見えざる敵     同日 一三三〇時

 船団がついに被害を受けたという事実に、〈リヴィングストン〉の艦橋要員はみな茫然とした。ひとりリチャードだけが冷静さを保ち、〈ローレンス〉に状況を問い合わせる。一分後に通話を終え、受話器を戻した彼は艦長に報告した。

「船団付近で対応中の敵艦のうち、最初に発見したほうは〈レスリー〉〈ガーリー〉の両艦が左翼で抑えています。こちらは問題ありません」

 リチャードは続けて言った。

「問題は二隻目です。こちらは〈ローレンス〉の爆雷攻撃を回避して正面から船団へ肉迫、雷撃を敢行して商船に被害が出ました。現在は船団内部に侵入しており、〈ローレンス〉と〈ゴート〉が追跡に当たっているとの事です」

「……そう、分かったわ」

 ホレイシアは頷いたが、それ以上の反応は無かった。いや、『反応できなかった』と言うべきかもしれない。この状況はそれだけの衝撃を、彼女の内心にもたらしたのだ。

 ホレイシアはしばらく無言で船団のほうを見つめたあと、我にかえってシモンズ大尉に命じた。

「状況を確認するわ、最大戦速で船団に向かってちょうだい!」


 それから一〇分の間、〈リヴィングストン〉は最大速度二七ノット――時速約五〇キロで洋上を駆け抜けていった。ホレイシアは座席から立ち上がり、リチャードと艦橋の前に躍り出て正面をまじまじと見つめている。

 彼女は船団中央部のやや後方――そこから一海里ほど離れた地点で減速を命じた。そして双眼鏡を構え、船団本隊のほうに向ける。いっぽうでリチャードのほうは、まず肉眼でおおまかな状況を確認した。

 これまで懸命に維持されてきた隊列は、敵潜水艦の襲撃によりすっかり崩壊してしまっていた。船長たちは雷撃を回避しようと、てんでバラバラの方角に舵を切っている。大小四〇隻の船舶が右往左往するその光景は、狼の来襲でパニックに陥った羊の群れそのものだ。

 しばらくすると、リチャードは船団後方で一隻のフネが漂流しているのに気が付いた。おそらく魚雷が命中した商船だろう、彼は双眼鏡を手にしてそちらに視線を巡らせた。

 リチャードが見たところ、それは四〇〇〇トンクラスの貨物船であった。機関が故障したのか動く様子がなく、次々と僚船たちに追い抜かれている。船体は破孔からの浸水で、左に大きく傾斜していた。

 また被雷船の左舷側、少し離れた場所では〈ローレンス〉と〈ゴート〉が走り回っている。船団に侵入した敵潜水艦を、共同で捜索しているのだろう。

(だが、発見できるかは微妙なところだな)

 リチャードは内心でそう呟いた。逃げまわる船舶を避けつつ、それらのスクリュー音を拾う状況での捜索は困難を極めるだろう。

 彼が僚艦を凝視していると、ホレイシアが双眼鏡をおろして言った。

「救難船の位置は確認できるかしら?」

 少し時間をおいて、見張り員の返答がきこえてきた。

「七時方向に確認できます。被雷船のほうへ向かっているようです」

 ホレイシアは頬を緩ませて溜息をついたが、ほんの一瞬の事であった。二つの水柱が爆音とともに上がるのを見て、彼女はまた表情を硬くする。被害を受けたのは、貨物船とタンカーのようだ。

 貨物船のほうは、左舷の船首部に魚雷が命中した。浸水の勢いが強いのか、水柱が消えた頃には早くも頭から沈みはじめている。一方でタンカーは、浮力に余裕があるのだろう。船体中央に被雷したものの、しばらくは何事もなかったかのように進み続けた。

 しかしそれから一分後、タンカーは前触れもなしに突如爆発した。

 おそらく積荷の石油に引火したのだろう。突然の轟音と目が眩むような閃光に、〈リヴィングストン〉の艦橋要員たちは思わず体をすくませた。リチャードは数少ない例外であったが、それでも眩しさから顔を手で覆わざるを得なかった。

 爆発音が収まってリチャードが視線を向けると、そこにあるのは波間に浮かぶ太陽であった。真っ黒な煙を噴き出しながら、船上でオレンジ色の炎が燃え盛っている。洋上へ漏れ出た油にも次々と引火していき、タンカーを中心とする広い範囲が文字通り火の海と化していった。

 その様子を女性乗組員たちは、茫然とした表情で見つめている。炎に包まれたタンカーに魅入る部下たちを、リチャードは大きな声で一喝した。

「お前たち!」

 艦橋要員たちはハッと我に返る。その中には、上司であるホレイシアも含まれていた。

「戦闘はまだ続いている、ボーっとしている暇は無いぞ!」

 彼女たちは謝罪の言葉を口々に発し、あるいは無言のまま姿勢を正した。部下たちと同様に放心状態であったホレイシアが、申し訳なさそうに小さく「ありがとう」と呟くのをリチャードは耳にした。彼は疲れ切った顔つきの上官に、気にしないで下さいといわんばかりに微笑みながら頷く。

 その直後、〈リヴィングストン〉に試練の時が訪れた。


「八時方向に雷跡らしきもの、急速接近中!」

「えっ?」

 突然の知らせにキョトンとする艦長をよそに、リチャードはすかさず左舷側へと駆けだした。舷側から身を乗り出し、構えた双眼鏡を後方に向ける。ホレイシアも遅れてそれに続いた。

 リチャードは荒れ狂う波間に一本の白線――魚雷の航跡が伸びているのを確認した。商船のどれかを狙って外れた、流れ弾の類いだろう。すでに半海里ほどの距離にまで迫ってきている。魚雷の走行スピードは三五ノット前後だから、こちらにたどり着くまでの時間は一分程度しか残されていないだろう。隣に立つホレイシアも、その事実に気づいたのか目を見開いていた。

 双眼鏡を下ろしたリチャードは意を決し、羅針盤のほうへ振り向いた。

「回避するぞ! 面舵いっぱい、右舷機逆進全速!」

 視線の先に立つ航海士は、突然の命令に戸惑いの表情を見せた。航海長を経由して艦長が命じるという、本来の指揮系統を外れた行為だから無理もない。

 リチャードは構うことなく、必死の形相で言葉を続けた。

「何をしている、急げ!」

「は、はい」

 航海士の少尉はハッとして頷くと、伝声管にむけ大声で叫んだ。

「面舵いっぱい、右舷機逆進ぜんそぉーく!」

 命令がつたわった操舵室では、舵輪がすぐさま目いっぱい回された。同時に速度指示器により、機関室にも所定の命令が伝達される。

 針路変更は、あまりに急激なものとなった。舵を切るだけでなく、機関も左右二基のうち、右舷の一基を逆回転させて転舵の補助としたからだ。自動車のドリフト走行を思わせる勢いで、海面を横滑りしながら〈リヴィングストン〉は右折していく。

「……っ! 雷跡を見逃さないで!」

 ホレイシアがそう命じたが、さして意味のある行動ではなかった。艦橋要員たちの視線は、すでに海上の白線へと向けられているからだ。彼女たちは恐怖に駆られた瞳で、それをじっと見つめた。

 見張り員がなかば絶叫するような声で告げた。

「雷跡は左舷四時方向、距離六〇〇メートル!」

「あて舵一〇、両舷機前進全速」

 リチャードは報告を耳にするや、航海士へそう命じた。

 それまで左舷側に傾いていた船体が、今度は右舷へ傾斜の向きを変えていった。バランスの急変に対応できず、何人かの水兵が転倒する。更に五秒ほどの時間をおいて、「舵中央」と命じて針路を固定させた。

 副長の操艦指揮により、〈リヴィングストン〉は迫りくる魚雷とほぼ平行な針路をとった。雷跡に対して斜めに走るより、被弾の確率は大きく低下するはずだ。だが、全くのゼロになる訳ではない。

 リチャードは接近する雷跡を、息を潜めてじっと見つめた。

 〈リヴィングストン〉の左舷側――二〇メートルはなれた位置を魚雷が通過した瞬間、彼は目を見開いて無意識に息をとめた。それは白い航跡を残して、艦のよこをスッと走り去っていった。危地を脱したことを実感して、彼は深く溜息をつく。極寒の洋上であるにも関わらず、その額にはうっすらと汗がつたっていた。

 リチャードは汗を拭うと、航海士に速度を落とすよう命じた。しばらくして、周囲がざわついている事に彼は気づく。

 その原因を確かめるべく視線を巡らせると、艦橋の奥でひとりの水兵が両膝をついているのがリチャードの目に留まった。位置からみて信号員らしい彼女は、同僚に背中をさすられながらうずくまっていた。

 信号員はその姿勢のまま、両肩を震わせて嗚咽を漏らしていた。足元には固形物混じりの、白い液体がぶちまけられている。雷跡が迫るなかで緊張と恐怖にかられ、耐えきれずに嘔吐してしまったのだ。

「航海長、交替要員を手配して彼女を医務室に。あと、モップとバケツを用意してくれ」

 リチャードはシモンズ大尉にそう指示すると、傍で茫然としているホレイシアのほうへ向きなおった。

「艦長、勝手な事をして申し訳ありません」

「いえ、むしろ助かったわ」

 副長の謝罪の言葉に対し、ホレイシアは目元を歪ませながらそう答えて続けた。

「肝心な時に命令を出せないなんて、私は艦長失格ね」

「……」

 ホレイシアの自嘲気味な物言いに対して、リチャードは何も返せない。かけるべき言葉が分からぬ自分の不甲斐なさを、彼は心の中で恥じ入った。

 わずかに間をあけて、ホレイシアが呟いた。

「ボンヤリとしていられないわね。〈レックス〉と〈ゲール〉は来ているのかしら?」

「……見張り員、どうだ」

 リチャードが気を取り直して確認をとると、放心していた見張り員たちが慌てて双眼鏡をのぞきこむ。

「四時方向、二海里の位置に確認できます」

「どうされますか?」

 リチャードの質問に、ホレイシアは疲れきった顔をして答えた。

「予定を変えましょう。〈レックス〉は船団左翼、〈ゲール〉は右翼に展開して周囲を警戒。私たちは船団内部に急行して、〈ローレンス〉たちを援護するわ」

「了解です。ただちに各艦へ伝達します」

 ホレイシアは副長の返答を聞くと、頷いて座席のほうに戻っていった。リチャードは彼女の後ろ姿を不安げに眺めたあと、海図台へ歩み寄って艦内電話の受話器を手に取る。

 ちらりと腕時計に目をやると、一三五〇時を指していた。


 二隻の潜水艦が姿を消し、戦闘配置が解かれたのは一五一〇時のことである。

 〈リヴィングストン〉らの合流が功を奏したのか、船団に新たな損害は生じなかった。一度だけ魚雷を放たれたが、幸いにも命中はしていない。だが第一〇一護衛戦隊のほうも、敵艦を撃沈するには至らなかった。

 この襲撃によって被害を受けた三隻のフネは、最終的にすべて放棄された。二隻の貨物船は浸水を止められず、タンカーは火災の激しさから復旧の試みすらなされていない。救難船などに乗組員が可能なかぎり収容された後、船団は沈みゆく三隻を置き去りにして進んでいく。

 そしてNA一七船団の受難は、まだ終わった訳ではなかった。

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