和解、そして一〇一号室

 幸いなことにと言うべきか、驚くことにと言うべきか。髪の怪異はまだ生きていた。

 さすがに怜の一撃が効いたのか、二度目の襲撃をかける気はなかったらしい。浴室の床にべたりと座り込み……座り込んでいるのだと思う。前髪も含め、全身を覆うほどの長さなので姿が見えない……観念した様子を見せていた。


『よもや人間にここまでやるやつがいるとは……』

「退魔師と戦ったことはなかった? お望みなら、身に染みるくらいにわからせてやってもいいけど」

『いや、我の負けだ。非もまたこちらにある。ここでの仕事は済んでいたのだから、さっさと離れるべきだったのだな』


 濡れ髪の奥から漏れるぼそぼそとした呟きに、四季しきれんは顔を見合わせた。どうにも妙な話になってきた。

 四季の頭に顎を乗せつつ、小夜子さよこが不思議そうに尋ねる。


『お仕事されてらっしゃるんですか? ええと……どこかの式神? ってやつです?』

『否。虐げられた弱き者に代わり、その恨みを晴らすのが我の仕事だ』

『……もしかして正義の味方ってやつなんですか。そのなりで』

『怪異を見かけで判断するのはよくないぞ、おぬし』

『ご、ごめんなさい』


 しかめつらしい調子で咎められ、小夜子は納得のいかない様子で謝罪した。

 とはいえ奇妙なことは確かだ。見た目によらないのは人も怪異も一緒とはいえ、そう自称する怪異がこんなところにいるのはどうしたことか。

 ふと、隣から手を打つ音が聞こえる。怜だ。


「……『クロカミさま』か。まあ、あれはたしかに恨みを晴らすといえば晴らすけど」

「なにそれ?」

「ちょっと前に流行った呪術って言えばいいかな。儀式の手順は省略するけど、髪の毛一本と引き換えに憎い相手へ不幸をもたらす神様だね」

『えっ、あなた神様なんですか?』

『下級も下級だが。まあ、曲がりなりにも人間から願いを託されておるわけでな』


 髪の帳の奥から吐息が漏れ、前髪をかすかに揺らす。どうやら怜の推測で間違いないらしい。

 四季はかがみこみ、怪異と視線を合わせる。合わせられていると思う。きっと。


「あなたは……えっと、名前聞いても」

『クロカミの麻桶まゆだ。個人としてはそう名乗っている』

「麻桶さん。は、そもそもどうしてここに?」

『簡単な話でな。ここの住人が二股をかけておったので、無念を晴らしてほしいと頼まれた。故に来た。のだが……』

「だが?」

『……このアパート、妙に居心地が良くてな。役目を果たしたあともつい居憑いてしもうた』


 麻桶の視線が逸れる。顔こそ見えないが、四季にはそれが感じ取れた。おそらくバツの悪い思いをしているのだろう。

 なんにせよ、相手にこれ以上抵抗の意思はない。四季は怜を振り仰ぐ。


「ねえ、怜」

「私はこいつがこの部屋から出て行くならそれでいい。それも除霊の一環だし」

「そっか。よかった!」


 ぶっきらぼうな返事に、四季は破顔する。どうやら今回は穏便にことをすませることができそうだ……


「じゃあ次はこっちで話を進めさせてもらっても構いませんかねェ?」

「うわぁッ!?」


 突然割って入ってきた声に、四季は思わず悲鳴をあげる。なんの気配も感じなかったからだ。

 声の主は洗面所からこちらを覗き込んでいる。薄青い肌に二本角の鬼女。


「め、めぐりさん!? いつの間に!」

「ちょっと前からお邪魔してます。で、そこな怪異」

『む、我か』

「そうさ。ここから出る前に、ちとあたしの話を聞いてはくれんかね? 身の振り方を考えるのはそれからでもよかろう?」


 語気が強いわけではない。しかし、巡の言葉には有無を言わせぬ調子があった。麻桶も戸惑ったように頷く。

 鬼女はにこりと笑うと、呆然とする四季たちへと視線を向けた。


「ま、あとはあたしに任せてくださいな。若旦那たちはどうぞお次の部屋に」

「……ねえ、そこの鬼女」

「なんだい退魔師」

「掃除もお前に任せるからね」


 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


「いいの、怜? その……巡さん」

「今は仕方ないよ。私じゃあいつを止められないし。……ムカつくけど」

『けど、本当にお掃除してくれるんですかね?』

「四季から念押しされたから大丈夫でしょ」


 渋い顔をした鬼女を残し、四季たちはもう一つ隣の部屋……一〇一号室の前へとやってきていた。

 ドアノブに手をかけた怜が、ふと気づいたように四季を見やる。


「ここから怪異の場所を探る……みたいなの、できたりするの?」

「やったことない」

「それもそうか。じゃあ、地道に探すしかないね」


 特に残念そうな様子も見せず、怜が慎重にドアを開ける。

 部屋の中は暗く、重い空気が流れ出してくるようだ。しかし、それはどうということもない。

 問題は。


「……なに? この臭い」


 四季の位置から怜の顔は伺えないものの、彼女がどんな顔をしているかは想像がつく。きっとまた顔をしかめているのだろう。

 とはいえ、その気持ちはよくわかる。部屋を開けた途端に鼻腔に届いたのは、なんともいえぬ不快な臭い。

 甘ったるい腐敗臭、という形容が一番近いかもしれない。よほどの用がない限り、入るのを遠慮したくなる。


「怪異のせい、だよね。きっと。ねぇ怜。ここに住んでた人ってなんで引っ越しちゃったの?」

「引っ越したというか、強制退去かなんかじゃなかったかな。急に暴れ出したとかで」


 一〇二号室と比べると、かなり洒落にならない被害が出ている。

 怜が懐から取り出したハンカチで口周りを覆う。せめてもの臭い避けか。彼女は不意に振り向いた。


「四季はどうする? ダメそうだったら、ここで待っててもらっていいけど」

「いや、行くよ。怜こそ一人だけだと危ないって!」

「……そ。ありがとね」


 怜の目元がわずかに緩む。

 すぐに表情を引き締めた彼女は、足早に一〇一号室の闇へと足を踏み込んだ。四季もその背中を追って部屋の中へ


「わぷっ!?」


 入ろうとしたところ、たたらを踏む。耳障りな羽音とともに、小さななにかがいくつも顔にぶつかってきたからだ。

 背後から小夜子の慌てた声が聞こえる。


『し、四季さん少し目を瞑っててくださいね! こらっ! しっしっ!』

「な、なに?」

『蝿ですよ、蝿。この部屋の中、死体でもあるんじゃないですか?』


 小夜子がなかなかにぞっとしないことを口にする。

 おそるおそる目を開けると、もうなにもいない。周囲を見渡しても影一つなし。外に飛び出していったのだろうか?

 そうこうしているうちに、怜はすでに奥へと進んでしまったらしい。四季も慌てて部屋に上り込む。


 今回は床になにか落ちているということもなかった。安心して靴を脱ぐことができる。

 ……相変わらずあのなんともいえない臭いは充満しているので、息苦しいのが困りものだが。


 部屋の中は静かだ。怜はどこまで入り込んだのだろう? とりあえず居間に向かったのだろうか。立ち上がり、視線を下ろしたそのときだ。

 足元に書かれていた文字が目に飛び込んできた。


【からだはまっすぐ あたまはみぎ】


 黒く変色した、掠れた字体。四季は屈み込み、それを睨むように見つめる。

 怜はこれに気づいただろうか。それとも、特に気にすることなく進んでいってしまったのか。


『なんでしょうね、その落書き』

「うーん……」


 小夜子の疑問に煮え切らない唸りを返しつつ、四季は周囲を見渡す。相変わらずの暗さとはいえ、目が慣れてきた。

 玄関からまっすぐ行けば居間、右手は洗面所だ。部屋の間取りは共通なので、それくらいはわかる。

 少し考えてから、四季は洗面所のほうに向かうことにした。そちらのほうがだろうと、漠然と考えたからだ。


 次の文字は簡単に見つかった。洗面所に入ってすぐ目に飛び込む鏡。そこに文字が書き殴られている。黒い汁が文字から垂れているのが気にかかった。

 内容は、こうだ。【トイレに いるよ】


『……あの、四季さん。まさかとは思いますけど、このままトイレに行くつもりじゃないですよね?』

「そのつもりだったけど」

『本気ですか!? やめましょうよぉ……絶対ロクでもないことになりますよ!』

「今の状況もわりとロクでもない気はするけどね」


 耳元で囁く小夜子を見やり、四季は言う。これくらいのことは慣れていた。彼女かれの小・中学時代では日常茶飯事である。


「それにほら、小夜子さんもいるし。大丈夫だって」

『う……ま、まあたしかに。今の私は四季さんの守護霊ですけど』

「うん。頼りにしてる」


 笑顔を送ると、幽霊もまた強張った笑顔を返してくれた。

 ひとまず話がついたところで、四季はすぐ横手にある便所の扉を勢いよく開ける。

 そこには。


『…………なにもいませんね』

「そうだね」


 別に惨状が広がっているわけでもない、ただの洋式便器が鎮座していた。

 便器の蓋は閉ざされている。開けると中にいるのか。いや、それなら蓋に書いてありそうなものだけれど。

 考えごとをしていた四季の耳元で。


『いらっしゃい。わたしの頭がうしろにきたよ』


 甘ったるい臭いとともに、小夜子のものではない声が聞こえた。

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