑いを浮かべた。


「怖い?それだけのことで怖がっていて王家などやっていられるか」


 彼は小さく伸びをして、ふうと息をつく。


「幼い頃から命を狙われるのは当たり前。毒に慣れずして何とする。何を言うかと思えばくだらぬことを」

「ち、小さい頃から?」


 驚いて目を丸くしてしまう。幼い頃から殺人未遂されまくっているということだろうか。


「王位を欲しがる輩は多い。その者たちから命を守るよう、幼い王子の頃から教育を受ける。我が王家に課せられた心得だ。王家の中に今回と同じ毒草で一体何人殺されたか分かったものではない」


 流れてくる言葉の列を聞き取るのに精一杯。現実離れした話でうまく呑み込めない。王位に立つ人は命がけ。それだけは分かった。


「毒味は何重にも重ねてさせてはいるが、それを越える場合も少なくはない。なかなか巧みに毒を盛る輩もいるという訳だ。私も何度か盛られたことがある。まあ、すべて見破ったがな」


 フンと得意げにその人は鼻を鳴らす。小さい頃から色々と教育を受けていたから、私が飲もうとしていたものの匂いですべてが分かったということらしい。彼にとっては今日の出来事なんて日常茶飯事。だから平然としている。私のいるこの時代は、なんて恐ろしい世界だろう。


「……でも、アイをこのままにしていたら、きっと危ないわ」


 ふと、呟いた。心のどこかがあの人は危険だと訴えてくる。


「あの人は、王家にとって危険よ」


 私だけではない。いつか彼も殺されてしまう気がする。だから私の時代である三千年後に、彼の名前が残っていないのかもしれない。トゥト・アンク・アテン、彼の名が。若いうちに殺されてしまうから。


「そのようなこと、百も承知だ」


 呆れ声が返ってきた。顔を上げると、彼は目を細めて淡褐色を光らせている。


「アイの尻尾を必ず掴み、最高神官から追い落とすつもりでいる。必ずだ。ヒロコが気にするようなことではない」


 勝ち誇ったような相手の笑みを見て、殺されそうになった恐怖も、浮かんできた嫌な考えも、どこかへ飛んで消えていく。それだけ彼は飄々としていた。むしろ楽しそうなくらいだ。


「私がいる限り、ヒロコが死ぬことはない」


 彼は神様ではない。でも、ネチェルが「ファラオがいる限り」と言った意味がなんとなく分かった気がする。ファラオは神だから、という意味ではなく、彼の人間性が安心させてくれるという意味なのだ。不思議な人だ。自信に満ち溢れるその人を見ていると、自然と笑みが零れる。

 きっと大丈夫。この人が笑っているのなら、大丈夫。そんな何の根拠もない言葉を、笑顔を、信じてしまう。


「案ずるな」


 飄々とそれだけを言って、彼は緩く微笑んだ。


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