一〇一号室、邂逅

 怪異の憑いた部屋というのはどうしてこう不快なのだろう。眉間に深いシワを刻みつつ、怜は一〇一号室の奥へと進んでいた。

 一〇二号室とは違い、床は綺麗なものだ。しかし歩くと粘つくような感覚がまとわりつく。さらに温室の中かと錯覚してしまうような蒸し暑さ。

 極め付けにはこの臭いだ。まったくもって胸がむかつく。


「だいぶ異界化が進んでるね」

『そうじゃの。好き勝手にやっておるようじゃわ』


 首回りに顕現した白蛇神、朽縄御前と言葉短に囁き合う。


 前提として、人間の住む現世うつしよと怪異の住む世界は違う。それらは隣り合っているものの、薄い壁に遮られている……かつての師はそのように教えてくれた。霊感のある人間は、その壁を透かして彼らを視ることができるのだと。


 怪異のほうはといえば、その壁の薄い場所から現世へと潜入してくる。

 壁の薄い場所とはどこか?いわゆる『境界』だ。道と道が交差する辻。外と家の境を作る玄関。上階と下階とを繋ぐ階段。エトセトラ、エトセトラ。異界との入り口は、無数に存在する。

 そして現世に侵入してきた怪異はなにをするか。簡単だ。である。結界を作り、己の都合のいいように環境を操作し、侵入してきた生物から霊気を啜る。


 つまるところ、今回の怪異は元の住人を取り込むようにして結界を作り、霊気を奪って狂わせたのだろう。その名残が強くなっている。

 故に、数分もかからずにたどり着けるはずの居間にこんなに時間がかかっているわけだ。まったく腹立たしい。


「……見つけた」


 が、その苛立ちもようやく解消できるときが来たらしい。

 ようやくたどり着いた居間。がらんとした部屋の中、その中心に黒い塊がわだかまっている。大きさはさほどでもない……ひと抱えできる程度、と言ったところか。

 音もなく怜の袖から赤青の反物が垂れ下がる。この距離なら間合いの範疇だ。とはいえ、相手がなにをしてくるかはわからない。怜は背後の四季に警告をしようと、


「四季?」


 首を巡らせたところで、ようやく彼女かれの不在に気がついた。一気に血の気が引いていく。

 それを見計らったかのように、黒い影が膨張し、無数の低い羽音を伴って弾け飛んだ。霞のごとく群れをなした蝿の怪異が、退魔師めがけ殺到する……!


 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


 それとほぼ同時刻。トイレで謎の怪異と遭遇した四季がまずしたことは、閉じかけたドアを足で押さえることだった。閉じ込められるのはうまくない。

 たとえ、肩のあたりに急にずっしり重みがかかったとしても、体に硬いごつごつしたものが巻き付けられたとしても、だ。優先順位はしっかりと考える必要がある。


『みぎゃーっ!? どこから出てきたんですかあなた!?』


 小夜子の悲鳴も、それに応えるようなくすくす笑いも一旦は無視。あとで自分の目で見ればすぐにわかることだ。

 足早にトイレから脱出した四季は洗面所の鏡を覗き込む。そういえばあの悪趣味な文字は消えていた。が、今はそれはいい。

 自分の肩に乗っている『それ』を見て、彼女かれは小さく嘆息した。


「なんだ、生首か……」

『なんだ!? なんだっつったか、今!?』


 突如わめきだす肩の上の怪異……もちろん、小夜子とは違う個体だ……に、四季はうんざりと片耳を押さえる。やかましい。

 しかしまあ、改めて見るとただの生首ではない。というより厳密には生首ではないのかもしれない。自分の体に巻き付いている脊椎はおそらくこいつのものだろうし。

 よく見ると普通の人間の生首でもない。大きく見開かれた眼窩に広がるのは昆虫のような赤い複眼。後頭部から生えている透明なリボンのようなものは……翅だろうか。


 そこまで見てとってから、四季は落ち着き払って言い直した。


「ごめん、生首じゃないね。なんて呼べばいい?」

『え、そっちで謝るの? いや、別に謝ってほしいわけじゃなくて……ええと、その、氏家うじいえとでも呼んでくれれば……』

「氏家さんね。はじめまして」


 鏡越しに目を合わせて挨拶すると、肩の上の生首が困ったように視線を逸らした。

 背後に浮かんでいた小夜子がなんともいえぬ表情を浮かべている。


『四季さん、なんでそう冷静に対処できるんですか?』

「慣れてるし」

『えぇー……絶対それだけじゃないですよ。だって脊椎付きの生首に巻き憑かれてるんですよ? もう少し取り乱すとかしません?』

「まあ、これくらいなら我慢できる範疇だしさ」

『……逆に四季さんが我慢できない見た目の怪異が知りたいです。私』


 そんな会話を繰り広げているうちにも、生首こと氏家は立つ瀬がないように小さく揺れている。見た目に比べるとそこまで危険な怪異というわけではないか。

 四季は無造作にそのおでこを指で軽くはじいた。


「で? あなたはここで何してるの? ここに住んでた人を追い出したの、あなただよね?」

『ちょうど腰を落ち着けられるところがあったから憑いただけ。で、わたし男に興味ないから。出てってもらった』


 どこか拗ねたように氏家が返事をする。

 少し掴みづらいところはあったものの、おおよその推移は想像できた。おそらく取り憑いた先の住人が気に入らなかったために、霊障を起こして追い出した、ということらしい。

 四季は改めてため息をつく。これ、怜に許してもらうのはさすがに厳しいのではないだろうか。

 

「そういや怜、なにしてるんだろ」

『あ、忘れてましたねそういえば。まあ大丈夫じゃないんですか? 退魔師だし』

「あれなら居間でこいつの体と戦っておりましたよ」


 ぬぅ、と死角から突き出てきた薄青い手が氏家を鷲掴みにした。驚愕の顔を浮かべた怪異がそのまま引き剥がされる。

 突然の出来事。四季は振り向き、呆気にとられた。


「……巡さん? いつの間に!? 掃除終わったの?」

「つい先ほど。掃除はまあ、やってはおきましたよ。つっても元はあのクロカミの体毛ですからねぇ……しっかり回収してもらいました。で、若旦那。差し出がましいようですが、この手の嗜好の怪異をまとわりつかせたままにするのは感心しませんな」

『なん……うわ、すっげぇ美人! なんだ今日! わたし運がいいなぁ!』


 なぜか嬉しげな声をあげて脊椎をぶらつかせる氏家を、薄青い鬼女は冷たい目で見下ろした。


「黙れ。……ああ、黙る前に一つ。あんた、さっさとあの退魔師から手を引きな」

『む。そりゃ、今のわたしは分が悪いけど、体のほうにはまだ奥の手が』

「そうかい。あたしの私見だが、あの小娘な」


 どごん、と。巡の言葉を遮るように、鈍い音が部屋の中に木霊した。


『ぐ、げっ!?』

「やっぱし痛覚は繋がってんのかい。だからやめとけと言ったんだ……あの小娘、半端に脅かすとなにしでかすかわからんからね」

「い、行ってみよう!」


 四季は慌てて洗面所を飛び出した。背後からその手の中で苦悶する氏家の声が追ってくるのを聞き流しつつ、苦もなく居間へ到達する。

 到達したとたん、顔面に向けてなにかが飛来してきた。


「えっ」


 四季は目を丸くする。視界に飛び込んできたのは、なにかに巻きつき、球体状になった赤い反物。

 それは式神となる蝿ごと封じられた氏家の『体』だった。その一端は未だ怜の手のうちにある。襲撃を受けた彼女は反物で怪異をまるごと束縛。そのまま振り回して部屋の中に叩きつけていたのだ。部屋の中が『異界化』しているため、ちょっとやそっとでは破壊できないことを利用したのである。

 ……もっとも、そのあたりの事情を四季は知る由もないし、しばらく知ることもない。


 彼女かれが次に見たのは目の中でまたたく火花だった。そのまま後ろに倒れ、すんでのところでついてきていた巡に抱きとめられ……またも意識を失った。

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