7-1 もう逃がすわけにはまいりませんわ!~前編~
アリツェはたまらずむせこんだ。何かが喉に、ざらりと張り付く。視界を奪っている、この煙らしきもののせいだろうか。
眼球もわずかに痛みが走り、あふれでる涙で瞼を開き続けられない。だが、敵を前にして、目を瞑るわけにもいかなかった。痛みに耐えつつ、アリツェは薄目で眼前を見つめ続ける。
と同時に、胸をトントンっと叩きながら何度か咳払いをして、喉のいがらっぽさを取ろうと試みる。繰り返すうちに、どうにか呼吸も落ち着いてきた。
「グッ! こいつは、煙玉か?」
ラディムは怒鳴り声を上げ、左手で目のあたりを必死にこすっている。
「これ、わずかに霊素を含んでいるわよ! マジックアイテム!?」
クリスティーナの指摘に、アリツェは改めて周囲を取り巻く煙に意識を向ける。確かに、微かではあるが霊素を感じた。
ただの煙でないならば、このまま放置しておくのは非常に危険だ。だが、ペスをマリエの元に置いてきたため、今のアリツェは精霊術を使えない。
「不味いわ! 精霊術の発動が、妨害されているわよ!」
クリスティーナの怒声が飛ぶ。
クリスティーナがイェチュカたち使い魔に、なんらかの精霊術を使わせようと試みたようだ。だが、一向に効果が発揮されない。
どうやらこの煙は、視覚の妨害だけを目的に使われた訳ではなさそうだ。最大の狙いは、霊素に何らかの干渉をすることで、アリツェたちの精霊術の発動を妨げようというものなのだろう。なんとも厄介だった。
「こんなものまで、開発していただなんて……」
アリツェは唇を噛んだ。
「ああん、もうっ! 前が見えないわ!」
クリスティーナは両手をブンブンと振って、周囲の煙を追い払おうとしている。
「奴らはどこよっ! なめた真似をしてくれるじゃないの!」
払った手の動きに合わせて、一瞬視界が晴れる。だが、すぐさま新たな煙が隙間を埋め、元の木阿弥だ。クリスティーナは地団太を踏み、悔し気に叫んだ。
とその時、僅かにギイッと金属音が聞こえた。
「扉の音!? 外に逃げられたか!」
どうやらこの煙玉は、大司教による逃げのための一手だったようだ。敵からの、これ以上の攻撃の気配は感じない。
「クソッ! 追うぞ!」
いつまでも晴れない煙に、ラディムはいてもたってもいられなくなったのだろう。強引に部屋の奥へと駆け出した。
置かれたソファーや机に何度か躓きつつ、どうにか部屋の奥まで進んだ。
アリツェは最奥の壁に張り付き、手探りで様子を調べる。すると、扉の取っ手のようなものを見つけた。
ここから大司教一派が逃げ出したに違いない。アリツェはそう踏んで、手に持った取っ手をグイっと一気に手前に引いて、扉を開いた。
立ち込めた煙が、空気の流れで一気に部屋の外へと流れだす。同時に、サッと視界が晴れた。
「ここは……、小屋の裏口か?」
きょろきょろと周囲を窺いながら、ラディムはつぶやく。
眼前には、うっそうとした木々が広がっていた。地面は一面、落ち葉や雑草に覆われている。
だが、よくよく目を凝らして見てみれば、一部がなにものかによって踏み固められ、表土が露出していた。周辺からは、大司教一派の精霊使いたちのものと思われる霊素の残り香も、かすかに感じられる。
間違いなく大司教たちが通った痕跡だろうと踏んで、アリツェたちはその方向へと一歩、踏み出そうとした。
「きゃあっ!」
と突然、クリスティーナの悲鳴が上がった。
「クリスティーナ! って、使い魔ですの!?」
慌ててクリスティーナへと顔を向ければ、一匹のイタチ型の動物が、クリスティーナの足にしがみつこうとしていた。
「あの娘の使い魔か? もう一匹いたのか!」
ラディムは剣を構え、油断なくイタチ型の動物を睨みつける。
ラディムの言うとおり、眼前の動物はマリエの使い魔のように思えた。先ほど拘束した使い魔たちと見た目がそっくりで、なおかつ霊素の反応まであるからだ。
アリツェたちがルゥやラースを別行動させていたのと同様に、マリエも使い魔の一匹を、小屋の外に待機させていたのだろう。
イタチ型の使い魔はクリスティーナの脚にしっかりと絡まりついて、その自由を完全に奪っている。どうにかひっぺがえさねばと、アリツェがクリスティーナの元へと動き出そうとした刹那――。
使い魔は脚にしがみついたまま、その小さな身体を小刻みに震わせはじめた。と、瞬間的に霊素反応が増幅し、強烈な光が一気に周囲に放たれた。光の精霊術――目くらましだった。
予想外の攻撃に、アリツェはたまらず目を閉じる。網膜が焼き付くかのような痛みで、思考が千々に乱された。
ラディムやクリスティーナからも、苦痛によるうめき声が漏れてくる。アリツェたちは今、全員が行動不能に陥っていた。
しばらくの間、目も開けられず、じっとうずくまる。マリエの使い魔からのさらなる攻撃も考えられ、抵抗できるように全身へと力を込めた。今は、それ以外の行動がとれない。
気持ちではなんとか大司教を追いたいが、目が見えないのであればどうしようもなかった。慣れない土地で方向感覚も怪しい中、視覚なしに手探りでの追跡など、どう考えても無理がある。
焦る気持ちばかりが、どんどんと膨らんでいく。早鐘を打つ心臓の鼓動音が、アリツェの耳にべっとりと張り付いた。
早く――、早く――。
アリツェはただひたすら、目の奥の痛みが引くように祈り、待ち続けた。
しばらくその場にとどまっていると、ようやっと痛みが引き始めた。だが、ゆっくりと目を見開いたときには、大司教一派の気配は、悲しいかな影も形もなくなっていた。
「あぁっ! 大司教を完全に見失いましたわ!」
アリツェはいたたまれなくなり、思わず声を張り上げる。
周囲には、アリツェたちとマリエの使い魔がいるだけだった。マリエのイタチ型の使い魔は、今はクリスティーナの足元から離れて、身を屈めて威嚇するような仕草を見せている。だが、攻撃はしてこない。
霊素反応が無くなっている様子から、どうやら先ほどの目くらましで、霊素をすべて使い果たしたようだ。
クリスティーナは舌打ちをしつつ、小脇に抱えていた革袋からすかさず拘束玉を取り出すと、イタチ型の使い魔へと放り投げて、動きを封じた。
「ルゥに周囲を捜索させていますが、見つかりませんわ。おそらくは、霊素の気配を消しつつ、秘密の抜け道か何かに隠れたのかもしれません」
アリツェは力なく頭を振った。
ルゥからの報告では、周囲に霊素反応がまったく見られないという。念のため、ルゥの視覚を通じて、アリツェも周囲の様子を確認してみた。だが、大司教一派らしき集団は、どこにも見当たらない。
小屋を取り囲む広大な林のどこかに、事前に地下道でも用意していたのかもしれない。霊素での追跡ができない以上、そのような抜け道に潜まれては、探し出すまでにかなりの苦労を強いられそうだった。
近くの村に待機させているラディム配下の近衛兵を呼びに行き、人海戦術で林中を探索させるべきだろうか。だが、今からでは時間があまりにもかかりすぎる。たとえ大司教一派の逃走ルートを発見できたとしても、その頃にはもう、彼奴等は追跡が難しい距離まで逃げのびているだろう。
「ちくしょう! ここまで来て、また振出しに戻るのか!」
ラディムは右足で、地面を強く蹴り飛ばした。
アリツェは空中に跳ね上げられた土塊を見つめながら、これからどうすべきかと考えを巡らせた。
「一旦戻るべきか……。あの娘のことも気になる」
ラディムは小屋に視線を向けた。
拘束したマリエと二匹の使い魔は、今ペスが見張っている。だが、このまま大司教の捜索に向かうにしても、ペスに任せっぱなしにしていては、危険かもしれない。
三匹目の使い魔を隠していたように、マリエがまだ、何らかの罠を仕掛けていないとも限らない。大司教を見失ったうえで、さらにマリエまで逃がすような結果になってしまえば、今回の遠征は完全に失敗だ。それだけは避けたい。
「ペスから危険を知らせる連絡はないので、あの娘も今のところはおとなしくしていらっしゃるようですわ。ですが、このまま放置も危険です。お兄様の考えに、賛成いたしますわ」
アリツェも小屋へと振り返り、首肯した。
クリスティーナは不満げにため息を漏らしているが、特段反対する様子はない。
方針は、決まった。
「こうなったら、あの娘から大司教の逃走先についての情報を、聞き出すしかなさそうね」
クリスティーナは「さっさと行きましょう」とつぶやき、小屋の裏口へと歩き始める。アリツェも後を追い、小走りに駆け出した。
マリエと一戦交えた部屋に戻ると、眼前には相変わらず三匹の芋虫が、地面に這いつくばっていた。
「あらあら、お早いお帰りで」
芋虫の一匹――マリエから、蔑むような声が飛び出す。
「まさか、もう一匹使い魔を潜ませているとは思わなかったよ。……そうまでして、なぜ大司教を助ける」
ラディムは一瞬顔をしかめたが、すぐに無表情に戻り、マリエを詰問した。
「別に、あなたたちに説明する義務なんて、私にあるかしら?」
マリエは不敵に笑い飛ばす。
「マリエ……」
ラディムは幼女の名を呼び、目を細めながら見つめている。
「な、何よあなた。気持ちが悪いわね」
マリエの顔に、わずかに戸惑いの色が浮かんだ。
「初見の時から思ったけれど、なぜ私の顔を、そんなに不思議そうな表情で見るのよ!」
マリエはラディムから顔を逸らし、不快そうに声を張り上げる。
「もしかしてあなた、本当に幼女しゅ――」
「違う!」
ラディムはマリエの言葉を遮り、大声で否定した。
突然のラディムの怒声に、マリエは逸らしていた顔をラディムに向けなおし、目を大きく見開いた。ラディムは慌てて、「すまない」とつぶやく。
「きみが、私の初恋の女性にそっくり――いや、生まれ変わりではないかと思うほどに、瓜二つだったから、気になったのだ」
マリエに執着している理由を、ラディムは早口気味に一気にまくし立てた。
「そう……。じゃあ、私の名前を知っているのはなぜ?」
マリエはしかめていた表情を、わずかに緩ませる。
「その初恋の女性も、マリエと名乗っていたからだ」
「そ、そうなの……。面白い偶然ね」
まっすぐに見つめてくるラディムの視線に耐えかねたのか、マリエは目線を地面に逸らした。
「本当に、ただの偶然なのだろうか。君は、本当は――」
ラディムはそこで、グッと言葉を詰まらせた。
「私は、あなたのことなんてこれっぽっちも記憶にないわ。まったく、知らな……。あれ?」
否定の言葉を口にしていたマリエが、突然固まった。
「どうした」
ラディムは首を傾げ、マリエの表情を覗き込もうと、身を屈める。
「何だか……。うっ、頭、が……」
マリエはつぶやくと、そのまま目を閉じて、床の上をのたうち回り始めた。
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