第61話~味噌汁~

~新宿・大久保~

~メゾン・リープ 食堂~



 翌朝、というより午前十時。

 朝食の終了時刻を大幅に過ぎた時間になって、ようやく僕は食堂へと顔を出した。


「ふぁ……」


 漏れ出す欠伸を噛み殺す余裕もない。口をだらしなく開けて食堂の中を歩く僕の背中に、声がかかった。


「ようやく起きてきた? マウロちゃん」

「……う」


 かかる声に、僕の身体がびしっと硬直する。声の主は誰あろう、澄乃だ。

 昨晩は朝帰りした上に、澄乃のお説教をお味噌汁の一件でうやむやにして部屋に逃げ込んだから、されて然るべき説教を僕達は受けていない。

 なので、今とても、振り返るのが怖い。

 立ち尽くしたまま内心震えていると、ことりと器がカウンターに置かれる音がした。


「朝ご飯まだなんでしょ? ……と言ってもこっちも出せるもの殆どないけど。お味噌汁くらい飲んどきな」

「え、あ……すみません」


 次いで投げかけられる言葉に、僕はようやっと後ろを振り返った。そこにはカウンターに置かれたお味噌汁のお椀と、その向こうで笑いかける澄乃の姿がある。

 時間的にも予想は出来ていたが、朝食の片付け中だったらしい。厨房では他のスタッフがあちこち動いては、鍋や皿を洗っていた。

 そっとカウンターに歩み寄って、お味噌汁の椀を手に取りながら、僕は上目遣いに澄乃の顔を見た。


「えっと、澄乃さん……その、昨夜のことは」

「あぁ、もういいよ。シフェールちゃんとエティちゃんが大体教えてくれたから。お小言言うのも、なんかまぁ、気分じゃないし?」


 おずおずと話しかける僕へと、本当に何とも思っていなさそうな表情で澄乃は言葉を返してきた。

 その返答に僕が内心でそっと安堵して、箸を一膳手に取って席に着こうとする、その背中に静かに声がかかる。


「……里帰り・・・、したんだってね」

「……はい」


 僅かな沈黙の後に、僕は頷いた。

 そのままカウンターに向かい合う形で食堂の席に着くと、早速澄乃がカウンターの向こうからこちらにやって来ていた。片付けの作業は、どうやらとっくに他のスタッフに任せきりの状況だったらしい。

 僕の目の前の椅子を引きながら、存外に勢いよく彼女は僕の肩を叩いてくる。お椀を持つ手がぐらりと揺れた。


「よかったねー、って言いたいところだけど、たったの三時間じゃ感慨に耽ってもいられないか。あ、向こうの時間だと一時間半になるんだっけ?」

「っ、ちょ、そ、そうですね。時間の流れが、こっちより早いので……あ、美味しい」


 澄乃の嬉しそうな言葉に慌てつつも、僕は手の中のお椀を寄せてお味噌汁を啜る。大根と油揚げ、ネギの入ったお味噌汁。柔らかく、優しい味だ。空腹にじんわりと染み渡っていく。

 それを味わうように飲んでいる僕の前で、澄乃は随分感慨深げに、僕の前で頬杖を突いていた。


「しっかしなー、予想していたより随分早く、そのチャンスが巡ってきたねぇマウロちゃん。まさか『渡り人』と直接コネクションを持つだなんて、それもこんなにすぐに」

「『渡り人』……?」


 お味噌汁に箸を入れながら疑問の表情を作る僕に、澄乃は目を細めながらどこか遠くを見つめつつ口を開く。その表情は懐かしいものを想うかのようだ。


「世界を渡る術を知る人々、異世界グウェンダルの民。ありとあらゆる世界を繋げる術を持つ、命に限りのない人。私達はあの人たちをそう呼んでいる……ま、呼んでいるだけで実際に会ったことは無いんだけどさ」


 懐かしむ口調で話しながら、あっさり「会ったことは無い」と話す澄乃。その口ぶりに僕は眉を寄せながら、お椀に口をつけた。


「ないんですか? 澄乃さん、三百年以上生きてらっしゃるのに」

「なにさ、人を年寄りみたいに。いやまぁ、マウロちゃんよりも社長よりも、私はずーっと長生きしているからいいんだけど」


 僕の言葉にちょっと目尻を持ち上げながらも、澄乃の口調はなんだか楽しそうだ。

 一瞬だけ僕の方に視線を向けてから、また視線をどこか遠くに飛ばして話を続ける。


「……『渡り人』たちは私たちの世界の流れとは違う流れの中に生きている。一日の中で何度も会うこともあれば、数十年先じゃないと会えないことだってある。

 おまけに本人たちから言い出す・・・・・・・・・・か、ホールから出てくるところを直接見るとかしない限りは、その人がそうだって分からない。姿だって自由に変えられるんだから」


 澄乃の遠くを見つめる視線が、ふっと細められた。

 確かに、グウェンダルの人々は姿かたちも自由自在。グンボルトもゴフィムも、僕達の前に姿を見せている時は人間らしい一定の形を保ってくれているし、その姿で陽羽南ひばなへのホールを潜ってきているが、潜る前から同じ姿でいるとは限らないのだ。

 おまけに僕は彼らがホールを潜ってやってくる瞬間を見ているし、ホールそのものも視認しているから彼らが転移してきたのだと分かるが、あれを見ないでいたら普通にエレベーターで三階まで上がって店に来た、と思っただろう。

 そう考えると僕達は随分、珍しいものを見たんだな……と、思ったところで。

 ふとあること・・・・を思い出した僕が目を見張った。


「なるほど……あ、あれ? ってことは……あれ?」

「なに、どうしたの」


 突然に困惑の声を漏らし始めた僕に、澄乃が訝しむ視線を向けてくる。

 僕はお味噌汁の汁をぐっと飲み干すと、困惑の表情を作りながら彼女に視線を返した。


「いや……それならサハテニさん、自分からぺらぺらと『異世界グウェンダルの民』とか『世界転移術を教えた』とか話したなぁって……」

「は……!? マウロちゃん待って、今、なんて!?」


 僕の言葉に、澄乃がすぐさま目を剥いた。

 テーブルに両手をついて、ぐっと身を乗り出して、僕に顔を近づけるようにしながら声を張り上げる。

 突然の大声に目を白黒させる僕だ。


「え、なにって、異世界グウェンダルの民とか」

「そっちじゃない、名前の方! 誰と会ったって!?」


 僕の言葉にますます身を乗り出してくる澄乃。

 なんだ、突然。グンボルトと会ったことが一体どうしたというのだ。


「サハテニさん、ですか? えーと、フルネームがグンボルト・サハテニだったかな……それが、どうかしたんですか?」


 グンボルトの名前を出した途端、澄乃の表情から一気に力が抜けた。

 そのままへにゃりと表情を崩すや、倒れ込むように後方の椅子に腰を下ろす。脱力して背もたれに身を預けながら、彼女は額に手を当てて笑い始めた。


「グンボルト……はっははは、そうかー、そうかー。あのおっさんマウロちゃんの店に行ったのかー、悔しいなぁー、ははは」


 脱力しながら笑いを抑えきれない、と言った様子の澄乃に、ぽかんと呆気に取られる僕。ただこのまま笑い続けられたら話が進まない。そっと声をかけた。


「あの、澄乃さん??」

「ははは……うん、ごめん、急に笑ったりして」


 うっすら開いた目の端に涙を浮かべながら、澄乃が僕へと視線を返す。

 そうして身を起こし、テーブルに両肘をつくと、そこに顎を乗せるようにして彼女は話し始めた。


「あの人……グンボルトさんはね、私に日本酒の楽しさを教えてくれた人なんだ」

「へ……いやでもさっき、澄乃さん、『渡り人』と会ったことないって」


 懐かしそうに話す澄乃に、僕はツッコミを入れざるを得なかった。

 彼女が「『渡り人』と実際に会ったことはない」と言ったのはついさっきだ。しかしグンボルトは彼女の言う『渡り人』の一人。早速話に矛盾が生じている。

 しかし澄乃はふるふると首を振った。


「知らなかったんだよ。今知ったの、あのおっさんが『渡り人』だって。

 私が直接顔を見たのはそれこそ江戸時代の頃……えーと今からだと200年くらい前かなぁ。江戸市中の居酒屋で飲んでるのを見かけたの」


 聞くに、西暦で言うと1800年あたり。その時代は西日本のみならず東日本でも日本酒造りが盛んだったそうで、今でいう東京23区に酒屋がいっぱいあったのだそう。

 居酒屋文化も花開いていく中で、その酒屋の一軒でグンボルトは飲んでいたらしい。

 しかし、200年前。350年生きてきたという澄乃は直接体験もしているだろうが、僕からしたら随分な昔の話だ。


「江戸時代……そんな昔から、サハテニさん地球に、というか日本に来ていたんですか?」

「本人曰くもーっと昔から来ていたらしいよ、日本に限らず地球のあちこち。6000年前のジョージアで土甕つちかめで発酵させるワインも飲んだとか言ってたなー」


 澄乃があっけらかんと話す内容に、口をあんぐり開いたままの僕である。

 200年前でも随分な話なのに、6000年前とは。そんな昔からあの人は地球に来ていたのか。そして酒を飲んでいたのか。

 というかそんな太古の昔から、この世界には酒の醸造技術が存在していたのか。信じられないを通り越して、何とも恐ろしい話である。


「で、その時はただ通り過ぎるだけだったんだけど、その翌年の江戸で行われた大酒飲み大会に、あのおっさんふらっと参加しに来てさ。

 その時は確か『郡三ぐんぞう』だかの名前で参加してたんだっけな、ものすっごい量飲み切って大勝ちしてったの。もう五升も六升も飲んでったの」

「うわぁ……」


 指を折りながら記憶を手繰り寄せる彼女の言葉を聞いて、僕の顎がますますストンと落ちた。

 日本酒の一升が、1,800ml。だいたい十合。それが五升、六升ということは、五十合、六十合も。陽羽南の一日の営業でお客さんに振る舞われる日本酒を上回る量を、彼は一人で飲んでしまえることになる。

 酒豪もここまで来ると、逆に心配になってくる。

 ちなみにその大会、澄乃も毎年参加していたとのこと。上位層の常連だったそうだ。


「でさ、私もその時に二升は飲んだんだけど、もう最後の方苦しくって。

 でもあのおっさんはあれだけ飲んでも全然苦しそうじゃなくて、むしろ楽しそうに飲むんだよ。凄いなーって思ってさ。あの姿に憧れたもんだったなぁ……

 飲食の業務に飛び込んだのも、あの楽しそうに酒を飲む姿を見たいからだったんだけど、私が歌舞伎町店を離れた後に歌舞伎町店に来るかー、あのおっさん」


 そう言うと、澄乃は口惜しそうに指をパチンと鳴らした。厨房で洗い物をする音が聞こえるだけの食堂に、存外大きく音が響く。


「でも、その酒飲み大会の時は別の名前で参加してたんですよね? なんでサハテニさんの名前を……」

「大会の後、おっさんが私の方に寄ってきて声をかけてきたの。『またいずれ、相見えることもあろう』とか言って。その時に教えてもらった」


 僕の零した疑問に軽い口調でそう答えると、突然澄乃は両手をテーブルに打ち付けた。バンという音に、厨房から聞こえる洗い物の音が途切れる。どうやら中のスタッフも驚いた様子で。

 しかしそんなことなど気にも留めず、彼女は僕をまっすぐ睨みつけて口を開いた。


「よし決めた、もう決めた、私もマウロちゃんの店に飲みにいく!」

「えぇー!? でも澄乃さん、西口店の仕事があるのに」


 彼女の宣言に、僕は思わず大声を上げてしまった。

 なにせ、店長を務める自分の店をほっぽらかして、僕の店に飲みに来ようと言うのだ。ただ人に、それもいつやってくるかまるで確証が持てない人に会うために。

 ほんのり批判的な目を向ける僕へと、決意に燃えた目を返しながら澄乃は言う。


「休憩時間使って飲みに行くよ、どうせ徒歩十分もかからないんだもの。一杯二杯は飲めるでしょ。こんなチャンス逃してたまるか!」

「えぇぇ……自分でさっき『次に会うのが数十年後になるかもしれない』って言ったじゃないですか……」


 何やら、彼女の心に予期せぬ火を点してしまったようで。

 椅子を蹴って立ち上がり、天井に拳を突き上げる澄乃を前にして、僕は今夜の営業を普段通りに出来るかどうか、心配でたまらなくなるのだった。



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