5 マリエは本当に魔術の天才だな

「殿下! 大変お疲れと聞いていたので、心配していました」


 翌朝、ラディムが朝一番で教会の礼拝堂に入るや、ホッとしたような表情を浮かべたマリエが駆け寄ってきた。


「マリエ、わざわざ薬、すまなかったな」


 ラディムは片手をあげ、ニッと微笑んだ。


「いえ、そんな……。私はただ、ユリナ様に頼まれただけですし」


 乱れた黒髪を、マリエは手櫛で整えなおした。走ったためだろう、わずかに顔が紅潮している。


「いや、本当に助かったよ。ぼんやりと霞がかっていた頭が、すっきりと晴れ渡ったようだ」


「精神面に作用の強い闇属性の魔術を試してみたんです。効果があったようでよかった」


 作った薬をラディムが褒めたためか、マリエは嬉しそうに相好を崩した。


「闇属性か! 私はあまり使ったことはなかったのだが、なかなか使い出がありそうな感じだな」


 ラディムは主に、火と光の魔術を研究していた。このため、闇には精通していない。


 だが、マリエの薬を実際にラディム自身の体で試した結果、使い方によってはとても有効なのではないかとラディムは感じていた。物理的なアプローチだけではなく、こういった精神面からの手法も、また興味深い。


「同じ幻覚を見せる魔術でも、光は視覚を直接操作するのに対し、闇は脳の認識自体をごまかす作用があります。状況によって使い分けもできますし、面白いですね」


 同じような結果になるにせよ、その過程が異なる別の手法が選択できるという事実は、なかなかに魅力的だった。ある一つの属性で不利な状況でも、別の属性であれば問題がない、といった場面は、割と頻繁にありそうだとラディムは思う。


「うーん、もっと研究したいところだな。やはり、マリエとの魔術談義は楽しい。今日もできれば、もっと語り合いたいくらいだ」


 興奮のあまり、ラディムはマリエの手を両手で握りしめた。


「あ、あのっ、そのっ、……私も、殿下ともっと一緒にいたいです」


 マリエは少し声を震わせ、うつむいた。


「実は、私は騎士団に入団する必要がなくなった。魔術の研究に専念してよいとの、陛下からのお達しでね。だから、マリエが王都に派遣されるまでは、毎日一緒に研究ができるぞ」


「ほ、本当ですか!?」


 うつむかせていた顔をパッと上げて、マリエは嬉しそうに笑った。


「嘘なんかつかないさ。残りわずかな期間だけれど、いい研究をしよう」


 マリエの笑顔に答えて、ラディムも頬を緩めた。


「は、はいっ! 殿下!」







 礼拝堂でのやり取りのあと、いつものようにラディムたちはマリエの私室へと向かった。


 部屋に入ると、ラディムは自分の指定席に座り、マリエはお茶を入れに奥へと引っ込んでいく。


 しばらくして、お盆にティーカップを二つ載せてマリエが戻ってきた。テーブルにティーカップを置くと、マリエはラディムに「どうぞ」と勧める。


「先ほどの話の続きなんだが、マリエの作った薬の詳細を知りたい」


 対面に座ったマリエの顔を見つめながら、ラディムは尋ねた。


「闇属性で、対象の人間の脳に直接作用をさせるものです。通常時には興奮しないはずの脳領域が興奮していた場合に、その領域を鎮静化させるよう調整をして、『生命力』を練りこませていただきました」


 ラディムはティーカップを手に取り、ひとくち紅茶を口に含んだ。鼻に通る香りを楽しみつつ、マリエの話に耳を傾ける。


「つまり、本来は興奮しないはずの脳の領域の活動を、強制的にストップさせるってことか?」


 ずいぶんと高度なマジックアイテムだったようだ。少なくとも、今のラディムには作れそうもない。


「はい、そうですね。その異常活性を示す領域と、メインの脳領域との神経の連絡を遮断させます。孤立させられた異常領域は、メインの領域から送られてくる興奮を誘発する刺激が止められることで、徐々に落ち着きを取り戻し、正常に戻るはずです」


 それにしてもマリエの知識はすごい。どこで学んだのだろうか。ラディムも知らない単語が次々と飛び出した。神経の連絡といわれても、いまいちピンとこない。


「今度、脳について教えてくれないか? 大変興味深い」


 マリエのような闇属性のマジックアイテムを作るには、脳についてもっと知る必要がありそうだった。


 宮殿の図書室にそのような本があればよいのだが、あいにくとラディムは見た記憶がない。なので、頭の中にしっかりと知識が入っている様子のマリエに、色々と聞いてしまった方が早い気がした。


「もちろんです、殿下」


 嬉しそうにマリエははにかんだ。


 ……一瞬、ラディムの周囲の時が、止まったような気がした。ギュッと胸が締め付けられる。


 あわててラディムは胸に手を当てると、拘束感はすぐに治まった。今までに経験のない感覚だった。


 ラディムの様子を見て、マリエが不思議そうに首を傾げ、「殿下、どうしましたか?」と聞いてくる。


 ラディムは頭を振って、「いや、なんでもない」と、何ごともなかったかのように静かに返した。すこしバツが悪く感じたラディムは、ごまかすために話題をすぐに切り替えた。


「マリエはいったい、脳について誰から学んだのだ? 世界再生教の人間か?」


「……殿下、誰にもしゃべらないって、約束していただけますか?」


 マリエは不意に声を落とした。きょろきょろと周りを警戒する。


「ん? あぁ、もちろんだ。でも、何か不味いのか?」


 マリエのこんな怪しい態度は珍しかった。隠したい事実でもあるのだろうか。


「大っぴらに話しても、誰も信じないと思う話ですから。広められても、私が痛い子だと思われるだけです」


 真剣なまなざしで、マリエはラディムを見据えた。


「そ、そうなのか……。とにかく、私は誰にも話すつもりはない。私とマリエだけの秘密にする」


 雰囲気に圧倒され、ラディムはこくこくとうなずいた。


「ありがとうございます……。実は私、別人の記憶を持っているんです……」


「は?」


 ラディムは思わず素っ頓狂な声を上げた。


 マリエは、ラディムの反応が想定内だったのだろう、気にせず話を続ける。


「十一歳の誕生日の頃なんですが、私は誤って転倒をし、頭を強くぶつけました」


 右の後頭部周辺の髪を、マリエは右手で持ち上げた。少し、傷跡らしきものが見えた。


「衝撃による頭痛自体はすぐに治まったのですが、その日以降、頭の中に私とは違う人間の声が響くようになりました」


「マリエとはまったくの別人の声ってことか?」


 マリエはうなずいた。


 ラディムは驚いた。マリエにも同じような現象が起こっていたのだ。頭の中に響く、誰だかわからない人間の声。


「でも、その人間は一部の記憶を失っているようで、名前などを思い出すことはできませんでした」


 マリエは頭を振り、「だから、女性だっていうことしかわからないんですよね」と呟いた。


「記憶喪失ってことか?」


「難しいところですね。もしかしたら、その人格自体、私の作り出した妄想の可能性もあります」


 ラディムも母に、その声は空耳だと一笑に付された。


 つまり、あの時母はこう言いたかったのだろう。聞こえる声はラディムの脳内で勝手に作られたものだ、と。


「二か月ほど過ぎると、なぜか声が聞こえなくなりました。でも、その人格自体は、私の脳の中にいまだにある。この感覚だけは残っています」


 マリエは少しうつむいて目を閉じると、両腕を胸の前で組み、祈るような仕草をした。


「私は、あの人格を吸収したのかもしれません。彼女の持つ記憶も、すべて引き継ぎましたし。……記憶喪失でつぎはぎだらけでしたが」


「つまり、その別人格が、人間の脳の知識を持っていた、と」


「結論から言えば、そうです。で、その知識を今回応用させていただきました」


 マリエは首を縦に振る。


「なるほど、わかった。……確かに、二人だけの秘密にした方がいいな」


 にわかには信じがたい話だった。誰かに話したところで、頭がおかしくなったのではないかと笑われるのがオチだろう。


「殿下にだけは、私の知る知識を、できるだけお教えしますね?」


 マリエは悪戯っぽい笑顔を浮かべ、そっとラディムに耳打ちをした。


「あ、あぁ……、ありがとうマリエ」


 不意打ちのようなマリエの行動に、ラディムの心臓は跳ね上がった。どぎまぎしながら、ラディムはしどろもどろに礼を言った。







 しばしの間、マリエの用意した紅茶でティータイムを楽しんだ。


 おそらくはマリエの手作りと思われる、薄く伸ばした生地にジャムを挟んで巻いて、上に生クリームを乗せたパラチンキと呼ばれる帝国伝統のお菓子を、ラディムはゆっくりと堪能した。なかなかの出来栄えだった。


 最後に、残った紅茶を食いっと飲み干すと、ラディムは一つ大きく息を吐きだした。


「しかし、母上はなぜ、マリエに薬の制作を頼んだのだ? そもそも、マリエは母上と面識があったか?」


 落ち着いたところで、ラディムは疑問に思っていた、母とマリエとの関係について問いただした。


「実は、ザハリアーシュ様からの紹介なんです。私が精神に作用する闇の魔術を研究し始めた時、ザハリアーシュ様に言われたのです。ユリナ様の壊れた心をどうにかできないか、と」


 裏でザハリアーシュが噛んでいたのか。


 確かに、ザハリアーシュは母にもマリエにも面識がある。ちょうどよい橋渡し役だった。


「それで、定期的に闇の魔術でユリナ様の診察をしていたので、ユリナ様は私の能力のことをよくご存じなんです」


「そうだったのか……」


 ラディムのまったくあずかり知らない事実だった。蚊帳の外に置かれて、少し寂しい気持ちが沸き起こる。


「黙っていてすみません、殿下。ユリナ様とザハリアーシュ様に口止めされていたんです」


「……二人はなぜ、そのようなことを」


 ある意味当事者の一人ともいえるラディムに、なぜ伝えようとしなかったのだろうか。母とザハリアーシュの意図がわからなかった。


「すみません、そこまでは私には……」


 マリエはすまなそうな表情を浮かべた。


 マリエに非はない。はるかに権力が上の二人に言われては、どうしようもないだろう。それくらいはラディムにもわかる。


「とりあえず、今お話しした事情でユリナ様に依頼をされた、というわけです。殿下が何やら幻聴で悩んでいると伺ったので、脳のどこかに異常が発生しているのではないかとにらみ、件のお薬を製作しました」


 脳のどこかに異常……。実際のところ、どうなのだろうか。今の医療レベルでは、これ以上は知りようもない。頭を開いて脳を覗くだなんて、できやしない。


「一つ思ったのだが、私の脳内で鳴り響いていた声も、もしかして、マリエの聞いた声と同種のものだったりはしないのだろうか? 空耳などではなく」


「あー、そうですね。その可能性も無きにしも非ずな気はしますが……」


 先ほどマリエの話を聞いてから気になっていた。やはり母の言う幻聴などではなく、マリエと同じような別人格からの声だったのではないか、と。


 マリエも目を閉じ、手を顎にあてながら考え込んだ。


「ただ、殿下がお疲れだったのも確かだと思います。ユリナ様もかなり心配されていましたし。『私のラディムが疲労でおかしくなってしまうわっ!』と、結構な剣幕で私のところへ駆け込んできましたから」


 マリエはクスクスと笑っていた。


「そ、そうだったのか……。母上が……」


 血相を変えて走りこんでくる母の姿が、ラディムには容易に想像がつき、苦笑した。

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