朝、一〇三号室前

 草江くさえ れんの朝は早い。退魔師の修行をしていた頃からの習慣だ。その日も目覚めと同時に身を起こし、大きく伸びをして布団から出る。

 寝間着を脱いでまずすることは呪具の装着。怜の場合、赤と青の反物がそれだ。蛇神である朽縄くちなわ御前を憑依させることで、自在に伸縮し、手足のごとく扱える。基本、気功を利用した体術がメインとなる怜にとっては最適の呪具といえる。


 部屋着に着替え、顔を洗い、冷蔵庫から生卵を一つ取り出す。首回りに出現した白蛇……彼女が朽縄御前だ……の口にそれを放り込み、朝食の準備。

 そこでようやく一息つき、今日の予定を確認する。ひとまず急を要するのはやはり喜会荘の除霊だろう。大家さん直々の依頼だし。


 考え事と同時に手早く朝食を終え、洗い物。それがちょうど終わる頃合いに呼び鈴が鳴った。

 怜は無言で玄関に直行。呼吸を整えてからドアスコープを覗き見る。いかにこの時間帯とはいえこのアパートは怪異の巣窟となっている状態。来客が人とは限らない。警戒を解いてはならないのだ。

 もっとも、今回は杞憂のようだったが。スコープ越しに映る見覚えのある姿に息を吐きつつ、怜は扉を開ける。


「おはよう、四季。どうしたの? こんな早くから」

「おはよう、怜。ちょっと聞きたいことがあって」


 迎えられた小さな少女は、はにかんだ笑顔とともにそう言った。

 怜はまじまじと幼馴染を見下ろす。ずいぶんと……という言葉では形容しきれないほどに、彼は変わってしまった。物理的に。そもそも彼から彼女かれに変わるような人間はそうそういないだろう。


 見た目もまた個性的になってしまった。

 異国情緒あふれる褐色の肌に、どこのファンタジーから飛び出してきたのかと思わせる青みがかった銀色の髪。その髪も地面に届かんばかりに伸びている。一房だけ飛び出た前髪が、低い背を補おうかとしているかのようだ。

 そして、この位置からだとどうしても胸に目が、


「怜? どうかした?」

「ううん、なんでもない。それで、聞きたいことって」


 四季の言葉で我に返った怜は、こちらを見上げている彼女かれに視線を合わせる。

 そして不意に気づく。彼女かれの背後に白い影があることに。

 思わず表情が渋くなる。


「ねえ、四季。なんでその幽霊がいるわけ?」

「ああ、ええと、これはね」

『一応言っておきますけど、四季さんから許可貰って憑いてきてるんですからね。除霊される謂れはないですよ』


 四季の背中にしがみついた女幽霊が、どこかドヤ顔で主張してきた。腹立たしい。たしかこいつ、背丈は自分より少し高い程度だったはずなので思いっきり四季を盾にしている形である。より腹立たしい。

 反射的に出かかった拳を抑え、四季に対して目線で意図を尋ねる。彼女かれは困ったように頬を掻いた。


「いや、一人で外出すると怪異に絡まれるかもしれないからさ。憑いてきてもらったほうがいいかなって」

『つまり守護霊昇格というわけですよ。これで暴力退魔師に不当な扱いを受けることがなくなったわけです! へへーん!』

「あっ、そう……四季、護衛にしたってもう少し怪異ひとは選んだら? こいつせいぜい有事の際の盾にしかならないでしょ」

『扱いがひどい!?』


 なぜかショックを受けている幽霊は置いておくとして、純粋に疑問だった。

 四季の部屋にはまだ二体の怪異がいる。とかく人を食った態度の『青行燈』めぐりに、四季と相当長い付き合いがあるらしい推定『座敷童』の御影みかげだ。

 どちらもその実力の一端しか見せていないものの、どう見積もってもこの幽霊よりは護衛向きの存在である。


 が、四季はあっさりと首を横に振った。


「御影お姉ちゃんはあんまり家から出たがらないからさ。今日も留守番するって言ってた」

「……あの鬼女は?」

「やることがあるから残るって。なんかちゃぶ台の下でごそごそしてたけど……」


 彼女かれは訝しげに首を傾げる。それと合わせるように、あの長い前髪が緩やかな曲線を描いた。器用なものだ。

 しかし、あの鬼女、なにか企んでいるのだろうか。怜は一瞬だけ眉根を寄せる。まあ、御影がいるらしいから派手なことはしないだろう。そう思いたい。

 そこまで考えて、本題から逸れていることに気がついた。


「今は放っておくしかないね。で、何を聞きにきたんだっけ?」

「あ、そうだったそうだった。ええとね、まず、この辺で一番近い神社ってどこかな?」


 意外な質問が飛んできた。

 怜は無意識に彼女かれの背後に隠れている幽霊へ視線を飛ばす。


「なに、お祓い? なんなら私がやるけど」

『しゅ、守護霊やってるって言ったじゃないですか!? 暴力反対! ダメ、ゼッタイ! です!』

「そういうんじゃなくて、なんていえばいいのかな……うーん……挨拶?」


 慌てる幽霊とは対照的に、四季はぼんやりとした調子で呟く。

 冗談はともかくとして、その一言でおおよその事情は掴めた。


「氏神様に会いたいってこと? まあ、四季なら会っといてもよさそうだけど」

「……んー、そんな感じ。たぶん」

「なんでそこで曖昧になるの」


 煮え切らない様子の幼馴染に、さすがに呆れてしまう。てっきりそうした知識はあるから聞きに来たのかと思ったが、そうでもないようだ。誰かから助言でも受けたのだろうか。

 なんにせよ、ここ一帯の土地を管理する氏神への面会はやっておいて損はないだろう。本来は退魔師くらいしかやるもののない習慣ではあるものの、やたらと怪異に絡まれやすい四季は早めに合わせておいたほうがいいかもしれない。


「ここから歩いて数分もないとこに小さい神社がある。そこがいいかな。なんなら案内するけど」

「本当!? ありがとう! ……あ、でも待って。先にアパートの人たちに挨拶とかしておいたほうがいいよね?」

「別にいいよ。このアパートに住んでるの、私と四季くらいだし」


 そう言うと、四季が目を丸くした。ここ最近の霊障のためにほとんどの住人が逃げるように引っ越してしまったのを、彼女かれはまだ知らなかったらしい。

 大家さんとしてはシャレにならない事態である。それくらいは容易に想像がつく。なにしろ住人が二人だけでは……二人?


「あ、ごめん。嘘ついた。まだあと一人残ってたんだ」

「そ、そうなんだ? びっくりした」

「二〇五号室、だから……うん、ちょうど四季の真上の部屋だね。鳴谷なるやさんって人がいる。普段あんまりいないから忘れそうになるんだよね」


 事実、怜も顔を合わせたのは一度だけだ。ちょうど外出する折だったらしく、慌ただしい挨拶となってしまった。おかげでほとんど印象がない。

 家を空けがちだから怪異に気づかないのか、それとも単に霊感がないのか。なんとも判断しがたい。


「今日もいるかどうかわからないよ。最近、なんか静かみたいだし」

「うーん、難しいなぁ」


 腕組みをして唸る四季。なかなか律儀だな、と怜は思う。そういうことはしっかりしておきたい性分なのだろうか。

 そのまま低く唸っていた彼女かれが、思い出したように顔を上げた。


「そういえばさ、怜って昨日遅くまで起きてた?」

「なに、急に」

「いや、念のため。たぶん二時とか三時ごろなんだけど」

 

 丑三つ時である。それだけでピンときた。


「……何か出たの?」

「いや、物音と視線だけなんだけど」

『たぶん入ってこれなかったんじゃないですかね? 今はあの部屋、御影さんが結界を張ってるんですよ。すごいですねあの子』


 女幽霊の言葉に怜は考え込む。御影のみならず、あの鬼女も言っていた。四季はそうしたものを引き寄せやすいと。

 だが、まさか、昨日の今日で?

 一瞬だけ浮かんだ疑念を怜は打ち消した。霊障の兆しがあるのならば、うかうかとしてはいられない。


「わかった」

「え? なにが?」

「今日中にちょっと怪異を叩き出してくる。今日こそ見つけ出して除霊ぶっとばしてやらなきゃ」

『……今までなにもしてなかったんじゃなくて、逃げられてたんですね……?』


 幽霊の言葉は無視。……たしかに気配はすれども姿は見えぬ状態だったのは事実だが。ついでにいうと、一〇三号室に憑いていた怪異を除霊した段階でそれまでの霊障が鳴りを潜めていたのもまた事実。

 とはいえ、また活発になり始めたのなら見逃すわけにはいくまい。


「悪いけど、四季。今日は忙しくなりそうだから……少し待っててくれるなら、神社への行き方は教えるよ」

「あ、いや、その」


 四季は少し困ったように視線を彷徨わせる。

 訝しげに見つめる怜を上目遣いで見るようにして、彼女かれは言った。


「……えっと。俺もついていっていい?」


 意外な申し出。怜は思わず顔をしかめた。

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