第2話 プールサイドキス

短水路と呼ばれる25メートルプールで、折り返しはあっという間に来る。



晃太はプールの壁に向かって水中で前転して壁を強くけった。いわゆるクイックターンだ。



体をひねってからドルフィンキックを1回、水面に浮上した晃太は再び力いっぱい水をかく。




ターンして左側になった赤羽先輩はまだ横に並んでいる。




「このままついて行ってやる」




晃太はトップを争う2年生の先輩達に絡んだまま、プールの中央に差し掛かった。




だが、そこで晃太は自分の腕を重く感じた。




カルマンの渦作戦で水を強くかくことができたが、その分筋肉にかかる負担は増えていた。





溶存酸素だかATPだか知らないがエネルギーのストックを使い切った腕は次第に重くなり今まで並んでいたトップグループに次第に引き離されていく。




それでも追いすがろうとした晃太は、息苦しくなるような感覚に襲われた。




血液中の酸素を使い切るような泳ぎ方をしているのだから息ぐるしいのは当たり前だ。それは晃太の内面の問題だった。




晃太は子供のころから泳いでいると、ほかの人々と隔絶された水の中に閉じ込められて元の世界に戻れなくなるような感覚に脅かされることがあった。



パニック発作の一種かもしれないが、医者に相談したこともないのではっきりしたことはわからない。



ジュニアのスイミングスクールのころは、その感覚に襲われると泳いでいる途中で立ち止まってしまい、インストラクターに怒られたり、友達に笑われたりすることが度々だった。




高校生になった今、晃太はさすがに泳ぐのをやめて立ち止まったりはしなかったが、一瞬動きが止まってしまったような気がする。



それでも、晃太は嫌な感覚を振り切っって鉛のように重い腕に鞭打って泳ぎ続けた。




結局、トップグループには引き離されたものの、前半に頑張った分リードしていたので晃太は4位でゴールした。




晃太がプールサイドに座って次の組のスタート準備の様子を見ていると、後ろから恭彰の声がした。




「お前何やってんだよ。トップに絡んでいい線行っていたのに途中で泳ぐのをやめちまっていたじゃないか」




恭彰の言葉はいつになくきつかった。




「例のパニック発作みたいなのが出たんだよ」




晃太は適当なことも言えないので白状すると、恭彰は隣に座りながら首を振る。




「ああ、ジュニアスイミングのころ水の中でお化けが出ると言ってたやつか」



子供のボキャブラリーで伝えられたのはその程度のことだった。




「お前一度心療内科で見てもらえよ。いつか水泳だけの話で済まなくなるぜ」




晃太が俯いて黙っていると、恭彰は立ち上がって行ってしまった。



クロールの次は彼の順番だったのだ。




そして、恭彰と入れ替わるように、顧問の百合子先生が晃太の前に立った。



「晃太君今日は頑張っていたじゃないの」



腕組みをして正面に立つ彼女は何か含みがありそうだ。



「いえ、途中で失速してしまいましたから」



「そうね、でも前半のパワーはなかなかのものだったわ」



晃太は彼女の顔を見つめた。何が言いたいのだろう。




「順位的には自由形の強化メンバーに入れてもいいんだけど、あなたにはバタフライをやってもらおうと思うのよ。どうかな」




「バタフライですか? 」




百合子先生はどうかなと聞いてくれるが、それは彼女の中では既定事項のようだ。




実は晃太はバタフライが苦手だ。しかし、ここで断ってしまったら水泳部の中で晃太の居場所など一平方センチもなくなってしまう気がする。




「わかりました。やってみます 」




そういったものの、明日からバタフライの練習をするのかと思うとなんだか気が重い。





「しばらくは2年生がコーチになって基礎を教えるわ。頑張ってよ」



百合子先生は片手を上げて歩いて行った。年齢不詳の顧問は時に自分も水着を着て指導に当たることもある。




先生の間では美女だとほめそやされているが晃太達にとっては微妙な存在だ。




やがて、校内記録会は終わった。



晃太の記録は自由形2組目で2位の山岸さんと同タイム、全体で同点5位と顧問の言う通り微妙な立ち位置だ。





記録会の後は練習はフリーだった。今日は帰るという部員もいるし、クールダウンに泳ぐやつもいる。




晃太はするりとプールに入った。




そして、クロールの目いっぱいのペースで泳ぎだした。




25メートルの折り返しでクイックターン。後半もペースを落とさないで泳ぐ。なんだかさっきよりも調子がいい。




50メートルを泳ぎきった晃太は、俺はメンタルが弱いのだろうかと考え込んだ。恭彰が心療内科で見てもらえといった声が頭の中でリフレインする。




プールの壁にもたれていた晃太はブクブクっと息を吐きながらプールの底に沈んでみた。




体脂肪が少なく、筋肉が多い体は息を吐いたら水に沈む。




晃太はプールの底で体育座りをして、水中から陽光が反射する水面を見上げた。




晃太は息を吐いてしまっても10秒やそこらは水中にいて平気だ。そして今は水底に沈んでいても別世界に取り残されたような心細さは感じない。




時々起きるパニック発作のような感覚は何が原因なのだろうと晃太は考え込んだ。



その時、水面を突き破って何かが晃太の目の前に飛び込んできた。



空気の泡のカーテンに包まれているが、女子部員のようだ。




彼女は晃太のキャップと腕をつかんで強引に水面に引っ張り上げようとする。




「いてて。」と言いたいところだが、晃太の肺には声を出すほど空気が残っていない。



立ち上がって水面に顔を出したときには晃太のキャップとゴーグルはどこかに吹っ飛んでいた。




瑞樹先輩?晃太は目を疑った。自分を引っ張り上げたのは水泳部男子憧れの先輩のようだ。




晃太が何が起きているか理解できないうちに、彼女は晃太をしっかりと抱きしめて唇を重ねてきた。

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