第3話

3.






僕の一日は、毎朝シェアハウスの共同洗面所で汚さと戦う事から始まる。


誰かの髪の毛と、ドロっとした死んだ細胞や、痰で排水溝が詰まっている。


なぜか誰も掃除しないので、僕が嫌々やっている。


今の仕事でこの汚いシェアハウスから出て行く事ができるだろうか。


もう10年近くこのシェアハウスにいることになる。





僕は、入居以前の記憶が無いが、入居してからのことはよく憶えている。


就職は難しく、どこに行っても断られ、短期の、せいぜい半年程度のアルバトの給料と、月に一


度振り込まれるわずかな補助金でずっと食いつないでいた。


誰からも助けてもらったことがないので、自分も他人の人生に関わりたくないと思う。


しかし、この最近、このシェアハウスは、なんらかの収容施設なのではないかと思うようになった。


なぜ入居者全員が、記憶喪失を患っているのか?


そういう人間を集めて管理しているのだろうか?




身支度をし、鏡を見ると、今日も額にある傷が鮮明に見えた。


漫画のキャラクターの怒りマークみたいだ。


おでこの生え際に傷があるので、髪を上げると禿げているように見える。普段のように前髪を少


し下して傷を隠した。




僕は毎日、まず事務所に行って、僕の担当である神楽野さんの席にもあいさつに寄った。


昨日の作業のを報告書を渡し、今日の分の作業場所を割り当ててもらう。




「柳さんの作業はすごく早いですね?他の人の作業量に比べれば、ほぼ1,2倍ですよ。」


「あ、そうなんですか?」




僕は照れて、恥ずかしくなった。額の傷を髪の毛の上から掻いた。


彼女は僕に興味があるのだろうか。


つまらない話を口実に、僕と会話をしたいのだろうか。


平均より1.2倍なんて、そんなに褒められることだろうか。




「私、あの『隙間の目』を見たことあるんですけど、物凄く怖かったんです。


あまりに赤くて、意志が無いみたいに焦点が合ってなくて。


柳さんみたいに、あの隙間を埋めてくれる人にはホントに感謝してます。」




彼女が上機嫌に見えたので、僕は少し調子に乗って聞いてみた。



「ところで、あの目は、結局なんなんでしょうね。


作業後には、本当にあの空間の亀裂はキレイに消えてしまうし。


何か新しい情報はありますか?」




言った途端、後悔した。


彼女の笑顔が急に固くなったのだ。


彼女は諭すように言った。



「私達は、あれが何かなんて知らなくていいんじゃないですか?


そんな事関係なく仕事があって、柳さんは世の中の人々に安心をもたらしているんですから。」




そう言うと、彼女は作業員のスケジュールを確認しながら手元の書類に色々と書き込み始めた。


笑顔は顔に張り付いているいるが、僕との話はこれで終了、ということのようだ。


僕は数秒、躊躇したが、「じゃ」とだけやっと言い、その場を離れた。


褒めてくれたのはお世辞だったのだ。


わかってたじゃないか。


真に受けてバカみたいだ。


事務所の扉を出る時に、彼女の方を振り返ってみると、彼女は背の高い事務所の同僚男性と談


笑していた。


「あの人、身の程知らずにも、私を口説こうとしたのよ。」と、あざ笑っているような気がした。


突然、恥ずかしくなって逃げるかのように足場やに事務所を離れた。





僕は今日割り当てられた街を歩きながら、空間の亀裂を探した。


「隙間」は、いきなり現れたりすることもある。


気を付けて街を歩いた。


足場用の金属棒がガチャガチャ音をたてる。


物凄く軽くて丈夫な素材でできているので、運ぶのは全然負担にならないが、時々人目が気に


なった。




そして、建物の間に空間亀裂を見つけると、ゆっくりと足場を組み始めた。


その通りは人影が少なく、すごくのろのろと仕事をした。



そして、ぼーっと隙間の中を長い時間、眺めた。



その空間亀裂の中に、きれいに整理された部屋が見えてきた。





そして一人の男が机の上に上がって天井から垂れ下がった縄の輪に首を入れようとしている姿


が見えた。




何の音も聞こえない。





僕は、その人が何をしようとしているか気づき、その人を凝視した。


その瞬間、その男と目が合った。


僕はゆっくり首を横に振った。


そんな事しないでください、と伝えようと思った。


男は一瞬驚いたようで、何か言ったが音は聞こえなかった。


僕は、やめてください、とはっきり口に出してみたが、まったく聞こえていないようだ。




男は、全てに絶望しているようだった。


そして、暗い表情で僕を凝視した。


目で問いかけてくる。




あなたに僕を救うことができますか?と静かに問われている気がした。



僕は、また、ゆっくりと首を振った。


今度は違う意味で。



すみません。僕は何の力もありません。


あなたを救うことはできません。


彼に伝わったようで、フっと笑顔を漏らした。


そうだよね。そりゃそうだ。とでも言っているようだ。



そして、枯れきったやさしい表情でこちらを見た。




彼の口が動いた。「ありがとう」だったと思う。



僕が心配そうに見てるからだろうか。






僕は「やめてください」と言い続けた。








彼は机を蹴り、空中に自分の身を投げだした。





「あっ!」






僕は慌てたが、見ていることしかできない。







空中でもがく彼の動きが止まるまではそんなに長い時間はかからなかった。



彼の開かれた目が虚空に浮遊しているように揺れた。






そして急に、部屋の空間を映す画面が彼の瞳へとズームインした。







彼の目が空間亀裂のフレームいっぱいに映った。







それは、世の中を、世界中を騒がせている赤い赤い「隙間の目」だった。








その瞬間、僕はその瞳の本当の意味を分かった。



毛細血管が破れて、白目の部分が赤く染まったその目。うつろに見える開ききった瞳。


その瞳はすでに死んだ者の目だったのだ。






僕は恐怖でガタガタ震える手で、急いで作業を終わらせた。


何度も固定ネジを締め損なった。




心細くて涙が出てきた。



作業が終わる頃には、僕は泣きじゃくっていた。



今まで、何を見ない様に、気にしないようにしてきたのか、はっきりとわかってきた。






空間亀裂の中にある状況には共通点があった。


いつも必ず誰か人がいる。


大体閉鎖された空間だ。


そうでなければ、不運な事故現場だろうか、滅茶苦茶に壊れてひっくり返った自動車が側に転


がっていたこともある。


地下室のような場所で拷問を受けているような人もいた。


そして、様々な方法で自殺をしようとしている人が一番多かった。


穏やかな死や、家族に囲まれて大往生の人などは見たことがなかった。



何か理不尽な思いを抱いて死に直面している人達、死を前にして、誰か、何かに、最後の助けを


求める人達のようだった。


虚空を睨みつけ、奇跡が起こることを祈っている人々だ。


そして、その虚空に空間の裂けめが生まれる。


その瞳は、こちらを監視するためのものではなく、怯えて絶望して、奇跡の救いを求める目だった


のだ。


泣いている悲しい目、切ない目だった。


そして、死んでしまうと、空間の裂けめは目に近寄る。


だから充血した目のアップになる。



なぜそうなるのかはわからないまま、自分が何を見ているのかがわかると、恐怖心は消えて行っ


た。





そういえば時々、インターネットでも、あの「目」を見てると、なぜか悲しくなるとか、どこか可哀想


に見えるという意見もあった。


しかし、大多数の不安に思う人々には受け入れられない少数の意見だった。







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