第一話 バレンタイン前日の朝(妹の憂鬱)

2049年2月13日 午前6時28分。


「ん……」


 目覚まし時計のアラームが鳴る前に自然と目が覚める。それは毎朝の事で、もはやルーティン化しているのだが、念の為にセットしてあるウェアラブルフォンのアラームも切りながら、まだ寝ぼけている目に画面の日付が映る。


(はぁ……毎朝起きるみたいに、悩まず出来ると良いのにな……)


 弓野結花ゆみの ゆいかは画面に表示されている(2月13日)という並びを見て、靄が掛かった頭の中にそう呟くと、ゆっくりと上半身を起こした。外は氷点下だが、部屋の中はセントラルヒーティングのお陰で、今が極寒の早朝である事を忘れてしまう快適さだった。


 パジャマのまま、もぞもぞとベッドから這い出た結花は、カーテンを開け憂鬱な表情のまま、一面真っ白な外の景色を見遣り、


「今日は降りそう……」と、気の無い独り言で窓を曇らせた。


 顔を洗う為ガウンを羽織り廊下に出る直前、部屋の隅に置いてある姿見の前で立ち止まり、「背、止まっちゃったのかな……?」と呟くと、母親から半ば無理やり譲ってもらった床に届きそうなガウンの裾を引っ張ってみる。


 結花の背は160㎝にもう少しで届くところで、ピタっと成長が止まってしまっていた。母親は175㎝を超えていたので、もう少し伸びる筈と期待していたが、背に関しては父親の遺伝か……と思いをめぐらしたところで、「そんなわけ、ないか……」と寂し気に言い放ち、意味の無い思考を止めた。


 階下までの廊下は「節約は生活の基本的な心得」という母親の号令の元、日常的にヒーティングシステムがカットされていて、この時期は部屋から出た途端、廊下がまるで冷凍庫に変わってしまったかのように感じる。


「うう、寒っ! 寒いのう爺さんや……」


 結花はガウンの肩を丸め、腰を曲げながらパタパタと音を立て足早に階段を下りる。

 そして洗面所に行く途中リビングのドアを開け、奥のキッチンで既に朝食の準備をしている母親に、「おはよう、婆さんや」とおどけて挨拶をした。

 

 まな板に向かって包丁を使っていた母親の動きがピタっと止まり、Tシャツからのぞく上腕二頭筋が膨らむ。


「ほう、このナイフにまた血を吸われたい奴がいるらしい……」


 母親は切れ長の据わった眼を自分の娘に向けた。結花は瞬時に背筋を伸ばし直立不動で、「はっ! 失礼しました二等陸尉!」と敬礼する。


「わかればよろしい。サッサと洗面所へ行け結花2士!」


「イエス! マム!」


 習慣がごちゃ混ぜの返礼をした結花は、ペロッと舌を出しながら回れ右をして洗面所へ行進していった。母親である弓野里香ゆみの りかはその姿に微笑みながら、再びまな板に向き直り鮭と格闘を始めた。


 (髪、ちょっと伸ばしてみようかな……)顔を洗った後、鏡を見ながら長さを確認するように、額の丸みに沿って片手で前髪を押さえてみる。(どっちが好みだろう……?)


 結花は自身の顔の作りやスタイルが好きではなかった。周りと比較して子供っぽい、顔つきが自分の家族に似ていない、などの理由からである。


 加えて放課後や休日は父親の仕事を手伝う事が多く、友達同士と遊びに行く機会も少なかったため、身だしなみにもあまり気を遣えなかった事が、魅力の無い最大の原因だから私のせいじゃない!と主観的分析にて自己完結していた。


 しかし結花の分析とは逆に、その素朴で明るく、そして時折見せる他を圧倒する知性の片鱗によって、校内では男子から結構人気があったのだが、結花の出自が理由で今まで交際も告白されるケースも皆無だった。


 結花がパジャマの襟ぐりから中を覗いて「はぁ。」と大きめのため息を漏らしながら洗面所を出ると、ドタドタドタと階段を下りる無遠慮な音が家中に響いた。


「祥吾! うるさい!! 遅い!!」


 母親の里香がキッチンから怒鳴ると、もともとのくせ毛を更にボサボサにした兄の弓野祥吾ゆみの しょうごが「ふあぁい……」と気の抜けた返事をしながら、洗面所の方へ覚束ない足取りでヨロヨロと向かってきた。


「おぉー、ゆうー、おぉーす」


 慌ててパジャマの襟ぐりから手を放して俯く結花の傍らを、寝ぼけてまだ半分以上瞼が塞がってる祥吾が気の抜けた朝の挨拶をしながらすれ違う。


「挨拶やり直し!」


 間髪入れず壁の向こう側のキッチンから母親の鋭い声が響くと、祥吾はのっそりと振り向き、結花に向かって(昨日、勝った、機嫌悪い)とハンドサインを送った。これは母である里香の地獄耳(職業柄)から逃れる為、幼い頃に祥吾と結花の間で編み出した秘密の会話術だった。2回同じサインをした後寝ぼけ眼でニッと笑った祥吾を見て、くすっと笑ったあと幾分大きめの声で 「おはよ。」とだけ残し、結花は2階へ駆け上がっていった。


「ほらぁ母さん、ゆうーが”おはよ”ってさ。」


「おまえだ!」


 1階から聞こえる相変わらずの親子漫才に、結花はくすくす笑いながら自分の部屋に戻った。

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