1-6.失った日常
図書室を出ると、煌賀は
『なんで窓から……』
「どこ行くの……?」
無言で手を差し出す相手に向かい、不安気にそう聞いた。
「さっき言ったろう? お前に世界を見せてやると。自分の身に起きている事が信じられないのなら、その目に直接見せてやる」
「でも、外は危険なんじゃ……」
野犬に襲われた時の事を思い出す。あんな危険な事が城の外にはきっとあるのだ、そう思うと腰が引けた。
「そうやって逃げているから、ヨキに好き放題言われるんだ。他人の言葉が信じられないなら、自分の目で見て、自分で判断しろ」
煌賀の目を見返す。初めて会った時と同じ、燃えるような瞳だった。
千晴は差し出された手を取ると、彼に抱えられて城の出窓から外に飛び出した。
********
城を出ると、眼下には湖が広がっており、湖面は昼の光を浴びてキラキラと輝いていた。
足が地面に着いたのを確認し、彼の手から離れると、崖の
煌賀が
「……本当にこの大陸は空に浮かんでるの?」
「そうだ。見に行きたいとは言ってくれるなよ? この雲には
だから千晴を連れて来る時には魔法を使って別の方法で連れて来たのだと、彼は教えてくれた。
千晴は崖下から視線を上げ、遠くを見渡した。雲海の先には壁のように大きな
「ヨキの言い方がきつかったのは、何もお前のせいって訳じゃない。あまりヨキを
「そうなの? 私の事、嫌ってるような感じだった……」
「お前を嫌ってるんじゃない。人間が嫌いなんだ」
首を
「ヨハンス大陸に人間はいない。昔は少数ながらも暮らしていたらしいが、迫害されて、今は一人もいないらしいな」
「……なんでそんなに嫌われてるの?」
「もう何千年も前の話だから俺も当時の事は分からないが、遥か昔、この大陸がまだなかった頃は人間とも共存してたらしい。当時も
「それで、人間が勝ったから人間以外はここに住んでるの?」
彼はいや、と首を振った。
「賢竜が勝った。だが、賢竜の強大な力によって世界に大きな打撃を与えてしまったんだ。それに怒った天が、当時の賢竜全てを殺してしまった。そうしてヨハンが賢竜となって、荒廃してしまった地球から皆を守る為、この大陸を作って暮らすようになったそうだ」
「え、待って。あの人って何千年も生きてるって事?」
「賢竜は長命だからな。強大な魔力のおかげで体も丈夫だ。他の生き物とは同じ尺度で測れない生き物なんだ」
千晴は目を見張った。まるでお
「当時の状況を知っているのはヨハンだけだ。だがヨハンに仕える者達は、この大陸の創生期から一族で代々仕えている者が多い。自分達の祖先から
「……だから最初にあんな忠告したんだね」
「聞きゃしなかったけどな」
軽い嫌みが飛んできて、うっと言葉を詰まらせた。
千晴は眼下に広がる雲海を見渡す。ゆらゆらと風に流れていく雲は、本当に水面が揺れているようにも見えた。
「……なんでこんな事になっちゃったんだろう」
ふと、そう
ただ寄り道をして帰ろうと思っただけだった。いつも通りの一日だった筈だった。
こんな簡単に平和な日常が変わってしまうなんて、思ってもいなかった。
「……自分が何なのか、どうすれば分かるんだろう。あの司書官やヨハンって人に教えられても、どうしても自分の事を言ってるとは思えなくて……。私は私で十七年間生きてきて、この私しか知らないのに、どうやったらそれ以外の自分を理解出来るんだろう……」
煌賀はただ黙っていた。千晴は答えが欲しかったのに。
ただ、自分に納得のいく答えを知りたかった。しかし誰に聞けばいいのかも、どうやって知ればいいのかも分からない。
「煌賀はどうやって賢竜になったの?」
「……俺とお前では状況が違う。参考にはならない」
どうにか手がかりを
「昔の事、あまり話したくないの?」
「……お前には関係ない」
ここに来てからというもの、千晴は強い
ふと気付くと、学校や家の事を思い出していた。
『そういえば、私の作った看板作り直せって言われてたんだった。結局あのまま行く事にしたのかな。それとも誰かが作り直してるんだろうか……』
『進路調査の紙、結局まだ書いてない。今週中に提出するよう言われてたっけ……』
『あ、来週お母さんの誕生日だ。たまには何かプレゼントでもしようかな……』
「ふっ……」
急に笑い出したこちらに、煌賀が
「どうした?」
「いや、何か
口では笑っているのに、
悲しいのか可笑しいのか、どちらなのだろう。頭が混乱しているせいで、心までおかしくなってしまったのか。
力ない言葉が、ただ口から零れていく。
「なんでこんな事になっちゃったんだろう……」
「……いつも事が起きるのは
そうかもしれないけど、と震える声で言った。
「でも、そんな簡単に納得できるものじゃないんだよ。手放せるものじゃないんだよ。高校生活、あと一年とちょっとしかなかった。もうすぐ文化祭で、クラスの皆と毎日放課後残って、一生懸命準備して。
それ以上は声が出なかった。いつまでも流れてくる涙を止めようと、
『あんたにはまだ分からないのよ。そういうあんたが当り前だと思ってるものは、思ってる以上に貴重なものだって事が』
頭の中で、母がそう言った。千晴は唇を噛みしめる。
今なら痛い程に分かるよ。
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