愛情
「将来赤ちゃんが生まれた時のことを考えて、今から抱っこの練習をしたいと思います」
私がそう言うと、
「お前は何を言ってるんだ?
「だからこそ、練習をするんだよ。いつか彼氏が出来て妊娠した時のためにさ」
いつになるかは分からないが、練習するに越したことはないはずだ。
「どうやって練習するつもりなんだよ」
「1.5Lのペットボトルに水を入れて練習しようと思う。赤ちゃんがどのくらいの重さかは知らないけど、水が満タンに入った1.5Lのペットボトルなら、少しは練習になると思うんだよ」
少なくとも生まれた直後の赤ちゃんよりは重いはずだ。水が満タンに入った1.5Lのペットボトルの重さに慣れておけば、いざ赤ちゃんを抱いた時にさほど重さは感じないだろう。
「そもそも練習する必要なんてあるか?」
「あるに決まってるでしょ! もし練習をしないまま赤ちゃんを抱いたら、その重さに驚いて落としてしまうかもしれないんだよ! そうなったら取り返しがつかなくなる! そういった事態を避けるためにも練習は必要なんだよ」
私は事の重大さを伝えようと必死だった。
「……練習したけりゃすればいいよ」
「何を言ってるの? 由里香もするんだよ」
「はぁ? 何で私まで練習しなきゃならないんだよ?」
由里香は怪訝な表情で私を見る。
「もちろん由里香に赤ちゃんが出来た時のためだよ」
「私はいいよ。沙織だけでやってくれ」
由里香は呆れたようにため息をついた。
「もういい! 私だけで練習するから帰って!」
「いや、ついさっき来たばかりなんだけど」
「いいから早く帰って! 私はこれから練習しないといけないから」
「分かったよ。帰ればいいんだろ」
由里香は心底呆れた様子で私を一瞥し、帰った。
私は由里香に腹を立てつつも、ペットボトルに水を入れた。想像していたよりも重く、危うく落としそうになった。これが赤ちゃんだったらと思うと、背筋が凍る。やはり練習は必要だ。
由里香は分かっていないんだ。もし赤ちゃんを落としたらどうするつもりなんだ。軽傷で済めば良いが、命を落とすことだってありうるんだ。
私は1.5Lのペットボトルをそっと抱きしめた。
☆☆
「どうでちゅか? おいちいでちゅか?」
「……お前はいったい何をしてるんだ?」
由里香は冷ややかな目で私を見てきた。
練習のことが気になったのか、由里香は呼んでもいないのに、家に来ていた。
「食事をさせてるの」
「食事だと? 中の水を入れ替えてるだけじゃないか」
「人はそれを食事と呼ぶ!」
「いや、呼ばねえから! 人は体内の水を入れ替えたりしないから!」
私はニヤニヤしながら、由里香にペットボトルを差し出した。
「抱いてないから、そんなにイライラするんだよ。由里香もこの子を抱いて穏やかな気持ちになりなよ」
「いや、私はいいから!」
由里香は抱っこを拒否しようと両手を前に出し、手がペットボトルに当たった。手に押し出されたペットボトルは勢いよく床へと落下した。
「太郎!」
私はペットボトル――太郎へと駆け寄る。
「……ペットボトルに人間っぽい名前をつけるなよ」
「この人殺し!」
「誰が人殺しだ! たかがペットボトルを落としたくらいで大袈裟すぎるだろ」
「うるさい! 私にしてみればこの子は息子同然なの! あんたなんかもう友達じゃない! 今すぐ出て行って!」
「……分かったよ」
私の態度に気圧されたのか由里香は顔を引きつらせつつ、足早に出ていった。
「太郎! 太郎! 太郎! うわぁ~ん!」
私は泣きながら太郎を抱きしめた。
友達だと思っていたのに、こんな酷いことをするなんて。由里香に人の心はないのだろうか? 私は心の底から太郎を愛していたのに。私から太郎を奪った由里香を絶対に許しはしない。
「……太郎の仇はお母さんが必ず取ってあげるからね」
私は太郎をカバンに入れる。それから台所に向かい、包丁を取り出し、カバンに入れた。
ゆっくりと深呼吸し、息を整えてから、私は由里香の後を追った。
☆☆
幸いにもすぐに由里香を見つけることができた。
由里香は横断歩道で信号が青になるのを待っているようだった。
私はゆっくりと由里香の背後に近づき、カバンから包丁を出して思いっきり刺した。
「ぐふっ! 沙……織?」
由里香は信じられないといった表情で私のことを見ていた。
私は由里香を何度も刺した。倒れゆく由里香に馬乗りになり、包丁を体に刺し続けた。
太郎の命を奪った罰だ。今度は私が由里香の命を奪う番だ。
「許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない!」
周りの人の悲鳴を鳥のさえずりのように聞きつつ、私は由里香を刺す手を止めなかった。
腕が疲れはじめ、私はようやく手を止めた。由里香は事切れていた。
私はカバンから太郎を取り出した。
「太郎……あんたの仇は取ったよ。すぐにお母さんもそっちに行くからね」
後ろからパトカーのサイレン音が聞こえてくる。誰かが警察に通報したのだろう。
振り返ると遠くのほうにパトカーが見えた。
私は徐々に近づいてくるパトカーを眺めながら、手に持っていた包丁で自分の喉を思いっきり刺した。
薄れゆく意識の中で私は太郎をぎゅっと抱きしめた。
――私もそっちに行くから、一緒に遊ぼうね、太郎。
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