夕陽ヶ丘通り

 本日、事務所は早々に閉めることにした。


 事務所の扉に鍵をかけたあと、稲達はすぐ傍らに控えていた夕陽に、「帰ろうか」と言う。

「ええ」と夕陽は頷いた。その口元からは白い吐息が漏れていた。


「日が落ちるの、ほんとに早くなりましたね」


 夜の満ちた空を見上げ、通りを歩きつつ芙月が言う。


「もう十一月だもの。あんまり夜遅くまで出歩いて遊ぶと風邪をひいてしまうわ。これからどんどん寒くなってくることだし、舞ちゃんも心配してしまうでしょ」

「分かってますよー。あと私基本ヒッキーですし、あんまり外出歩くの好きじゃないんですよね。人に接すれば接するほど、私の心は摩耗するんです」

「ふふ。おおげさな言い方」

「ほんとうなんですよぅ。私は人づきあいに向かない人間なんです、ア・プリオリに!」

「あら、難しい言葉を知ってるのね」

「私ももう高校生ですからっ。本だっていっぱい読んでますし! 一日に一冊は読んでますしますし!」


 先天的ア・プリオリに、人づきあいに不向き。その言葉はきっと、経験的ア・ポステリオリなものだ。稲達は朗らかに夕陽と会話している芙月を見つつ、そんな考えを抱いた。彼女の出自は少々特殊……いいや、彼女が特殊だというよりも、彼女の母親が、か。


「あ、久之木せんせー」


 若々しい声が、前方より聞こえる。姪である芙月と同じ制服を着用した生徒たちが四人、そこには立っていた。「うげ」という声が聞こえたかと思うともう、芙月は稲達の背後に隠れていた。両の手でしっかりと稲達のジャケットの裾をにぎりしめ、縮こまっている。


「なにをしているんだね、きみは」

「……学校以外の場所でクラスメイトと会うのはちょっと。あんまり仲良くない人たちですし」

 

 人見知りを発動した芙月を背中に張り付け、稲達は夕陽と軽い挨拶を交わす生徒たちのにこやかな表情を眺め見ていた。女子生徒が二人と、男子生徒が二人。一人が金髪である以外は、特に変わったところはない。すると生徒の一人が稲達に気付き、誰だろうこの人は……というしごく真っ当に怪訝な表情を浮かべる。稲達はにこやかな表情で「どうも」とバリトンを放った。芙月の身体はまるっと隠れているようで、生徒たちが気付いた様子はない。


「私の夫なの」


 そう、夕陽が言う。「ええ!?」と生徒たちは驚きの表情を浮かべているのが三人。金髪の女子生徒だけは、全くの無表情。その子は一番後ろにいるため、他の三人はその子の表情の変化の無さに気付いていない。じぃっと、その金髪の女子生徒は稲達の姿を視界の中心に捉えている。


「せ、先生ってご結婚されてたんですか!?」


 もう一人の女子生徒が言う。夕陽は「言ってなかったっけ?」と首を傾げた。「知りませんでした! えらいこっちゃでした!」とその女子生徒はパニクっている。そんなに驚くものなのか、と稲達は感心した。


「いちおう、結婚指輪もしているのだけれどね」

 

 と、夕陽はくすりと左手の薬指をかざす。そこにはシンプルな意匠の銀のリングが嵌っていた。稲達が贈ったものだ。むろん、稲達の指も同じものを通している。


「先生ってとても綺麗な人ですから、いつもお顔しか見てなくて……」


 照れくさそうに言う女子生徒の背後、金髪の少女の表情は相変わらずの無、である。稲達は微かな気味の悪さを覚えた。彼女の視線の圧が、なんというかすごいのである。無表情でじぃっと、見てくる。


「この方が、久之木先生の……」


 生徒たちはおずおずと稲達の姿を盗み見ている。稲達はなんとなく居心地の悪さを覚えつつも、顎髭を触りながら生徒たちへと微笑んだ。さっと視線を逸らされた。少し傷ついた。


「あなた達も早く帰るようにしなさいね」


 夕陽が言うと、生徒たちは「はぁい」と言い、別れの挨拶を残して稲達たちの傍を通り過ぎていく。すれ違うその瞬間、「えひひ」と笑う声を稲達は聞いた。ヘンな笑い方だ、と思った。


「すごい。所長って衝立ついたての才能がありますね。ミスターパーティションっ」


 稲達を生徒たちとの間の壁にしていた芙月のお褒めの言葉に、稲達は苦笑する。


「……」

「なにか、気になるのか」


 夕陽が無言で、さきほどの生徒たちの後姿を見つめているのを見、稲達はそう尋ねた。「いいえ。なんでもないわ」と夕陽は首を横に振る。決してなんでもなくはない表情だった。疑念と猜疑があった。


「それはひょっとして、あの金髪の子のことかな」


 思ったままに、稲達は言う。


「……ふうん? どうしてそう思うの?」

「あの子だけ、表情の変化が一切なかった」

「へえ、よく見ているのね」


 少し眉をひそめ、夕陽が皮肉げに言う。


諏訪すほうさんですね、一か月と少し前に転入してきた子です。金色の綺麗な髪で、見た目も可愛らしくて男子女子両方ともに大人気の子です」


 芙月が言う。諏訪、という言葉に稲達は聞き覚えがなかった。一切、なかった。


「そ、諏訪すほう玲那れなさん。成績も良く、日ごろの生活態度も良い。先生方からの評価も高いわ」

「そうか」

「あなたとあの子では、年の差がありすぎるから」


 夕陽のその言葉に含まれた意図を、「少し、気にかかっただけだよ」と稲達は首を横に振って否定する。本当にただ、なんとなく気にかかった、あの子の視線の強さに疑問を持っただけだった。稲達はすれ違いざまに笑っていった金髪の少女のことをなにひとつとして知らない。


 稲達孤道は、諏訪玲那に関して知り得る何ものも持たない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る