16.***遠慮***

「月がお隠れになるほど……どこぞで長縄ながなわが絡んでおろうな」


 天津神2位の月詠がはじき出されるほどの神族ならば、おそらくは国津神の一族だろう。それも長く信仰の対象であった上位の神々のお1人だと呟いた。しかし言霊を恐れて神を特定する響きは使わない。アカリの用心深い姿に、真桜は左手の指をぱちんと鳴らした。


 ぱちん、ぱちん……その響きに合わせて、声に出さず数える。


『ひ、ふ、み、よ、いつ、むの、なな、や、ここのたり』


 唇の動きに合わせて、真桜の長い髪が揺れた。解いた髪の間から血が垂れる。額や頬に小さな切り傷がいくつか生まれ、赤い血を滲ませた。


 己の身を傷つけることを代償とした新たな清めを施していく。御霊を呼ぶためにアカリが清めた地を、新たな血で上書きしたのだ。


「……っ」


 ずっと我慢していた糺尾くおんが声を上げそうになり、隣の藍人あいとが彼の口元を手で覆った。目を見開く糺尾に首を横に振る。師匠である真桜が命じたのは「声を出さず、結界から出ない」という簡単なものだ。外へ出ず声を上げなければ、敵に気づかれず守られる――これは外にいる真桜たちにも適用された。


 帝や子供達が危険にさらされれば、真桜が代わりに呪詛を受ける必要が出てくる。身の内に闇を飼う存在であっても、呪詛は身をむしばみ寿命を食い荒らす毒だった。


 師匠を想う弟子だからこそ、声をかけてはならない。


 数え終わると、結界を解いて立ち上がった。ふらりと足元がおぼつかない真桜を、アカリが支える。しかし一緒に崩れ落ちそうになり、慌てて華炎が真桜を、アカリは華守流が抱きとめた。


「悪い、ふらついた」


 額を伝う血を無造作に拭い、真桜が舌打ちする。失敗したのだ。亡くなった乳母の魂を呼び寄せる術は、闇の神族たる真桜にとってさほど難しいものではなかった。


 油断したつもりもない。しかし失敗した。「掴まるから逃げろ」と必死に警告した御霊は、長縄に首を取られて消える。つまり、長縄が示す神が彼女の魂を繋ぎとして人に呪術を及ぼす可能性があった。


 本人が意図せず操られたとしても、このままでは呪術の依代よりしろとされる乳母の魂は闇にちる。


『真桜さま、父君に助力をお願いしては……』


「絶対にダメだ」


 黒葉の言い分はわかる。死んだ魂を管轄する闇の神王は、国津神の最上位だ。彼の神に頼れば長縄の神を退けて、乳母の魂を救えるだろう。しかし人の世の呪いに、神が関与する前例を作ることは危険だった。


 ちらりと視線を向けた先で、糺尾はまだ藍人に口を押さえられていた。


「もういいぞ」


 苦笑いしながら許しを与えれば、藍人がほっとした表情で手を離す。山吹は衝立の奥に身を隠した瑠璃を気遣い、糺尾は裸足のまま駆け出して真桜に抱き着いた。


「師匠、痛くない?」


「平気だ」


 狐としての面が強く出る幼子は、手についた傷をぺろりと舐める。人の姿を纏っていることを忘れた仕草に苦笑して、黒髪を乱暴に撫でた。


「こら、人の姿で狐の行いはダメだ。誰に見られるか常に気を張っていろ」


「……はい」


 しょんぼりした糺尾の後ろに、くたんとした尻尾の幻影が見える気がした。くすくす笑いながら、真桜は「でも、ありがとうな」と幼子を抱き寄せる。膝をついて目線を合わせた。そんな2人をじっと見つめる藍人へ、アカリが歩み寄る。


「そなたも行くがよい」


「いえ……僕は」


「子供が遠慮などするものではないよ」


 後ろから山吹が声をかける。後押しされたように、数歩進んだ藍人へ向けて真桜が手を伸ばした。


「ほら、来い」


 抱き着いた真桜の腰に手を回し、顔を押し付けて涙を零す。大切に自分を慈しんでくれた乳母が苦しんでいた。すべて自分の生まれが原因なのに、彼女はそれでも恨み言ではなく「逃げろ」と案じてくれる。助けるための力を持たない非力さが悔しかった。


「その思いを忘れるな。お前の信念になる」


 ぽんと背中を叩いて涙に気づかないフリをする真桜の胸で、藍人は気が済むまで感情を流した。

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