過去を乗り越える香澄

    オレゴン州 トーマスの部屋 二〇一五年八月二五日 午前五時〇〇分

 フローラたちと香澄との心理戦から約四時間が過ぎ、何とか誰も死傷者を出すことなく結末を迎えることが出来た。結果的にはフローラの策に敗れてしまった香澄だが、この中の誰一人でも欠けていたら、彼らは無事では済まなかっただろう。


 そしてフローラたちによる命をかけた説得のおかげで、ようやく悪魔の誘惑に打ち勝つ信念、および人を信じる強くて優しい心を取り戻すことが出来た香澄。そんな香澄にとって、トーマスの部屋に集まってくれた一同は命の恩人でもあり――そして何よりも大切な家族でもあるのだ。


 自分を取り戻した香澄はフローラをはじめ、親友のマーガレットとジェニファーとエリノア、および父親代わりでもあるケビンに心からの謝罪をした。

「みんなが命がけで助けてくれなければ、私はとんでもない過ちを犯すところでした――私にとってでもあるケビンとフローラ、そして私にとってのメグとジェニー、そして……エリー。今までご迷惑をかけてしまい、本当にごめんなさい。そしてこんな私でも良ければ……これからも側にいさせてください!」


 香澄の心からの謝罪であると同時に、その場にいたフローラたちへの感謝の気持ちを示す言葉でもあった。今まで香澄が深い心の傷を負ってしまったことで、彼女は無意識の内にフローラたちを避けていたのかもしれない。

 だがそれでは何も解決しないことを体験した香澄は、自らの意志で心の傷と向かうことを選んだのだ。一時は香澄もトーマスの二の舞になると、フローラたちはどこか心の中で恐怖していたのかもしれない。

 しかしフローラたちは香澄自身の口から、過去を乗り越えながら必死に生きていくことを、皆に誓ってくれた。そんな香澄の意志を尊重するかのように、フローラたちはその瞳にうれし涙を浮かべている――それは香澄とフローラたちとの距離がさらに近くなったことを証明する、感動的な瞬間でもあった。


 無事香澄の心を取り戻すことが出来た一同は、部屋で静かに眠るトーマスに別れの言葉をかけた。皆がそれぞれトーマスへの別れを惜しむ中で、時折胸に手を当てながら語る香澄の言葉と姿が聖母マリアのようで、どこか神秘的だった。

「トム、あなたと出会えて私は……いいえ、よ。もう二度とトムとお話出来ないのは悲しくて、そして……とても寂しいわ。でも安心して、あなたはわ。あなたと一緒に過ごしたこの温もりは、私たちにとってよ。……今日はこれでお家に帰るけど、近いうちにみんなでまた会いに来るわね。だからトム、それまででね」


 そう別れの言葉をかけながら部屋の机に置かれている写真立てを手に取り、香澄の桜の花びらのように色鮮やかなピンク色の唇が、無邪気な笑顔で写っているトーマスの写真にそっと触れる……

「最後に私からあなたへ……一つだけお願いしてもいい? トム、今の私はあの時“好き”だと言ってくれた、おんなに見えるかしら? この次会いに来た時でいいから、その答えを聞かせてね」

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