下校時刻、トイレの個室

 なんの前触れもない腹痛。腹を抑え、流れる冷や汗もそのままに四季は走る。

 教室の前方から出てすぐそこにトイレがある。危うく男子トイレに入りかけ、慌てて隣の女子トイレへ。

 都合よく空いていた一番奥の個室へと駆け込み、ひとまず安堵の溜息。


 ……が、そこに至って悪寒を覚える。

 耐え難かったはずの腹痛が嘘のように消えていた。

 さらに、触れてもいないのに個室の扉がひとりでに閉まる。どころか、鍵まで。


<まんまと一杯食わされたな、若旦那アンダーボス


 脳裏に響いたのは護衛に憑いた怪異の声だ。これはたしか、テューラのほう。


<すぐ近くにいるぜ。潰していいか?>

<ま、待って>


 ほとんどノータイムで剥き出しになる敵意に怯みつつも、四季は制止する。

 怪訝な沈黙に慌てて念話で説明を返した。


<えっと。これ、昔よくやられた手口で。たぶん知り合いの……>

「しーきーちゃんっ」


 突如、耳元に声。まだ幼さの残る少女のもの。

 しかし四季は反射的に身を硬くした。残念ながら、聞き覚えがある。

 背筋に走る悪寒を後押しするかのごとく、冷たい腕が肩に回された。


「あーそびーましょっ」


 にゅっ、と顔が覗き込んでくる。危うく喉から悲鳴が漏れそうになった。

 少女である。声と同じく、まだ幼さの残るあどけない笑顔。外見だけで判断するのならば、高校にいるべき年齢ではない……せいぜい上に見積もっても、小学校の高学年といったところ。


 血の気が引いていくのがわかる。

 なお悪いことに相手もそれを悟ったらしい。年相応の笑顔が、一瞬にして見た目に似つかわしくない無愛想な顔へと変貌した。

 爬虫類のごとく縦に裂けた瞳が四季を見据える。


「なァーに嫌そうな顔してやがんだよ四季。わざわざ会いに来てやったんだからちっとは嬉しそうな顔しやがれ」

「あ、あははは……久しぶり、花子はなこさん」


 四季は引きつった笑いを返すことしかできなかった。

 突然の態度の変貌には驚かない。むしろこちらのほうが素であることを彼女かれは知っている。

 なにしろこの『トイレの花子さん』とは長いつきあいなのだ。小学校に入ったころまで遡るくらいには。


「よくここがわかったね……言ってなかった気がするんだけど」

「お前の霊気を辿ればおおよその見当はつくんだよマヌケ。というか散々言ってきただろうが。お前が怪異から隠れるなんて土台無理……ん」


 流れるように罵倒に移行しかけた花子が眉根を寄せ、口を閉ざす。

 四季は思わず身体を硬くする。直後、がしりと首根っこを掴まれた。

 そして


「……いだだだだだっ!?」

『ひゃっ!? な、なんですか急に!? なんです!?』

「うるっせえなー。少し黙ってろ」


 無理やりに皮膚を引き剥がされるような痛みに悲鳴が漏れる。

 花子がなにをしたかはわかる。自分にしっかり憑いていた小夜子さよこを引っ剥がしたのだ。

 ひたすらに乱暴なやり方。昔からなにも変わっていない。


 小夜子の首根を掴んだままで、花子は呆れたように目を細めた。


「目ェ離したらまた憑かれてるし。お前さぁ、誰にでも体許すのやめろよな」

「も、もうちょっと言いかたってもんがあるでしょ!?」

「このザマ見てたらそうとしか言えねえんだよ……あっ、まだいるじゃねえか!」


 一声叫び、彼女は迷うことなく空いた手を四季の胸元につっこむ。

 制服をすり抜けて入り込んだ手は驚くほどに冷たい。一瞬だけ身体が跳ねかけた。

 が、悲鳴をあげるより前に花子は目当てのものを『捕まえた』らしい。すぐに手を引き抜く。


『ギャーッ!? またかよ!』

「こいつもまたうるっせえな……なんだ、小狐か。おい四季。ちょっと立て。こいつトイレに流してやる」

『や、やめろよ!? オレなにも悪さしてねえじゃん!?』

「他人の胸の谷間に巣作りしてたやつがなに言ってんだ。あのな四季。いくら中身が男だからってこんなとこまで身を許すんじゃねえ」

「……い、いや。ナナさんが憑いてたの、初めて知ったんだけど」


 今さらながらに胸元を両手で抑え、四季はまじまじと花子に胴体を握られたままのナナを見つめる。

 昨日帰ってから音沙汰もなかったので、てっきり元の住処だというヒルメたちの神域に帰ったと思っていた。


 露骨な溜息をついた少女の怪異は、不機嫌そうな眼差しを四季の足元へと向ける。


「あと影に二人。つってもさっき念話してたし、憑いてるのは知ってんだな……こいつらはなんだよ?」

「えっと。話すと長くなるんだけど」


 呆れの眼差しを向けられた四季は、しどろもどろになりながらも説明を始めようとした。


 そのとき、個室の外でなにかが弾ける音がした。


 個室がびりびりと振動する。四季は思わず言葉を飲み込み、花子が苛立たしげに扉へ一瞥をくれた。


「……高校に来てまでトイレで騒ぐバカがいんのか?そこでおとなしくしてろよ、四季。黙らせてくる」


 静かな呟きと同時、個室の鍵がひとりでに開く……


 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


「……っ、ありがとう若狭わかささん。油断してた!」

「どういたしましてー」


 女子トイレ。四季が入っている……というより、閉じ込められたのだろう個室の前。

 怜は鋭く息を吐き、一瞬の動揺を搔き消した上で構えを取る。

 三國みくには臨戦態勢。どこからか取り出した扇を広げている。その視線の先にはうっすらと張られた水の壁。これが突然の襲撃を弾き返したのだ。


 水壁の向こう、わずかに歪む視界の中に襲撃者の姿がある。

 怜たちと変わらぬ制服姿。人の形。唯一違和感を受ける点といえば、口元を覆うように巻いている赤いマフラーくらいだろうか。

 だが先ほどの一瞬の切り結びとこちらに向ける敵意から、もはや相手がただの生徒でないのは明白だった。


「こんにちは。えっと、山岬やまみさきさん、だったっけ?急に飛びかかってくるからびっくりしちゃったよ」


 軽薄ともとれる口調で若狭が言う。しかしその目には一切の油断がない。

 怜も相手を凝視する。相手の本性はおろか、どのような術を仕掛けてくるかもわかっていない。

 わずかでも動きを見せたら反物で仕掛ける。その心算だ。


 対する少女の目元には苛立ちが浮かぶ。


「……退魔師までいるなんて。なんにせよ、手出しなんかさせないから」


 垂れ下がっていたマフラーの両端がざわりと浮き上がる。

 不穏な空気に先んじ、怜が腕を振るおうとしたそのときだ。

 

「やかましいぞバカども! ここをなんだと思ってやがる!?」


 派手な音とともに個室の扉が開き、中から怒声が飛んでくる。

 一同の視線が声の主へと集まった。すなわち、高校には似合わない年頃に見える少女に。

 おかっぱ頭で、白いワイシャツにサスペンダー付きの赤いスカート。紹介されずとも、なんの怪異かすぐにピンとくる外見。


「なに、『トイレの花子さん』ってやつ? なんで高校にこんなのが」

「……護之宮もりのみやさん? あなたもこっちに来てたの?」


 訝しげな三國の声と、驚いたような山岬の声が交差する。

 ……どうやら知り合いだったらしい怪異のことはさておき、怜がまず真っ先に確認したのは『トイレの花子さん』の背後。

 案の定無事そうな幼馴染に、それでも怜はこっそりと安堵の息を吐いた。すぐに表情を引きしめ、問いただす。


「四季。確認させてほしいんだけど」

「……えっと、……俺も状況の整理をしたいから、みんな一旦落ち着いてもらっていい……?」


 なんとも間の抜けた提案。だが反論する者は一人もいなかった。

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