前編 静寂に包まれた環境

香澄の気分転換

                 七章


  ワシントン州 ハリソン夫妻の自宅 二〇一五年八月三日 午後一時〇〇分

 実に多くの大切な人に香澄は恵まれており、親友のマーガレットやジェニファー、そして実の両親と同じくらい深い絆で結ばれているケビンとフローラ。ふとしたきっかけで一時的にエリノアと仲違いしている今でも、彼らは積極的に香澄の心身を案じている。

 しかしそんな彼らの優しさが、時に香澄を傷つけるきっかけにもなっている。確かに深く心が傷ついている事実は変わらないのだが、あの一件以来常に香澄の側には誰かがいる。

『みんなが私のことを心配してくれるのは嬉しいのだけど、ちょっと過保護過ぎる気がするのよ――でも本心を言うとみんなを傷つけてしまうから、そんなことは口がさけても言えないわね』

 微妙な間の取り方が関係する問題なだけに、今回の一件に関して香澄の心境はとても複雑だ。今日の午前中も親友のマーガレットとジェニファーが香澄の身を案じ、いつもそばにいてくれる。これだけならまだ良いのだが、“心の傷が完全に癒えるまでは、勉強や将来のことを考えでは駄目”と約束してしまったことが、香澄にとって大きな懸念材料となってしまう。


 真面目で努力家の香澄にとって、勉強するということは見聞を広めること。それが自分の夢へとつながる布石ともなり、これまで彼女は一生懸命知識を深めてきた。

 そんな希望をやっとつかみ取ろうとした矢先に、彼らから勉学に励むことを禁止されてしまう。もちろんあの時反論することも出来たのだが、それもすべて自分の心身を心配してくれているからこその言葉。そんな彼らの善意を無にすることなど、誰よりも優しい性格の香澄には出来なかった。……まさに皮肉な話だ。


 だがそんな香澄にも、つかの間のチャンスが訪れる。この日はマーガレットとジェニファーの二人とも、午後からどうしても外せない用事がある。

 マーガレットは次回行われる予定の公演についての打ち合わせで、八月下旬に行われる予定のオーディションについての内容が中心。オーディションに関する内容ということもあり、この日のマーガレットは人一倍気持ちが高揚しているに違いない。今も彼女はベナロヤホールで打ち合わせを行っており、次回公演に向けた準備に取り掛かっている。

 一方のジェニファーはというと、ワシントン大学にあるフローラの教員室にいる。マーガレットが自宅にいないため、本来ならジェニファーが香澄の側にいるはず。だが今日はどうしても大学院に関することで、ワシントン大学へいかなければならない日。少々歯がゆい気持ちにゆられながらも、ジェニファーはフローラと一緒に調べ物をしている。


 久々に一人だけの時間が出来たことを知り、香澄は身支度を済ませどこかへ出かける準備をしている。

『みんなには悪いけど、私もたまには一人で気分転換しないと――夕方までには戻るとしても、数時間はあるから大丈夫ね』

 いつになく上機嫌な香澄はしっかりと自宅の鍵を閉め、シアトル郊外のある場所へと足を運ぼうとしている。

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