第73話 朝の訪れ
私たちがヴェルデルッツォの町を馬車で経ってから、もう半日あまりの時間が経とうとしていた。皆一様にこれまでに積もり積もっていた様々な疲れが出たのか、馬車に乗ってからは揃って泥のように睡眠を貪っていたものの、馬車の車輪が道の出っ張りか何かに乗り上げたのか、縦にがくんと揺れたその拍子に、私の意識は暗い水の底から一気に浮かび上がったようだった。
「ん……なに……?」
まだ少し重い、この両瞼の切れ間から覗いたものは、仄かな明かり。
それは、馬車の車窓から俄かに漏れ伝わってくる極めて穏やかな光で、それまで長く夜の帳に覆われていたはずの暗き地平の彼方から、新しい一日の始まりを連れてくるようだった。
「これから朝が……訪れようとしているのね」
柔らかな黎明の導きに照らし出された車内には、まだ他の皆が安らかな寝息を立てていて、その身体を上下させている様子が見て取れた。それから間もなく私は、傍らにあった車窓へと手を伸ばし、今も夢の中にある彼女たちを起こさないように、その硝子窓を出来るだけゆっくりと開け始めた。
「……すぅ……はぁ……」
少しだけ開けた窓の向こう側から流れてきたものは、朝の訪れをひしひしと感じさせる、とても
「これは……何の香り、なのかしら。これまでの記憶を辿っても思い当たるようなものはないけれど……でも何いうか、身体が洗われるような感覚があるわね」
自分でそう言いながら、私はふと思い出した。かつて屋敷で目にしたとある本の中で、同じような形容を以て記されていたものがあったことを。それは――
「海の香り……これが、そうなのかしら……」
フィルモワールは美しい滄海――ヴェルメリアに臨んでいることから、その首都であり、またこれから足を踏み入れることになるオーベルレイユの町は、古くから『ヴェルメリアの宝石』と称されてきた。
そしてまた、その海から漂ってきているであろう潮風がこの私たちに届くということは、私たちの目指すべき地がもう目と鼻の先にまで迫って来ているということを明らかに示していた。
「ん……んん……あれ、メル? 先にお目覚めになっていたの……ですか?」
「あら、ごめんなさいリゼ。どうやら起こしてしまったようね」
「いえ……何だか、不思議な香りがしてきたものですから」
「ふふ、リゼ。これはきっと、海の香りよ」
「海の……? ……それでは!」
「ええ。どうやら私たち、フィルモワールのすぐ近くにまで来たようだわ」
白み始めた空は急速にその姿を変えていき、その地平に
東西に広がる土地を持つフィルモワールは、東に自由を貴ぶ首都オーベルレイユ、西に芸術が盛んな美の都グランヴェリエをそれぞれ擁していて、書物から各々のありさまを伝え聞く限り、両者はさながら月と太陽を想わせるかのように、それぞれが別の輝きを以てその地に住まう人々を互いに照らし合っている様子だった。
「あ……メル、見て下さい! 大きな塔のようなものがあちらに!」
「まぁ……! あれが、そうなのね……」
車窓から頭を出して馬車の向かう先を確かめたリゼにつられるように、私が同じ方向にその視線を投げかけると、其処には天を摩するかの如く聳え立つ、極めて大きな
そしてその魔導石こそが、首都オーベルレイユが『ヴェルメリアの宝石』と
「……
それから程なくしてレイラとエフェスも揃ってその目を覚まし、私たちを乗せた馬車は正面から降り注ぐ暖かな陽光に迎え入れられるようにして、フィルモワールが誇る首都、オーベルレイユへの玄関口へと到達した。
入国審査は先にエヴァから預かっていた特別な許可証があったことで、何の滞りもなく皆が無事に通過し、私たちは念願であったフィルモワールの地へとようやくその足を踏み入れることが出来たのだった。
「ここが、フィルモワールの首都、オーベルレイユ……この場所こそが、私たちが私たちとして、何者にも憚ることなく自由に生きることが叶う、安息の地なのね」
「私たち、本当に辿り着けたですね……この、フィルモワールに!」
「皆が無事で、ここまで来れて本当に良かったです。メルたちにとって今のこの瞬間は、道中からご一緒した私とは比べものにならないほど、感慨深いことなのでしょうね……」
「まだよく分からないけど……嬉しい、のかな……? 私も……」
本を通して得た情報によれば、歴史的に度重なる侵略と支配を受けてきたフィルモワールには、様々な人種が古くから犇めいていて、彷徨える人達にも少なからずその受け口を用意しているという。
さらにまたこの地では、世界に遍く神の教えよりも個としての意思が
赤煉瓦の屋根が軒を連ねる美しい街並みには、まだ早朝の静けさが色濃く立ち込めていて、石畳に彩られた通りを往く人々は極めて疎らで、まるで街の中に私たちだけしか居ないような錯覚すらをも覚えた。そんな中、最初に私たちを迎え入れてくれたのは、通りの中頃に姿を現した一匹の白い猫だった。そしてその猫は私たちの方に一瞥しながら尻尾を振って見せると、そのまま何処かへと去って行った。
「あら可愛い……ふふ、あの大きさからして雄猫かしら。どうやら私たちに朝の挨拶をしてくれたようね」
「はは、本当ですね。ここには大きな港もあるようですから、あの子たちにとっては食べ物も豊富にあって、天国なのかもしれません」
街中を縫うように拡がり、刻々とその明るさを増してゆく朝の光は、故国の冬日を想わせるほどに優しげで、この地がこれから夏を迎えようとしていることを忘れてしまうほど、とても心地の良いものだった。
「さぁて、今日からまた忙しくなりそうね。まずは何処かに宿を借りて、其処を拠点に色々と動きましょうか」
「そう言えばメルは以前、ここでお店を開きたいと仰っていましたが、本当にそうされるおつもりなのですか?」
「ええ。最初にそう思い立った時は本当に漠然としたものでしかなかったけれど、何か目標があった方が面白いじゃない。まぁ四人もいれば、何とか出来るはずよ」
「え……私も、皆の中に入ってるの?」
「そうよエフェス。町についたからはいさようなら、だなんてそんなのあまりに寂しいもの。せっかくだから、皆でここでしか出来ない何か楽しいことをしていきましょうよ。これから色々とね」
「うん……ありがとう、メルお姉ちゃん」
――まずはこの町で生きていくにあたって、必要な情報を出来る限り多く仕入れなくてはね。ここからまた別の意味で大変な道のりになるかもしれないけれど、今まで以上に生きているって感じがするし、たとえ新たな困難が立ち塞がってきても、この四人が居れば何とか乗り越えていける……そんな気がするのだわ。
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