第十八章 帝都決戦
1 十四歳になりますわ
帝国軍が国境地帯から兵を引くや、王国軍はすぐさま帝国領内に進軍を始めた。主要街道を抑えながら、じわじわと帝都ミュニホフへと兵を進めていく。
帝国軍の主力部隊は早々にミュニホフまで撤退したようだったが、各地の主だった街々にはそれなりの規模の守備兵が残存しており、激しい戦闘が行われる場面も多かった。王国軍側に大きな被害は出ていないものの、各地の頑強な抵抗により、当初見込んでいた電撃侵攻はできていなかった。
伯爵側の軍も同様で、ミュニホフとの距離を確実に縮めてはいるものの、その歩みは遅々としていた。
散発的な戦闘を交えつつも、ミュニホフへは二か月強で到達できると上層部は踏んでいた。だが、すでに三か月が経過し、季節は五月に差し掛かろうとしていた。いまだにミュニホフへの途上の、半分に達したかどうかといったところだ。
帝国国民の現帝室への抜群の信頼感もあり、占領地域の統治もそれほど順調に進んでいるとは言えなかった。
そんな中、アリツェはドミニクとともに一度グリューンへと戻り、領再建の進捗状況の確認やら、シモンとガブリエラへの精霊術の講義やらと、今必要と思われる諸々の用事を済ませ、再び前線へと舞い戻った。
こうした一時的な軍の離脱が認められたのも、聖女クリスティーナが合流し、アリツェ一人に頼らずとも、対魔術の哨戒がこなせるようになったからだった。
再度アリツェとドミニクが前線へ戻った時には、王国軍は帝都ミュニホフまであとわずかの距離まで侵攻していた。
季節は夏、七月に入った。そしてこの日、アリツェは十四歳の誕生日を迎えることとなった――。
アリツェはドミニクに誘われ、陣地を少し離れた草原へ散歩に出た。爽やかな風にあおられ、辺りにはサッと草の波が立ちあがり、一気に広がっていく。
しばらく二人で、夏草の香りを楽しみつつ、緑の海原を進んだ。
半刻ほど歩いた頃、ドミニクは不意に立ち止まり、アリツェに向き直った。アリツェも歩みを止めると、何ごとかとドミニクを見遣る。
「アリツェ、十四歳おめでとう!」
ドミニクは笑みを浮かべながら祝いの言葉を口にすると、ギュッとアリツェを抱きしめた。
「あ、ありがとうございますわ、ドミニク」
アリツェは突然の事態に、しどろもどろに応じた。
アリツェは特段、誕生日の件は話題に出していなかった。だが、うれしくも、ドミニクは忘れずにきちんと覚えていた。
「これで結婚まで、あと一年だね」
ドミニクはゆっくりとアリツェの耳元に顔を近づけ、吐息を漏らす。甘ったるい空気を漂わせながら。
「ふふ、そうですわね。……それまでに、ドミニクに愛想をつかされないように、頑張らないといけませんわ!」
ドミニクの温もりを感じつつ、アリツェは甘美な言葉に身をゆだねる。だが、この至福の時も、愛する婚約者との信頼関係があってのものだ。ドミニクの想いにきちんと報いられるよう、努力を続けていかなければいけないとアリツェは改めて心に誓う。
「前にも言ったよね、ボクがアリツェを手放すわけはないって」
ドミニクはクスリと含み笑いを漏らし、アリツェを抱き留める腕により力を込めた。決して離さないぞと言わんばかりに。
「そういっていただけると、とてもうれしいですわ」
アリツェはゆっくりと目を閉じた。胸に去来するは、嬉しさ、恋しさ、そして愛しさ……。誕生日という節目の時に、アリツェはこうして、改めてドミニクへの想いを強くした。
しばらく抱き合った後、ドミニクは名残惜しそうな表情を浮かべつつ、アリツェから離れた。そして、ごそごそと上着の懐を漁り、布に包まれた何かを取り出した。
「去年は旅先だったから花束しか渡せなかったけれど、今年はグリューンできちんとしたプレゼントを買う時間が取れたよ。さ、これを」
ドミニクは取り出した包みをアリツェの手に握らせた。グリューンへ一時帰還した際に、ひそかに買っていたようだ。ドミニクの心遣いに、アリツェは胸が熱くなる。
渡されたプレゼントを包む布を、アリツェは慎重に外した。
「まぁ、これは!」
中から出てきたのは、緑色に輝く宝石がつけられた指輪だった。
「うん、アリツェも知っていると思うけれど、フェイシア王国伝統のお守りさ。エリシュカが伯爵にお守りを贈っているのを見て、ピンと来たんだ」
ドミニクは頭を掻き、少し照れ臭そうに話す。
アリツェはさっそく指輪に指を通し、その手を空に向かってかざした。夏の日差しを受け、半透明の宝石は、美しい緑をたたえている。
「モルダバイトの素敵な指輪……。なんだか、これをつけていると、常にドミニクに護ってもらっているような気になりますわね」
身につけていると安心感を覚える、なんだか不思議な指輪だった。ドミニクは霊素を持っていない。だから、この指輪がマジックアイテムのはずはない。だが、それでもアリツェは、この素敵な贈り物に、愛するドミニクの何らかの力を感じずにはいられなかった。
「おまじないだって馬鹿にはできないさ。いつかこの石が、アリツェを護る日が来るかもしれない。ぜひ、大切にしてほしいな」
指輪を通したアリツェの手のひらを、ドミニクはその大きな手の平でそっと包んだ。
「えぇ、えぇ! もちろんですわ!」
アリツェは破顔し、大きくうなずいた。
ドミニクとのとろけるような散策を終え、アリツェは自身の天幕へと戻った。その指に、緑の光を煌めかせながら。
天幕の中に入り、日焼け防止の極薄の外套を脱ぎ捨て、一息つくべく椅子へともたれかかった。とその時、表から声が聞こえてきた。
「アリツェ、いるかしら?」
クリスティーナの声だった。
「あらクリスティーナ、どうぞ」
アリツェは返事を口にしながら立ち上がり、クリスティーナ用の椅子を用意する。
「あ、ドミニク様もいらしたのね。邪魔しちゃったかしら?」
クリスティーナは天幕の中に入ってくると、ドミニクの姿を認め、少しバツが悪そうな表情を浮かべた。
「いや、そんなことはないよ。ボクのことは気にしないで。散歩帰りに、軽くお茶でも飲もうと思っただけだし」
慌てて天幕を出ようとするクリスティーナを、ドミニクは引き留めた。
「あぁ、よかった。アリツェが今日十四歳の誕生日だって聞いて、プレゼントをと思ったの」
クリスティーナは手の平を胸に当て、ホッと吐息を漏らした。そのままアリツェの勧めた椅子に腰を下ろし、肩にかけていた純白の肩掛けバッグの蓋を開けて、中身をごそごそと漁りはじめる。
「お気を遣っていただいて、申し訳ないですわ」
まさかクリスティーナからも祝ってもらえるとは思っていなかったので、アリツェは嬉しさに心がくすぐられた。
最初の出会いは最悪だったけれど、今ではこうして良い関係を築けている。性悪聖女様と罵り合っていた頃からみれば、隔世の感がある。なんだかむず痒い。
「気にしない気にしない。アリツェと私の仲じゃない」
機嫌のよさそうな声を上げながら、クリスティーナはバッグから紙で包まれた何かを取り出した。
「はい、これをどうぞ」
差し出された紙包みを、アリツェは丁寧に受け取った。
「開けてもよろしくて?」
アリツェの問いに、クリスティーナは笑顔でうなずいた。
アリツェがゆっくりと包みを開くと、中には何やら茶色の固い物体で作られた『龍』が入っていた。
「魔よけのためのジンジャーブレッドよ」
クリスティーナは贈り物の正体を口にする。
どうやらクリスティーナは、フェイシア王国の言い伝えを事前に調べていたようだ。ジンジャーブレッドで作られた飾りは、フェイシア王国内では古くから邪気を払うお守りとして重宝されてきた。クリスティーナがくれた物も、まさしく伝統のジンジャーブレッドだった。
わざわざ労力を割いてまで、アリツェに合ったプレゼントを選んでくれた。クリスティーナの親愛の情を直に感じられ、アリツェは胸がいっぱいになる。
「デザインが素敵ですわ! これ、精霊王様ですわよね」
しかもかたどられた意匠が、精霊教のご神体たる龍――精霊王だった。これでご利益がないわけがない。
「魔よけとしてはピッタリでしょう? 飾るための加工をしてあるから、長く保存できるわ。それに、いざとなったら食べてもらっても大丈夫よ」
魔よけ目的で用いられるジンジャーブレッドは、長期で保存できるように生地を粘土状に練って固く加工が施されている。だが、スープなりに浸すことで、食用とすることも可能だった。
「食べるのは少しもったいない気がいたしますわ……」
かなり細かく色づけが施されており、手間がかかっているのが一目でわかる。それに、せっかくの誕生日プレゼントだ。食べて消費してしまうのも惜しい。
「私の霊素を少し纏わせているから、ちょっとしたマジックアイテムでもあるの。これから帝都決戦ですもの、気休めでもこういったアイテムがあったほうがいいと思うわ」
確かに、受け取ったジンジャーブレッドからは霊素を感じ取れた。微弱ではあったが、お守りとして持ち歩く分にはちょうどいいのではないかとアリツェも思う。
「うふふ、うれしいですわ。これは、クリスティーナのお誕生日には、わたくしからも最高の贈り物をしないといけませんわね」
クリスティーナはアリツェと同じ転生者で、また、同い年でもある。だが、転生処理の時期の違いが原因なのか、誕生日がアリツェやラディムよりも二月ほど遅かった。
二月も経てば、対帝国戦も終わっているかもしれない。その時は、ゆっくりとクリスティーナに似合いそうな装飾品を自作するのも悪くないとアリツェは考えた。もちろん、不器用さは承知しているので、器用さが絡んできそうな手の込んだものを作るつもりはないが。
「気にしなくっていいわ。仲良くなったしるしとして、納めて頂戴」
クリスティーナは少し照れながら、破顔した。
その夜、ドミニクとクリスティーナがそれぞれの天幕へと帰った後、アリツェはもらったプレゼントを机の上に置き、改めてじっくりと眺めた。
二人の愛情をひしひしと感じられる。愛しさがぐるぐると心の中で渦巻き、全身を駆け巡っていく。
「今年も素晴らしい誕生日でしたわね、悠太様」
アリツェは喜びを分かち合おうと、悠太に話しかけた。だが、返事はない。
「悠太様? ……今日も沈んだままですの? 最近まったく意識を浮上なされないので、わたくし本当に心配ですわ……」
ここ数か月、悠太の意識が表に出てくる回数が極端に減っていた。なので、夜もこうしてアリツェが活動する場面が増えていた。以前は自分からもっと表に出たがっていた悠太が、こうもおとなしいままだと、何かあったのではないかとアリツェは不安でならなかった。
いくら待っても反応がなかったので、アリツェはあきらめてベッドにもぐりこんだ。声をかけても返事が返ってこないのであれば、どうしようもない。
アリツェはゆっくりと目をつむり、夢の世界へと潜っていった。
(アリツェ……、おい、アリツェ……)
かすかに耳に届く、聞き慣れた声。
(ん……、いったい何ですの? 悠太様?)
アリツェはゆっくりと目を開くと、眼前に悠太の姿を認めた。周囲は白一色に塗りつぶされた空間。アリツェは即座に、ここが夢の中の世界だと感じ取った。
(アリツェ、どうやらお別れの時がきたみたいだ)
悠太は今にも泣きそうな表情を浮かべている。
(え? え? お別れ?)
アリツェは混乱した。悠太が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
(最近自分の人格を維持できなくなってきていたが、とうとうそれも、今日で限界みたいだ。アリツェに融合し、オレの人格は消滅する)
力なさげに悠太は頭を振った。
(そん……な……。嘘ですわよね?)
クリスティーナとミリアの融合の話を聞いて以来、おぼろげながら感じていた不安。ここ最近の悠太の様子から感じていた懸念。いずれもアリツェは直視をしないようにしていた。だが、いよいよ、来たるべき日が来たのかもしれない。
(元々、二つの人格はまじりあって一つになるはずだったんだ。それが二年ばかり遅くなっただけ。融合先もオレじゃなくて、アリツェになっちまったけれどな)
(悠太様……)
自嘲する悠太の姿は痛々しかった。
(そう悲しい顔をするな。この二年、あんたと一緒で楽しかったぜ。それに、どうやら人格自体は消えるけれど、意識としては残るみたいだ。アリツェの目や体を通じて、オレも残りの人生を楽しませてもらうよ。女性としてってのがちょっと不満だけれどな)
アリツェに心配をかけないようにと気遣ってくれているのか、悠太はニヤリと笑った。
(もうしわけございません。本来であれば、わたくしの身体は悠太様のもののはずでしたのに)
悠太の第二の人生のために用意された素体、それがアリツェだ。なのに、こうしてアリツェが乗っ取る形になった。アリツェの胸に心苦しさが沸き起こる。
(アリツェが気に病むことはないさ。文句はゲーム終了後に、別の性別の体に転生させやがったヴァーツラフに言ってやるさ)
悠太は笑い飛ばした。
(もう、悠太様からの助言はいただけないのですね。わたくし、大丈夫でしょうか……)
人格が統合されるということは、すなわち、以後、悠太の人格との対話ができないということだ。悠太には今まで、何かにつけて相談に乗ってもらっていた。頼りにしていた部分もかなりある。今後のことを考えると、不安ばかりが募る。
(言っただろう? 人格は消滅するけれど意識は残る。オレの知識や経験を、アリツェはさも自分自身のものとして使えるようになるはずだ。何の問題もない。それに、何か問題があっても、アリツェの自問自答で、今までオレと相談してきたときと同じような結論を、導き出せるようになるはずさ)
(そうは言いましても、不安ですわ)
対話を通じて新たに気付けるものもある。自問自答だけでは、そういった新たな発想を得るのは難しいのではないかとアリツェは考えた。それに、アリツェが突然の事態に遭遇し、自分を見失った際には、悠太が落ち着かせる役目をも果たしてくれていた。そのすべてを失い、果たしてアリツェは今までどおりの活躍ができるだろうか。正直なところ、まったく自信がなかった。
(アリツェにはドミニクがいるだろう? あいつに頼るんだ。それに、おそらくはラディムも同じ状況に陥っているはずだ。ラディムとも助け合って、うまいことやってほしい)
労わるような視線をアリツェに向けながら、悠太はアリツェの肩をポンっと叩いた。
(……わかりましたわ。それに、人格融合に関しては、先輩のクリスティーナもおりますし、皆さまの助力を求めながら、なんとか頑張りますわ!)
色々と葛藤はあったものの、もう人格統合という結末は避けようがないとはっきり分かった。であるならば、気持ちを切り替え、前向きに進んでいくしかない。幸いにも、クリスティーナという先達もいる。最初はもがき苦しむ事態に陥るかもしれないが、きっと乗り越えてみせる。
アリツェはギュッと手を握り締めた。
(そうだ、その意気だ!)
悠太は微笑を浮かべ、声を張ってアリツェを鼓舞した。
(悠太様、この二年間色々ありましたが、本当にありがとうございましたわ)
一生忘れられない濃密な二年間だった。時に対立する場面もあったが、楽しくかけがえのない時間を過ごせた。悠太には感謝しかなった。
(こっちこそ、色々と貴重な経験を積ませてもらったよ。前の世界では体験できなかった、素晴らしい二年間を過ごせた。ありがとう)
悠太はそう言って、深々と頭を垂れた。
そして、頭をあげた悠太の姿は徐々に薄れてゆき、やがて、完全に消滅した――。
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