前のエピソード――急報　　　　　　　　同日　一四〇〇時

　ホレイシアが羅針艦橋に姿を見せたとき、〈リヴィングストン〉の周囲は早くも日没が始まっていた。太陽は水平線の向こうに半ば沈んでおり、赤みがかった空は段々と暗闇に染められている。

　彼女は座席へ腰かけると、近づいてきたリチャードに尋ねた。

「状況は？」

「〈レスリー〉と〈ローレンス〉より、各艦への連絡が完了した旨の連絡が三〇分前に届いております。あと、海軍本部からの通信も受信しました」

　リチャードはそう答えて報告を続けた。「それによれば、別働隊が追撃中の敵艦隊を撃破しました。現在はこちらに向かうべく移動中だそうですが……交戦地点がかなり離れているため、合流には早くても四時間かかるとのことです」

「今すぐにでも来てほしいものね、ほかに何かあるかしら」

「烹炊室より、全乗組員が食事を終えたとの報告が届いております。戦闘に向けた作業も、ほぼ完了いたしました」

「分かったわ」

　ホレイシアは頷くと、リチャードに向かって小声で呟いた。

「副長、さっきはありがとう。おかげで気分が楽になったわ」

「こちらこそ、お役にたてて幸いです」

　リチャードは微笑みながら応じた。ホレイシアはそれを見て恥ずかしそうにはにかむが、すぐに表情を固くして正面に視線を向ける。彼女は海と空へ交互に目をやり、しばらくすると双眼鏡を手にして遠方を見つめた。

「友軍機より入電です！」

　電話員がそう言うと、その場にいる者たちに緊張がはしった。

「船団の右後方、六〇海里に艦影あり。大型艦一、小型艦二、大型艦に帝国海軍の国籍標識を確認せり。速力二〇ノットで船団に接近中」

　ホレイシアは、電話員の知らせに頷いた。帝国の艦艇は味方機からの誤爆を防ぐため、船体前部の甲板上に大きく国旗を書き込んでいる。こちらにとっても、有り難い目印だ。

　ホレイシアは命じた。

「信号員、船団指揮船へ発光信号。　護衛指揮官ヨリ船団司令官ヘ　友軍機ヨリ敵発見ノ報アリ、戦隊ハコレヲ迎撃セントス　以上よ」

　彼女はそう言うと、立ち上がって周囲に視線を巡らせた。

「聞いての通り、私たちは接近しつつある敵艦隊を迎え撃ちます。……みんなの命を、私に預けてちょうだい」

「はい、艦長！」

　艦橋要員たちは上官の言葉を聞くと、一斉に大声で返事をかえした。それを聞いたホレイシアは、満面の笑みを口元に浮かべて冗談めかした口調で続ける。

「帰国したら、戦隊総出でパーティでもやりましょう。飲み屋を一件貸し切りにして、そこで一晩大騒ぎするわ」

「いいですね、楽しみでしょうがないです」

　そう答えたのは、当直士官としてこの場にいるサリー・フーバー大尉であった。

「ええ、私もよ。この任務を成功させて、みんなで帰りましょうね」

　ホレイシアはフーバー大尉の返答にそう応じると、座席に腰かけてリチャードのほうを見た。

「そういえば副長、貴方は水上戦闘の経験はあるのかしら」

「一度だけ。士官学校を卒業後、初めて乗ったフネで参加しました」リチャードは言った。「もっとも、随分と昔の事ですがね」

「構わないわ。助言のほうをよろしく頼むわよ」

　ホレイシアは言い終えると、座席に備えてある受話器を手に取った。通信室に無線封止を一時解除すると伝え、続けて戦隊全艦に対して指示を出すべく艦長たちに呼びかける。

　戦隊は出港前に船団側と何度か打ち合わせを行っており、海軍本部発行のマニュアルなども参照しつつ様々な状況における行動パターンを用意していた。

　その中には当然ながら、敵水上艦隊と遭遇したケースも含まれていた。戦隊は二手に分かれて行動し、ホレイシアは四隻の駆逐艦を直接指揮して敵艦隊へ戦いを挑むと定められている。残る三隻のコルベットは船団に付き添い、万が一ホレイシアたちが戻らなければ、これらが文字通り最後の盾となるのだ。ただし昨夜の戦闘で損傷しているため、〈レスリー〉は迎撃に参加しない。

「船団指揮船より返信です」

　連絡を終えたホレイシアが受話器を戻した後、見張り員がそう報告した。彼女は見張り員に指示をだした。

「読んでちょうだい」

「はい。　船団司令官ヨリ護衛指揮官ヘ　船団ハ適宜増速、本海域ヨリ離脱セントス。貴官ラニ幸運有レ。　以上となります」

　ホレイシアはそれをしばらく考え込むと、顔を上げて信号員のほうを見た。

「船団指揮船にこう伝えて。　我ラハ良キ羊飼イナリ。気遣イ無用、サレド感謝ス」

（良き羊飼い、か）

　上官の言葉を聞いたリチャードは、そう心の中で呟いた。

　船団護衛に従事する艦艇や部隊は、しばしば羊飼いや牧羊犬に喩えられる。非力な商船を羊になぞらえ、その羊を外敵から守護する様子を表した言い回しだ。

　その中でも、『良き羊飼い』は自己犠牲の精神を特に強調した表現である。『良き羊飼いは羊の為に死す』――人々を正しい信仰の道へ導くには、命を捨てる覚悟を持たねばならないという宗教者の理想を説いた古い格言に由来している。

　リチャードは自分たちの眼前に迫る未来のひとつを想像して、わずかに体を震わせた。

「船団右翼、〈ローレンス〉が反転します」

　見張り員の報告を耳にして、リチャードはハッと我に返った。その直後に、ホレイシアが彼に向けて呟く。

「さて、そろそろ私たちも行きましょうか」

　上官の言葉に、リチャードは敬礼しつつ応じた。

「はい、艦長。いつでもご命令ください」

　ホレイシアは正面に視線を戻し、当直士官へ命じた。

「面舵、針路〇八〇。他の駆逐艦と合流します」

　リチャードは艦長の指令に頷くと、フーバー大尉に向けて指示を伝えた。

「ヨーソロー。面舵、針路〇八〇」

　〈リヴィングストン〉はその船体を傾斜させて、ゆっくりと針路を転じていった。それまで後方に位置していた船団本隊の姿が、回頭に伴って次第に右舷側へ移っていく。迎撃に参加する僚艦――〈ローレンス〉および〈レックス〉の二隻と合流したのは、それから三〇分後のことである。その間にも友軍飛行艇から情報が続々ともたらされ、敵艦隊は重巡洋艦一隻と駆逐艦二隻から成ることが判明した。

　ホレイシアは参加艦艇の集結を確認すると、飛行艇の指揮官と連絡をとって敵の位置情報を再度照合した。それが終えるとこれまでの支援に対する謝意を伝え、以後は船団周辺の警戒を優先するよう要請する。編隊指揮官は了承し、彼女へ武運を祈ると言った。

　三隻の駆逐艦は強風吹き荒れるなか、敵艦隊を迎え撃つべく動きはじめた。時刻は一七一〇時である。

　太陽は姿を消し、洋上は暗闇に支配される世界と化していた。