PAGE.110「迷子の子猫ちゃん(その3)」
「……ふぅ」
昼休み、ラチェットはトイレのお手洗いで顔を洗っている。
顔を洗う際には仮面を外している。周りに誰もいないことを確認したのちに素顔を晒し、軽く汗の籠った肌を洗い流していく。
顔にこびりついた水滴をタオルで拭きとり、頭に引っ付いた水は軽く頭を振って取っ払う。
……すでに昼食は終えた。
クロの教師であるというカトル。その人物からクロに関する話もすべて聞いた。
クロは生徒の中でも一際癖が強く、人付き合いもしようとしない。
その一方、魔導書アクロケミスを是が非でも習得しようと懸命に勉強している。
その姿を放っておけなかったというカトルはクロに関する情報を自力で集めたという。王都学園の教師という立場を使い、王都の騎士団の知り合いから集めた情報を。
話によれば、クロはエージェントの魔法使いの娘であった。
しかし、その人物は突如行方不明になり、根も葉もない噂から裏切り者というレッテルを貼られ、そのレッテルの飛び火は娘のクロにまで飛び掛かる羽目になった。
父親を捜すため。立派な魔法使いになるため。
そのために、まずは皆に認められるよう強くなろうとしている。
そのために、魔導書最難関と言われているアクロケミスに挑もうとしている。それがクロに関する全てであった。
「なんというか、難しいもんダ」
父親の事。周りからは非難され続ける日々。
ラチェットはそんな彼女の背中を思い出し、何かを浮かべている。
「……ん?」
顔を洗い終わり、仮面に手を伸ばしたその時だった。
「ん、んんッ!?」
ない。鏡の前に置いていたはずの仮面がない。
「……っ!?」
慌てて鏡を見てみると、仮面を盗んだ犯人の後ろ姿が映っていた。
……クロだ。
あの少女、顔を洗って無防備になっている隙に近づき、即座にラチェットの仮面を奪って逃げだしたのだ。
「待ちやがれッ!!」
ラチェットは片手で顔の傷を隠しながら、クロを追尾し始めた。あまり人の多い場所に逃げるなよと心に願いながらもラチェットはその足を速める。
(馬鹿だな。追いつくわけあるか……!)
ラチェットの仮面を手に逃走するクロは自身の逃げ足に絶対の自信があった。その速さは学園の教師でさえも追うのが一苦労。次いで、年相応の小柄な見た目故に姿をくらますことも容易いのだ。
校舎の外に飛び出し、逃走を続けるクロ。
学園の外へ逃げる為、クロは学園と街を隔てる巨大な外壁を登っていく。壁に引っ付いている貯水塔のパイプを利用してよじ登り、あっという間に壁の屋上へ。
(アレだけ必死に追いかけてるんだ。これが大事に違いない……だったら、これを人質に頼み込めば、アイツも)
そっと壁の上から後ろを眺めてみる。
追いつけるはずがない。この逃げ足だけは誰にだって負けるつもりはない。
ましてや、あんな運動神経皆無なヒョロヒョロなんかにここまで追いつけるものかと余裕を切って、ひょっこり顔を出した。
「待ちやがれェエッ! クソガキがァアアッ!!」
と思いきやであった。それはそれは彼女にとって想定外の出来事だった。
……登ってる。
クロと同様、貯水塔のパイプを利用して外壁を一心不乱に駆けあがってくる。
「嘘だぁッ!?」
しかも距離は詰められてる。最初の地点で結構な距離を突き放したはずなのに、気が付けば追いつく寸前手前まで近づいていた。
驚いたクロは壁の上。学園を見渡すための屋上通路をダッシュする。
「逃がすかよッ……!」
壁を登り終えたラチェットはそれを逃しはしない。最後の足掻きを見せるクロをロックオンすると、再びダッシュで追いかけ始めた。
二人の追いかけっこは続く。だが、もうじき観念する瞬間がやってくる。
「ちっ……!」
先へ進むと、そこは行き止まりだ。
その先は壁の下へ降りるための階段へと続く扉がある。しかし、ここは一般生徒は勿論、教師でさえも立ち入りは禁止されている場所だ。そんな場所の扉の鍵を一般生徒でしかないクロが持っているはずもない。
近寄ってくる。
ゆっくりとラチェットがジリジリと距離を詰めてくる。
「……動くんじゃねぇ!」
クロはラチェットの仮面を両手で空に掲げる。
「俺にアクロケミスを教えろ! そうしなければ……この仮面を叩き割る!」
壁の上の床はコンクリートで出来ている。あの仮面の固さがどのくらいかは分からないが、全力で地面に叩きつければ粉々に割れることは間違いない。
仮面をあれだけ大事にしている変人だ。泣くか焦るかで懇願してくるに決まっている。クロは絶対の勝算を浮かべていた。
(これで従うだろ……!)
最後の脅しだ。
仮面を人質に、ラチェットに最後の取引を申し出る。
「いい加減にしろヨ……」
だが、人質を出されようとラチェットは一歩前に出る。
「返せヨ……じゃねぇと……」
「!!!」
クロの背中が凍り付く。
「子供相手でもわからねぇからナ……!!」
ラチェットの仮面の下。顔を洗っている最中だったためによく見えなかった仮面の下は想像していたよりは色男な面があった。
しかしその面を台無しにするのは……見ているだけでも痛々しい生傷の跡。顔面をえぐるように残された小さな肌のクレーター。
そして、その傷と共に恐怖を駆り立てるのはラチェットの目つき。
仮面の下の目つきはあまりにも”闇”が深い。他人を信じられなくなった少年の瞳は敵意と殺意しか籠っていない。嘘でも何でもない本物の怒りを浮かべた表情が向けられている。
蛇に睨まれたカエルのような感覚がクロに迫る。
下手な事をすれば……この男は本当に“殺るかもしれない”。
あの顔は相当苛立っている。この後のことなど知ったことではないと理性が吹っ飛んでしまっている。
下手をすれば、『誰でも良い』という悪魔な思考までもが彼の中に浮かんでしまっていることが想定に映り込んでしまう。
「いや、あの……」
震えあがる。今までに感じたことのない覇気と殺意を前に圧倒される。
クロは仮面を持ったまま、動けない。
「ううぅ……」
その姿は、あまりにも怖かった。
「うっ……ううっ……!」
12歳の少女に、その殺意は重すぎる。
親に説教されたことがなかった少女には尖りすぎた視線であった。怯えあがり、胸に込み上げる恐怖に耐え切れなくなったクロは仮面を持ったまま泣き出してしまう。
「うぐっ、泣くくらいなら最初からやるなヨ……」
泣き出したクロを前に彼はたじろいでしまう。
ラチェットはクロに近寄ると、仮面よりも先にクロの頭へと手を伸ばした。
「……人が嫌がることをするのはどれだけ酷いことなのか……お前が一番よく知ってるダロ? なァ?」
泣かしてしまった少女を落ち着かせるために頭を撫でる。こんなあやし方で泣き止むかどうかは分からないが、子供相手に本気で泣かせた事へラチェットは微かに罪悪感を感じていた。
少女の涙は止まらない。仮面を持ったまま、ずっと泣き続けている。
「ごめん、なさい」
「……俺もムキになりすぎたヨ。ごめんナ、怖かったカ?」
傷を誰にも見せたくない。そのタブーに少女は触れてしまった。
だからといって子供だろうと容赦はしないなんて発想はするべきじゃなかった。少女は事情さえも知らなかったのだから尚更だ。
子供のやることだから許してやる。とまでは行かない。
せめて、やっていいことと悪いことの区別くらいは指摘しなければ。だが、その一点の度が過ぎてしまった為に少女を深く怯えさせてしまった。
「……何処まで、聞いたんだよ」
「聞いてたのかヨ」
ラチェットとカトルの会話。その会話は中庭で行われていたのだ。
やはり気になっていたのか、クロは二人を見かけると遠くのベンチから二人の様子をずっと監視し、その会話を聞いていたラチェットを眺めていた。
「……勝手に聞いて悪かったとは思ってるヨ」
クロがその場に座り込むと、ラチェットも尻を地につけて空を眺める。
「お前の親の事、あと学園に入った理由も聞いたヨ。おかげで嫌というほど理解したサ。お前がアクロケミスを習得しようとした理由……」
話はすべて聞いた。
彼女の気持ち……全てを理解した。
「だが悪いナ。お前の気持ちが分かった今となっても、俺はお前にアクロケミスを教えることは出来ナイ」
ラチェットは自身の気持ちを彼女に正直に告げる。
手を貸すことは出来ない。その言葉にクロは深く静まり返っている。
「前も言ったが、俺は何でアクロケミスが発動できるのかが分からない……なんで俺がアクロケミスを発動できるのカ。これから調べるつもりなんだヨ、この力の事」
ローブの内側に隠してあるアクロケミスへそっと彼は手を添える。
「……だからヨ、今はお前に教えられることは何もナイ。そういうことダ」
ラチェットはクロの頭に再び手を乗せる。
「……でもヨ。それでアクロケミスの事とか多少理解出来たらヨ……お前の事、協力してやらなくもナイ」
「っ!!」
クロはラチェットの目を見る。
生傷が痛々しく、その瞳には光らしきものが見えない。
笑ってはいない。どちらかと言えば哀愁さえも感じる表情。それは彼の心を映したようなものだった。
空っぽ。仮面の裏には何もない無表情。
だけど、そんな無の素顔から……ほのかな優しさが伝わってくる。
「だから、ちょっとだけ待ってくれネェか? 俺は頭悪いから、結構時間かかるかもしれねーケド」
協力してくれる。
「お前……!」
クロはその言葉に再び涙を流しかける。
「!!」
その途端。
ラチェットの目の色が変わる。
「伏せろッ!」
ラチェットはクロの体に飛び掛かり、幼い彼女の体を固い地面に押し倒した。
「……っつ!?」
その瞬間、ラチェットの表情が歪んだ。
「えっ……?」
押し倒されたクロの頬に、ドロリとした赤い液体が滴る。
……血だ。
微かな血の雫が空へ舞い上がっている。
悲痛を上げるラチェットの表情。空を舞う血液。
その苦境の背景に……あり得ないものが彼女の目に映る。
黒いコンドル。
動物とは思えない禍々しい見た目の怪鳥が空から二匹ほどコチラを覗いている。
「デスコンドル……!」
クロはそのコンドルを前に驚愕していた。
何故なら、そのコンドルは……れっきとした“魔物の類”であったからだった。
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