【22】店長の狼狽

 美月は布団から出ると、小さく息を吐いた。窓は開けているが風がなく、むわっとした空気が部屋の中にこもっている。顔を洗うと、鏡には疲れた様子の自分の顔が目の前にあった。

「いつになったら終わるのかな……」

 夜を迎えたくない――そう思うようになった。最初のうちは、半信半疑のまま恐怖心が表面を覆っていた。本当にまたゲームとやらをやるのか。そんなはずはないと思いつつもそうなってしまうような、得体の知れない感覚。しかしそれが確実となると、様子を窺っていた嫌悪感のようなものが顔を出し始めた。

「あら、おはよう美月」

 急に聞こえた声に驚いて振り向くと、母親が立っていた。

「あ、お、おはよう」

「どうしたの、鏡の前に突っ立って……あれ、顔色悪いねえ。具合悪いの?」

 顔色が悪いのは否定できない。だって今の今まで、泥のような自分の顔を見ていたのだから。けれど今日は翔と会う予定だし、この調子では心配させてしまう。翔もそうだが、この件に関係のない母親には特に心配をかけたくない。

「ううん、大丈夫。暑くて寝つきが悪かっただけ。あと急なんだけど、今日出かけるからお昼はいらないよ」

「はいは~い」

 安心させることができたのか、母親は普段の調子に戻って、リビングの方へ行った。

 翔と日中に会うのは、今日で二度目になる。年齢差もあるので、あまり子どもっぽい格好では恥ずかしいと思い、綺麗めな花柄のワンピースを手に取った。

 よし、と一人拳に力を入れ、赤面する。

「――って、何しに行くと思ってんの、私」



 美月と翔は合流し、池袋駅のとあるレストランの前に立っていた。表の通りから一本入った場所に佇む、リーズナブルな価格でイタリアンを提供している店だ。十時半の開店と同時に入ったので、客は美月たち以外に誰もいない。

 まず話を聞きたいのは、インタビューを受けていた店長だ。料理を待つ間にちらりと厨房の様子を窺うと、少しして目的の人物が現れた。若い女性に何か指示しているように見える。

 翔は美月を席に留め、一人席を立った。お手洗いに行くフリをして、店長が一人になったタイミングで声をかけた。

「え、榊さんについて?」

「ええ。それと、彼女と電話をしていた時の様子を詳しく。できれば、彼女も含めて」

 そう言って翔は、美月に視線を向けた。

「お忙しいのは重々承知していますが、僕たちも、あまり悠長に構えていられないんです。休憩の間、手短にということでも大丈夫です。待たせていただきますから」

 翔の真剣なまなざしを見た店長は、その瞳から何かを感じ取ったのか、翔に席で待つよう促すと、いったん厨房に戻っていった。

「どうでしたか?」

 美月は自然と声を潜めた。

「うん。席で待っててってさ。少しずつ混み始めるから、指示してくるって」

 ほどなくして、美月たちのテーブルに店長が近づいてきた。

「今日は火曜だし、それほど混まないと思うんですが、可能な範囲でなら」

「もちろんです、ありがとうございます」

 翔はお礼を言うと、さっそく質問を始めた。

 まずは和恵についてだ。

「彼女はここで働く期間は長いですよ、正社員を抜くとダントツで。七年くらいになるかなあ。身長低いし、その……愛嬌? もあるから、入ったばかりの人ともすぐに打ち解けるんですよ」

「店長さんは、七年間ずっと一緒にお仕事なさってたんですか?」

「いいえ。私は、前の店長が辞めることになったので二代目です。まだ一年も経ちません。だから、榊さんは仕事速いし後輩指導もしっかりしてくれるから、とても助かってたんです」

 美月の問いに対し、店長は穏やかな笑みを浮かべている。七年もいたのなら仕事は分かっているだろうし、和恵はよほど頼りにされていたのだろう。そんな彼女がターゲットだったなんて、一体何があったのだろうか――そんな疑問がじわじわと渦巻いてくる。

 今度は翔が、和恵のトラブルについて聞いてみた。

「うーん、そうですねえ。定期的に従業員にしているヒアリングでは、彼女は特に何も言ってなかったかなあ。奇数の月に行っているので、ちょうど今月の頭にやったばかりですよ」

「他の従業員とのトラブルは?」

「……榊さんから、ではないですけど、若い女の子とはあまりそりが合わないようで、注意の仕方がキツイって相談は受けます。目立ったトラブルはないですよ」

 翔は、そうなんですね、と言いながら、さりげなくフロアに目を向けた。若い女の子が客のオーダーを対応している。

「榊さんとの最後の電話では、彼女の様子は?」

 店長はほんの一瞬、表情をこわばらせた。けれどすぐにその緊張感を解き、考え込むように顎に手を当てた。

「そうですね……いつもどおり彼女の話を私が聞く感じです。けど、途中からなんか時間を気にされてたようですね。一度『もうすぐ十二時か』って言った後は、上の空になることも度々あって。眠くなってしまったのかな、と思って電話を切ろうとしたんですが、十二時を過ぎるまで切らないでほしい、と――」

「どれくらいの時間、電話をしてたんですか?」

「え、え――ど、どれくらいと言われましても……さ、三十分――いや、一時間はしてない……」

 業務連絡に小一時間? そんなに話し込むほどの内容だったのだろうか、と翔の表情にいぶかしむ気持ちが出てしまった。

「ほ、本当はすぐに切ろうとしたんですけどね」

 もういいいですか、と店長は言って、そそくさと去っていった。

「……最後、少し様子が変でしたね」

 美月が声のボリュームを抑えて言うと、翔も同じようにして相槌を打った。

「そうだね。彼は何か隠してる。でも、あの感じからしてもう聞き出せないだろうなあ。あまり有力な手がかりはなし、か」

 落胆する様子の翔を見て、美月は前向きな姿勢を見せて励ました。

「で、でも、榊さんがゲームのことを意識していたのは分かりましたね! もしかして、自分がどんなふうにしてゲームに入っちゃうのか、後で確かめるつもりだったのかもしれません」

「かもね――」

「失礼いたします」

 それでも浮かない表情の翔のもとに、食後のアイスコーヒーが運ばれてきた。美月の注文したアイスレモンティーも、テーブルの上に置かれる。そしてウエイトレスは去り際に、ボソッと呟いた。

「……店長、嘘ばっかり」

「え?」

「あの、君、それって――」

 美月と翔が戸惑いながらも反応したのを振り返りざまに確認すると、お昼をおごってくれるなら教えてもいい、とその女性は口の端を上げた。

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