渇望の呪い
下着のシャツ姿であることなどどうでもいい、と言わんばかりに僕は屋敷を飛び出した。
そのまままっすぐ駆けて、庭園に設えられた噴水の水に手を突っ込む。
ぱっと視界が明るくなって、すぐさま緑で覆われたかと思うと。
そこは最早戦場だった。
池を取り囲むように生えた木の何割かは無残になぎ倒され、地面には深々と爪痕が刻まれている。その幾らかが黒く焼け焦げているところを見ると、ルスランの黄金の炎までも振るわれているらしい。
あまりの惨状に僕が呆気に取られていると、背後に現れたリュシールが息を呑む音が聞こえた。
「これは……かなり状況は逼迫しておりますね」
「ルスラン、大丈夫かな……」
「急ぎましょう、エリク様。ルスラン様が聖域を焼き払ってしまう前に、
リュシールの言葉にこくりと頷いた僕は、倒れた木を乗り越えるようにしてまっすぐ走り出した。
倒れ、焼かれ、煙を上げる木々を越えていくと、そこでは。
地面に組み敷かれながらなおも背の翼や前脚をバタつかせる
「ガゥゥゥゥ……ガルルゥ」
その
下草どころか地面までも焼き焦がされ、ぷすぷすと煙を上げている。よほど、大暴れをしたと見える。
僕が姿を現したのを見つけて、ルスランがふぅと息を吐く。
「小僧、それと
「いえ、抑え込んでくださっただけでもありがたいです。助かりました、ルスラン様」
『にいさま!!』
リュシールが周辺の惨状をぐるりと見渡して、ルスランに頭を下げると。聖域の外側、森の木々の隙間から、インナが姿を現した。
その表情は殊更に心配そうだ。
「我が
『いいえ、にいさまも……しとさまも、だいじょうぶですか』
「僕は、大丈夫。ところでルスラン、一体何があったんだ?」
こちらに近寄って来たインナの頭を優しく撫でると、僕は
見れば、ルスラン自身もすねや肩に傷を負っているように見える。
僕の問いかけに、ルスランの目尻が申し訳なさそうに下がった。
「いや、こやつがな。まだ傷も癒えておらんし、体力も回復しきっておらんというのに、聖域から飛び去ろうとしておってな。
無論飛ぼうと思ってもなかなか飛び上がれんのだが、何度話しても宥めすかしても耳を傾けん。
故に力づくで押さえつけようとしたら、大暴れしよってからに。体力も無いというのに暴れる力だけは妙にあってな、我もつい抑えるのに力を使ってしもうた」
「そんなに……?」
聖域の中で力を振るったことを詫びるように話すルスランだが、その息は随分と荒い。傷を負っていることもそうだし、周辺のことを考えずに神術を振るったことを考えれば、本当に余裕が無かったのだろう。
体力はまだまだ回復途上だというのに、それだけ力を振るえるなんて、アンバランスにも程がある。
と。
「あれは……まさか!?」
僕の隣に立っていたリュシールが、ハッとした表情で
「おい、
「ルスラン様、申し訳ありませんがそのまま抑えていてください!」
困惑するルスランをよそに、リュシールはぐいぐいと
何事か、と様子を見守りながらも混乱する僕とルスラン。そしてリュシールは組み敷いているルスランの足元、
「ここですね……失礼いたします!」
指をしっかりかけるとリュシールは、その鱗を引き剥がすように、ぐいっと上に持ち上げた。
「ギャァァァァァッ!!」
鱗を剥がされる痛みで、
だが、次の瞬間。
バンッという音と共に、リュシールの持ち上げた鱗が弾け飛ぶ。高く宙を舞う墨色の鱗が、聖域の外の木に引っかかった。
そして僕はようやく
「あれは……聖印の光!?」
そう、僕の身体に刻まれた聖印が放っていた光と同じ、しかしそれよりも何倍も強い光が、
その光の零れる場所を見下ろしたリュシールは、目を見張ったままで動かない。
リュシールの背後から同じ場所を見下ろしているルスランも、同じように驚きを露わにした表情で動かずにいた。
僕は意を決して
僕は二人が言葉を失う理由を、そこでまざまざと見せつけられた。
「これ、聖印じゃ……ない?」
強い光を放つその大元には、一つの印が刻まれていた。
しかしそれは、カーン神の星型と放射線を組み合わせたものでも、インゲ神の三角形と十字線を組み合わせたものでもない。
三角形を四つ組み合わせ、それに渦巻き模様を組み合わせた、見慣れない印だ。
リュシールがふるふると、頭を振りながら口を開く。
「そうです、これは聖印ではありません――呪印です。
「えっ!?」
リュシールの言葉に、僕は思わず驚きの声を上げた。
厄呪。神や邪神の操る、人々や獣に害を与えることを目的とした呪い。
以前にインナが施されていた、
それが、この
すっとその場にしゃがみ込んだリュシールが、静かに光を放つ呪印に手を振れる。光がほんの僅か、強さを増したのが分かった。
「
聖域の中であれば神力の供給が強いため、そう簡単に大地の神力が枯れることはありませんが、もう一つ。
エリク様や、ルスラン様、私……聖域に住まう、使徒や巫女や神獣、体内に神力を内包する者が近くに寄ると、この厄呪によって体内の神力を吸い上げられてしまうのです」
「じゃあ、僕の神力が消耗していたのって……」
呆気に取られる僕の言葉に、頷いたのはルスランだ。ようやく呼吸が落ち着いてきたようで、口元もきりりと閉じている。
「小僧はここのところ毎日、こやつに
我も我で、こやつの傍に長らくいて見張っていたのだ。道理で神術の威力が出ぬわけよ」
「抑え込めるのがルスラン様しかいなかった現状、仕方がないとしか申せませんが……このことにもっと早く気づいていれば、別の手も取れました。申し訳ありません」
ふん、と鼻を鳴らしたルスランに振り返りつつ立ち上がって、リュシールは頭を下げた。
彼女も体内に神力を持つ存在、神術を行使できる存在だ。今、
おずおずと、僕はリュシールの服の袖に縋るように手を伸ばした。僕の手が、小さく震えているのが自分でも分かる。
「リュシール……今、触っていたけど、大丈夫なのか?」
「私程度の神力でしたら、触ろうと触るまいと大した違いはありませんよ。それよりも、エリク様の神力の消耗が心配です。ルスラン様も」
服の袖を握りしめ、心配そうに見上げる僕を、優しく撫でるリュシール。
彼女が僕の背中にそっと手を回すと、
「一度離れてください、お二人とも。それとルスラン様、申し訳ありませんが彼に通訳をお願いできますか」
「ふむ、何を伝えればいい?」
一足飛びで
「厄呪は、我々が必ず解いてみせます。この聖域の中にいれば土地を腐らせることもありません。
だから、どうかここから逃げようとしないでください。
このように、お願いいたします」
そう言って、リュシールは三度頭を下げた。
ルスランがラガルト語で
「この
「そうでしょうね、土地の神力が吸い尽くされてしまっては、元の状態に戻すのにも時間がかかりますから。
しかしそれだけが理由ではありません」
僕の疑問にそう答えると、リュシールは
「この者の体内には、膨大な神力が蓄えられています。それこそ並の
それだけ大量に体内に神力が注ぎ込まれては、肉体の方がもちません。ですので内側から裂けるように、身体に傷が生まれては神力が溢れ出していきます。呪印から零れる程度では到底間に合わないのです。
そうして、呪い自身が作り出した傷口も、きっと多くあったことと思います」
そう話すリュシールの目が、哀しそうに細められた。
こんな呪いに苦しめられていては、この
僕は心の中で、そう決意を固めるのだった。
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