第50話 明日の為に

 今井の後ろ姿を見送った後、正巳はカウンターへと歩き始めていた。


 カウンターには、女性のホテルマン……正巳達、専属のスタッフだ。


 その完璧な立ち振る舞いは、気遣いによって全てが成されている様に感じる。


 また、その仕事内容を考えるに、最早ホテルマンでは無く、執事と言う方が正しいように思えるが、ある意味その考えは間違っていないのかも知れない。


 これから正巳が頼もうと内容も、ホテルマンに対するとモノと言うより、執事に対しての依頼と言う方がしっくりくる。


(執事か……いたら助かるかもな)


 そんな事を考えながら、カウンターの女性に話しかけた。


「スーツって用意できるかな?」


 その言葉を聞いた女性は、微笑むと当然のように答えた。


「はい、ご用意いたします」





 私は、このホテルで働き始めて10年以上経つ。


 このホテルで、働く・・為には、幾つかの条件が有る。


 そして、その条件は普通に生きて来たのでは、到底達する事が出来ない条件だと思う。


 列強諸国には、其々諜報機関が存在するが、私は某国の諜報機関養成施設で育った。


 表向きは、孤児院だったが、その実はスパイ育成施設。


 毎年新しい子供達が入って来ては、毎日のようにその数が減って行く。


 物心ついた頃からそんな生活を送っていた私は、何時の日か感情と判断を分離して行えるようになっていた。……『なっていた』と言うよりは、そうならなくては壊れていた。と言う方が正しいだろうか。


 ともかく、そんな状況で育った私は、15歳になると、当然のように某国の諜報機関に配属された。


 初めての仕事だったが、緊張は意識の外に在り、いつも通り仕事を終えるはずだった。


 しかし、そこで予想外の事が起きた。


 私が、実行するはずだった”パーティー会場での自爆”が阻止されたのだ。


 ……会場に、給仕メイドとして潜入していた私だったが、いざ会場内で爆発をさせようとしたタイミング……正にそのタイミングで、私の事を抱き上げた男がいた。


 その男は壮年の男性……30代後半、40歳に片足を入れているだろう男だった。


 その男は、私を抱き上げると、自然な動きで私の持つスイッチを取り上げ、何処かに仕舞ってしまった。……あまりに自然、余りに優雅な動作で、反応すらできなかった。


 そして、そのままパーティー会場から連れ出されてしまった。


 ……抱き上げられたまま。


 彼は、周囲から『もう遊んで良いような年齢では無いだろうに』とか『好色家とは、本当だったのか』とか言われていたが、彼自身は微塵も気にする様子がなかった。


 その後、車に連れ込まれた私は、何をされても一言も発しない覚悟を決めていた。


 実際に、施設での訓練でも、拷問を受けた際に何も話さない、何も漏らさない訓練をしていた。


 ……私は、全ての訓練において優秀な成績を修めていた。


 だからこそ、何をされても話さない自信があったし、その結果命を落としても当然だと思っていた。しかし、そんな私の覚悟とは裏腹に、何もなかった。


 そう、何も。


 有ったのは、静かな生活。穏やかな日々。毎日のティータイム。動物に触れあう生活。


 そんな生活が4年、いや5年続いた。


 ……そんなある日、可愛がっていた犬が死んだ。


 朝いつもの様に散歩に誘おうと、犬小屋を訪ねたら、死んでいた。


 安らかな、寝顔だった。


 犬の下に引かれていた、毛糸のマットの上で死んでいた。


 そのマットは、夜寒そうにしていた犬の為に私が編んだモノだった。


「寒そうだったから、折角編んであげたのに……何で……」


 それ以上は言葉が出てこなかった。


 しばらくそのまま立っていた。


 どれほど時間が経ったのか分からなかったが、いつの間にか上に着ていた服が濡れていた。


 気が付かない内に、雨でも降り始めたのかと思って、空を見上げたが、そこには雲一つない空が広がっていた。それなのに、服は益々濡れる。


 頬に手をやると、何処から水が出ているのか分かった。


 ……私は、泣いていたのだ。


 それに気が付いた時、私は立ったままでいる事は出来なかった。


 犬にすがり付いた。


 そうして、泣いた。


 始めて、泣いた。


 泣き疲れた頃に、彼が来た。


 私は初めて彼の名前を呼んだ。


 私が彼の名を呼んだ時、気のせいか、彼は何か荷が下りたような表情を浮かべた気がした。


 ……私の世界に色が付いた。


 それから一年は、色々な国に連れて行って貰った。


 ……世界には、自分の持つ力で”誰かの為に生きる”そんな暮らしをしている人々が居た。


 そして、一年程経った頃、私は彼に頼んだ。


『私も、誰かの役に立ちたい』


 そう言うと、彼は私をある国の、ある施設に連れて行った。


 そこには、何かを必要としている人が沢山いた。


 外から来る人だけでなく、中にいる人にも。


 毎日気付きのある生活が楽しかった。


 ……それから10年経った。


 幾分か人間らしく振舞う事が、出来るようになったと思う。特別なお客様の対応も任せて貰えるようになった。ただ、何かが足りてないような、胸に穴が空いているような気がしていた。


 そしてある時、VIPのお客様が来た。


 その方を一目見た時に分かった。


 ”私と同じだ”


 しかし、私と違う点もある事に気が付いた。


 彼の周りには、人が居る。


 それも、彼に随分と懐いている、好いている。


 ”また何か学べる”


 そう思い、彼の事を注意して観察する事にした。





「スーツって用意できるかな?」


 正巳がそう話しかけると、カウンターの女性が柔らかい微笑みを浮かべて答えた。


「はい、ご用意いたします」


 ……この女性を始めてみた時、何となく”危険な雰囲気”を感じたが、その後の対応や行動を見るに”問題ない”と判断していた。


「ありがとう」

「いえ、当然ですので。こちらへ」


 女性がそう言うと、左手でカウンターの横を示した。


「こちら、専用の階へと通じるエレベーターとなっております」

「ほお……」


 女性の指した場所には、明らかに普通のドアしかなかった。


 しかし、ドアの前に立った女性が扉に手を添えると、音もなく横にスライドし、確かにエレベーターらしきモノが現れた。……隠し設備なのだろう。


「どうぞ、中へ」

「あぁ……」


 若干躊躇したが、断る理由もないので、中へと踏み入れた。


 中に入ると、確かに壁にはボタンがあり、数字が振ってあったので、女性の言う通りエレベーターなのだろう事が分かった。


 ……ただ、ボタンは縦一列では無く、4列ほどあり、所々虫食いのように数字が振られてない事には多少の疑問を覚えた。


「……このエレベーターは、横にも移動するんですよ?」


 俺の疑問を感じ取ったのだろう、女性が説明してくれる。


「俺に教えて良いのか?」

「はい、お客様は、今後もコレを使う機会がありそうなので」


 そんなに満面の笑顔で言われても……


 その後、間を置かずに目的の階まで付いた俺は、鏡の前で着せ替え人形と化していた。


「……普通ので」

「分かりました。それでは、せめて素材はこの防刃、防弾のモノでお作りしますね!」


 そう言って、店員の方が操作すると、目の前の鏡に写っている俺の姿が、スーツを着たモノに変わる。……大変便利な技術で、俺自身が着替える必要が無い。


「分かりました……それでお願いします」

「はい、承りました!」


 店員さんが、満面の笑みで答える。


 ……防刃、防弾のスーツとか誰が着るのだろうか。


 大統領とか、首相とかなら必要かもしれないが、俺はあくまでもサラリーマンで……あ、そう言えば俺の泊っている部屋は、最上級のVIPの部屋で……


 まあ、最初に提案されたスーツよりは”普通”になったし、良いかな。


 最初は、どこの戦場に行くんだ!って言いたくなるような内容だった。


 ただ、無線装置を内蔵する機能は、マムと連絡を取り易くて便利だから付けて貰ったけど。


「それで、朝には出来るんだっけ?」

「はい、今から調整カスタマイズしますので、朝にはできるかと」


 どうやっているのかは知らないが、ホテル内若しくは、近くに裁縫施設があるのかも知れない。


「分かった。それじゃあ、頼む。あと、送迎を頼みたいんだが……」


 明日行くのは、取引先。


 何か所も回る必要があり、且つ目立ってはいけない。


「はい、キャデ――」

「あ、普通の車で」


 今、口走ろうとしたのは超有名な長高級車だと思う。


 絶対に目立つし、論外。


「それですと、我々が使うような業務員用車両しかご用意できませんが……」

「あ、それで良いです」


 業務用車両……ピッタリの車両ではないか!


 キャデ○○○○や、ベン○等の高級車で無ければ十分だ。


「……承知しました」


 少し残念そうにしている、女性は放っておく。


「ここを10時くらいに出たいから、そのつもりで頼む」


 あと一時間もしない内に、日付が変わるだろう。

 この後はゆっくり休んで、朝出発しよう。


「はい、承知しました」


 そう返事したホテルマンの女性に、来た時と同じようにエレベーターを操作して貰う。


「……明日は君が運転するの?」

「いえ、私は車の運転が出来ませんので、専門のドライバーがお付き致します」


 何でも出来そうな雰囲気だが、女性も出来ない事が有るらしい。


「へぇ、何か意外だな」

「……意外、ですか?」


 表情の抜けたような女性に正巳が答える。


「ああ、何となく、何でもできそうな気がしてた」

「……いえ、私は何も出来ません。ただ、与えられているだけで……」


 もしかすると、言ってはいけない事を言ってしまったのかも知れない。


 そんな風に心配したが、エレベーターが付いた後、女性が変わらない笑顔で見送ってくれた。


 女性の様子に安心した正巳は、そのまま部屋へと戻った。


――

 部屋に戻ると、子供達がリビングで一つにまとまるようにして、寝ていた。


 気温は管理されていて、そのままでも問題なさそうだった。


 ただ、何もないよりは良いだろうと判断し、掛布団と枕を持ってきて、何人かの頭の下に入れた。


 その後、寝室で横になっていると、マムが話しかけて来たので、二三会話した。


 マムの話によると、子供達は話し合いをしている内に、みんな寝てしまったらしい。


 まだ時間あるが、子供達の内、何人かは故郷に送り届ける事になるだろう。


(その時までは、親代わりをしよう)


 そう心に思いながら、沈むように眠りに落ちて行った。

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