名字が変わっていた
曇っている。外は相変わらず曇っている。
誰もがみんな、睦月先生を霜月先生と呼んでいた。それが当然であるかのように、皆がみんな、先生の名前の唐突な変遷を受け容れていた。なにひとつ、誰一人、怪訝な表情を浮かべもせず。
「あ、の……霜月、先生」
「どうした、久之木」
「ああ、いえ、すみません何を聞こうとしたのか忘れました」
「はははっ、なんだそりゃ。ま、思い出したらもう一度言いなさい」
当の睦月先生ですら、だ。なにも疑問に思っていない。最初から自分の名字が霜月だった人間であるかのようにしている。演技だとはとても思えなかった。もしもそれが演技なら、相当な役者となる。しかし先生は普通の教師で、知り得る限りでは俳優の過去はない。
「久之木くん、今日も先生に送ってもらう?」
「霜月先生にか」
夕陽の問いに、わざとそう返す。霜月先生、という単語に対する彼女の反応を知りたかった。答えは自明だが、ひょっとしたらと思っていたのだ。
「ええ、霜月先生に」
自明は自明だった。
夕陽は自らが発した言葉のおかしさを知らない。気付いていない。つい昨日までは、彼女も睦月先生と呼んでいたという事実を忘れてしまっている。
「どうするの?」
「送ってもらおうかな。俺んち今、父さんも母さんも海外へ行ってるし」
「そう。それなら私もそうしようかな。私のお父さんとお母さんも、ちょっと遠くにいるから」
それから夕陽とともにまた、俺たちは睦月(霜月)先生に送ってもらえるようにお願いした。名字の時間が十か月ほど流れてしまった先生は、なにを気付いた様子もなく、「もちろんだ」と快諾してくれた。他のクラスメイトはみんな、親が迎えに来てくれるらしい。
……陽香はどうするのだろう? 親が迎えに来てくれるのだろうか。昨日は昨日で、彼女は無事に帰宅できたようだが。
「あの、先生。ひの……未知戸陽香もいっしょに送ってもらうとか、できますか」
「未知戸だな。もちろんいいぞ。生徒の安全を守ろうとするのに、クラスの境目は存在しない」
「ありがとうございます。ちょっと聞いてきます」
教室を出て、陽香のクラスを目指す。
陽香のクラスは廊下の奥の奥、最奥だ。一年I組。俺たちのC組からD組の前を通り、I組の前に着く。途中、廊下に人気は皆無で、I組の中を覗き込むと、陽香が一人、机に座っていた。他の生徒たちはいない。床には夕陽を受けた窓の桟の影が落ちている。部屋全体が夕焼けの朱に満ちている……あれ、と思う。疑問が浮かぶ。疑問が浮かぶ、というガワだけを理解する。疑問の中身が分からない。なにかがおかしい。おかしいはずなのに。いったい、いったい俺は何を見逃している?
「あれ、オーリ? どうしたのここに来ちゃって」
なんぞ、という風に陽香が首を傾げる。片足を机の上に乗せ、なかなかに行儀の悪い恰好をしている。
「帰り、どうするんだ」
中身の分からない疑問を頭から払いのけ、陽香との会話に集中する。
「帰り? あー……、そういうことね。私は大丈夫、へーきへーき。ユーヒと二人で仲睦まじく帰ればいいじゃないの。邪魔なんてしないわ。馬に蹴られちゃうもの」
ふん、と陽香が鼻を鳴らす。なんか拗ねてる。
「通り魔がいる。危険だろ」
「大丈夫だってば。その通り魔は私だから」
笑みの欠片もなく、陽香はそう言い切った。
「……陽香、そういう冗談は止せ」
「やっぱり不謹慎?」
「ああ。俺だったからいいものの、他の人間に聞かれたりしたらヒンシュクを買う」
「そうね、ごめんなさい。笑えないジョークを言ってしまったわ」
素直に謝る陽香に、多少バツが悪くなった。今の陽香の言葉に悪意があるわけでもなしに、少しキツく言ってしまったかもしれない。身近で起こる現実非現実に、俺の心の余裕はだいぶ削られてしまっているのか……きっと、そうだ。
「ねえ、オーリ」
「うん……?」
「素晴らしいシチュエーションだわ、今」
急に眼を輝かせて、陽香がぴょんと机から降りた。
「夕暮れ。教室。空っぽの机。床に落ちる窓の桟。愛し合う男女……これらの要素が今、この場面には揃っているの。ねえ、オーリ、オーリ? この場面はいったいどんなシーンに繋がるのかな?」
「シーンって……」
はあ? という表情を俺は浮かべていることだろう。
いきなりテンションの上がった陽香に面食らってしまったのだ。
「今ここにはあなたと私の二人っきり」
陽香の両の目尻が下がり、口角が吊り上がる。頬は紅潮し、微かな吐息が聞こえる。蠱惑的な笑みを浮かべて、彼女は俺を見つめ続ける。
「なにを……どうしたんだ、陽香……」
「ふふ、ふふふふふ」
じりじりと、陽香が俺との距離を詰める。ぴょこぴょこと、彼女のサイドテールが思わしげに揺れる。
心臓が早鐘を打つ。ヂ。ノイズ音。後頭部の痛み。これはいけない。なんだか分からないがこれはいけない。
『連れて行かれてしまいます』
頭に浮かぶその文言。前にあるのはどんな文章だった? 思い返す余裕もない。今はとにかく、逃げ────「きゃひひっ」
ぎゅう、と。抱き締められた。
「オーリつーかまーえたっとぉ」
陽香の身体の感触が、柔らかく俺を抑え込む。強く腕を振り払えば、それだけで容易にはねのけられるほどの力だ。……なにも、起きない。起こらない。ヂヂ。
「少し遅いな、と思ったら……なにをしているの?」
教室の入り口のところに、夕陽が冷めた目をして立っていた。
「ゆ、ユーヒ……!? どうしてここに」
「呼びに来たのよ。呼びに来たら未知戸さんが一方的に桜利くんに抱き着いていたから、どうしたものかと困っていたの」
ぎゅうう、と陽香の抱擁が力を増す。どこか甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「渡さないからっ」
「渡さないと言われても……離れないと家に帰れないわよ。個人的には気まずいから早く離れてほしいし」
「なら今日はここに泊まる」
「ダメ。バカ言ってないで帰るわよ。霜月先生も待ってるわ」
ずんずんと夕陽がやってきて、俺と陽香をむんずと掴んで引き離す。
「なんで桜利くんも、抱き締められるがままにしていたの?」
ぼそ、と夕陽に睨まれた。普通に怖いな、と思った。彼女があの黒い影であることを踏まえても、迫力がすごい。
「いや、なんか、不可抗力……」
「そらふかふかしてたからでしょーに。女の子はみんなふかふかしているものだしぃ?」
にやり、と言うと陽香は夕陽の胸部を見、「あ、ごめんなさい。例外もあったわ」と小さく謝った。
「……行きましょう、桜利くん。未知戸さんは残念だけれど、ここに永住したいようだから置いていくわ」
「ゆ、夕陽っ……」
腕を掴まれ、夕陽に連れて行かれる。
すると逆の腕もまた、掴まれた。陽香だった。
「連れて行かせはしない。連れて行かせはしないわよ。オーリはここで私といっしょにいるんだからぁ……!」
「ま、待て、待ってくれっ。千切れる、俺がちぎれるっ……!」
前と後ろから全力で引っ張られ、悲しいかな、身動きがとれない。なんかこう言うのが昔……「大岡裁きかこれは……」
「オーオカサバキ? なにそれ、誰かの芸名?」
問いながらも、陽香は引っ張る力を緩めない。
「母親と思わしき人物が二人、一人の子供を巡って引っ張り合ったお話よ」
答えながらも、夕陽は引っ張る力を緩めない。
「へー、その子、千切れちゃったの? オーリみたいに」
「俺を千切る前提で話すな」
「まーまー、落ち着いてオーリ。千切れてしまったらそのときはそのとき。結果オーライだし……!」
「よくないだろっ」
「オーリのママは私なのよ、この未知戸陽香なの……!」
「ちげえわ! それに母親だったら離す方だろっ」
「私は独占欲の強いママなのよ!」
「知らんわ!」
「桜利くん段々言葉が荒くなってきてるわ、怖い……」
「だったら離してくれっ……」
「あんまりオーリがカワイソウだから、せーので手を離しましょうユーヒ」
「そうね……」
「せーの」
「せーの」
弱まらない。ちっとも弱まらない。
双方とも、示し合わせたかのように弱めない。
「いや、離せよっ……」
夕暮れに満ちた教室内、しばらくの間俺の両腕は引っ張られ続けた。
◇
一年C組に戻ると、む……霜月先生が一人、窓際でどんよりと曇っている空を眺めていた。曇天であるため、夕暮れの赤色がすっかり遮断されてしまっている……ああ、そういう。
「お? 来たか久之木に一乃下、それに未知戸。なんだか遅かったな」
霜月先生の言葉に、俺は苦笑いで答えるしかなかった。
「千切れなくてよかったって思います」
「……? そうか。なら今日は三人だな、よし、今から無事に送り届けてやるからな。この一介の数学教師、
やっぱり、先生の名字は変わってしまっている。
そして、さきほどの違和感の正体も分かった。
今は曇り。今日は朝からずっと空は曇り模様である。
というのに、なぜ。陽香のいた教室だけあんなにも夕暮れの朱に満ちていた?
……分からない、あれも不条理の一環であるというのか……分からない、分からない。
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