第二章 失われた神の祈り --- 8

 落ち合う場所の目印とされた滝は、五ピクトほどの幅で三十ピクトほどの高さから白糸を引く雄々しいものだった。滝壺の手前には水面から岩が突き出しており、周囲は急峻な崖に囲まれている。あの火事の夜から欠け始めた月は、山に阻まれ、依然として姿を現していなかったが、もし月光が降り注げば、さぞ美しい風景に変わるだろうことは容易に想像がついた。

「どう? 誰か居る……?」

 滝の霧のような飛沫に洗われながら、岩場に馬を立たせたセフィアーナは、四方に首を巡らせた後、不安そうにラスティンを振り返った。木々の影が水辺にまで落ち込み、山暮らしで夜目の利く二人でも、もはや互いの表情の判別さえ難しくなっていた。

「ここで落ち合うことにしたのは、隠れる場所があったからだよ」

 言うなりラスティンは馬から降りると、手綱を引いて滝壺の方へと歩き出した。その足下を、アグラスが早足で追い抜いていく。セフィアーナが後を追うと、彼らは水辺のぬかるんだ場所や木の根の隧道など道ならぬ道を行き、さらに馬がやっと一頭通れるだけの崖下の岩場を抜け、滝の裏側へと続く小径の入口に辿り着いた。

「ここなら滝が目隠しになって表からは見えないから、絶対に見付からないだろ?」

 セフィアーナが感心して頷いた時、俄に奥の暗がりで小さな歓声が上がった。先に中へ入ったアグラスが到着を告げたらしい。

「よかった、誰か居るみたいね」

 セフィアーナが安堵の表情を浮かべた一方で、ラスティンは面持ちを硬くした。彼のせいでセレイラの面々は危険にさらされることとなった。願わくば、全員無事にこの中に居て欲しかった。その時、数人の男たちが暗がりの中から姿を現した。先頭の男がにこやかな表情を浮かべている。ヒース=ガルドだった。

「二人とも、よく無事で」

「はい。遅くなって申し訳ありません」

 深々と頭を垂れる少女の背後を見て、ヒースは首を傾げた。

「カイルは一緒ではなかったのですか?」

「それが……」

 あれから二人の闘いは一体どうなったのだろうか。不安と心配に表情を曇らせながら、セフィアーナは手短に説明した。

「──ガレイド・エシル……そのような名は聞いたことがありませんが、《光道騎士団》の者ならば油断がなりませんね」

「カイルにもしものことがあったら……」

「ふむ、どうしたものか……」

 ヒースは流れ落ちる滝を見つめながら、軽く顎をつまんだ。

 もしカイルが闘いに勝利していたら、きっとここへやって来るだろう。下手に動いては行き違いになる。もし敗れていたなら――おそらく生命はない。万一、取り調べのために《光道騎士団》の陣営に連行されていたとしても、助けようがなかった。アーバン領主のもとへ使いに出した者たちが戻るには、まだ数日かかるはずである。

「……ご存知のとおり、カイルは私が警備隊に入れようとした男です。彼を信じて、もう少しここで待ちましょう」

 目下、辿り着いていないのは、カイルだけだった。セレイラの者は、八人中不幸にも三人が追っ手の手に掛かったということが既に知れていた。

「オレの、せいだ……」

 ラスティンが歪めた顔を俯けた時、突然、目の前の水の窓布が裂けた。一同が目を見開いて立ち尽くす中、滝の水はまさに窓布が開けられるように流れ落ちる場所を左右の端へと寄せていく。

「何故急に流れが変わった……?」

 ヒースの呟きに、誰もがぽたぽたと雫しか落ちなくなってしまった頭上を見上げた。と、その時、邪に風を切る音がし、警備隊のひとりが短い叫びとともに地面に転がった。見れば、その眉間には深々と矢が刺さっている。息を呑んだ面々が振り返って目にしたのは、滝壺を囲む、数十もの黒々とした騎影だった。

「……またやってくれたらしい」

 姉弟が到着した途端に再び事が動き出した。ヒースの憮然とした声に、ラスティンはもはや声も出なかった。漆黒の威圧的な空気を吹き付けてくる《光道騎士団》の様子は、あまりにも不気味だった。

「大人しく《太陽神の巫女》を渡すのだ! さすれば、生命だけは助けてやろう!」

 もはや外界とを遮るものがなくなった彼らの耳を、《光道騎士団》の部隊の長の声が打つ。

「何が『命だけは』だ。殺生狂いのエセ神官どもが」

 警備隊のひとりが吐き捨てるように言い、数を減らした仲間たちが強く頷く。セフィアーナは思わず外の闇に向かって叫んでいた。

「待ってください! 誤解です! この方たちが私をさらったのではなく、私がこの方たちに付いてきたのです!」

 すると、再び《光道騎士団》側から声が上がった。

「《太陽神の巫女》、私の名はブレイトン・ヤーグル! 貴女が脅されているのはわかっております! 必ずお助け申し上げます!」

「ですから、誤解――」

「何を言っても無駄ですよ」

 ヒースに遮られ、セフィアーナは頭を抱えた。

「私が大人しく彼らのところへ行けば……」

 大きく吐息する少女に、しかし、ヒースは厳しい面持ちで頭を振った。

「何をおっしゃいます。奴らの言葉を、それもこんな状況で信じろと? 貴女が奴らのところに辿り着いた瞬間に、我々の生命は終わりです。今や貴女は我々の人質なのですから」

「でも……じゃあ、どうしたら……」

 今度はヒースが溜め息を吐いた。彼は一同を見回すと、首を竦めて小さく笑った。

「……どうせ死ぬなら、正体を明かしてから死ぬか」

 そして、一同が立ち尽くしている中、最も外が見渡せる滝の中央部に立って叫ぶ。

「おぬし、槍使いのブレイトン・ヤーグルであろう!?」

 その呼びかけに、《光道騎士団》の陣営が一瞬、さらに深い沈黙に覆われた。

「……貴様、何者だ!?」

 今は身に帯びていない得物を言い当てられ、ブレイトン・ヤーグルの声は不審げだった。

「この声を聞き忘れたか! セレイラ警備隊のヒースだ!」

「ヒース……? ――ヒース=ガルド!?」

「そうだ! 信じられぬというなら、ここまで顔を確かめに来たらどうだ!? 巫女殿を渡すにしても、彼女ひとりでは道が悪くてそっちまで行けぬぞ!」

 すると、しばらくの沈黙の後、一部の闇が切り取られ、こちらに向かってくるのが見えた。ほくそ笑むヒースに、ラスティンが噛みつく。

「おい、どういうつもりだよ!?」

 姉を渡すなど、ラスティンには考えられないことだった。天然の要害に居るからこそ、未だに何とか息ができているのだ。少年としては、むやみに敵を近付けたくなかった。

「確かに貴様はヒース=ガルド。何故ここに居る?」

 三人の部下とともにやって来たブレイトン・ヤーグルは、落ち着き払った無表情でそう言った。

「その質問、そのまま返してやろう。なぜ《光道騎士団》がこんな場所にいる?」

 意地悪く言うヒースに、ブレイトン・ヤーグルはあっさりと話題を打ち切った。

「《太陽神の巫女》を返してもらおう」

「誰も『返す』とは言ってない。まさかその為に滝まで堰き止めるとは」

 あくまで揚げ足取りを続けるセレイラ警備隊の副長に、ブレイトン・ヤーグルはわずかに口の端をもたげた。

「我々ではない。きっと神の御業に相違ない。《太陽神の巫女》をさらった貴様ら背信者が逃げおおせるのを、神がお許しにならなかったのだ。いいのか? このままでは死人が増えるだけだぞ」

 滝が割れたのが、ただの偶然だったというのか。ヒースは憮然として内心で溜め息を吐いた。

「……せめて餓死するまで待ってくれ」

「セレイラ警備隊ともあろう者が餓死とは哀れな」

「同情するなら逃げる暇をくれ。だいたい、我らが餓死するまでに、おぬしにもやらねばならぬことがあろう。上官にセレイラ警備隊が来ていると報告しなくていいのか」

「無論、するとも」

 ここで、ブレイトン・ヤーグルは再び陰惨に笑った。

「時間稼ぎをしたいのだろうが、そうはさせぬぞ。《太陽神の巫女》を返せ。そうすれば、全員の生命を保証してやろう」

 それを聞いたヒースは、大仰に肩を竦めて見せた。

「『連行する間は』という限定条件が抜けているぞ」

 ヒースを相手にしては埒が明かないと思ったのか、ブレイトン・ヤーグルはセフィアーナに視線を転じた。

「《太陽神の巫女》。今やこの者たちは完全に神から見放されました。いかなる恐れも抱く必要はありません。さあ、我々の陣頭にお戻りください」

 しかし、その言葉はかえってセフィアーナに《光道騎士団》に対する不審感を抱かせた。

「神は誰をも――どんなに罪深い人間でも、決してお見捨てにはなりません」

「《太陽神の巫女》?」

 少女の強い語調に、その場に居た誰もが目を見張った。しかし、彼女はそれにかまわず言を次いだ。

「そのように私が――《太陽神の巫女》が大切ならば、なぜアルヴァロス様がお迎えに来ては下さらないのです?」

「アルヴァロス様は本陣で貴女様のお帰りをお待ちしております」

「私、アルヴァロス様がいらっしゃらないのでしたら、戻りません」

「何と言うことを! アルヴァロス様はお忙しい中、貴女様のご不在に御心を痛めておいでですのに。それに、それは我々が信用できないということですか?」

 必死で食い下がるブレイトン・ヤーグルに、セフィアーナは止めを刺した。

「そうです。……私も残念です」

 これにはブレイトン・ヤーグルも返す言葉がなかった。相手が高名な《太陽神の巫女》だけに、手荒な真似もできない。

「……ひとたびは引きましょう。しかし、二度はありませんよ」

 怒りのこもった言葉と視線でセフィアーナを見据えると、ブレイトン・ヤーグルは踵を返した。しかし、彼が再びこの場を訪れることはなかった。彼と部下たちが歩き出そうとした瞬間、再び滝の流れが変わったのだ。四人が立っていた小径の入口へ大量の水塊が落下し、彼らは声を発する間もなく滝壺の方へと押し流されてしまった。

「一体どうしたというのだ……」

 この数日、雨という雨は降っていなかった。なぜ流れが急に、それも何度も変わるのか。その答えは、やはり上方から降ってきた。

「武器を収めろ! 我々はセレイラ警備隊である! おまえたちは完全に包囲されている!」

 聞き覚えのない声にセフィアーナが崖の上を見ると、そこにはひとりの男が勇ましく立っていた。かざす松明に照らされた顔は角ばっており、年齢は四十代半ばほど、髪にも短い髭にも多少白いものが混じっている。

「ベスウェル!?」

 ヒースが驚きの声を上げるのと、暗い森の中を灯火の鎖が繋がっていくのが同時だった。その数、およそ百。その明かりに照らし出された《光道騎士団》は、今にも滝をめがけて矢を放とうとしていた。

《光道騎士団》がゆっくりと、しかし次々と弓を下ろしていく。その動作が終わるのを見届けると、ベスウェルと呼ばれた男は、足場の良い場所を選んで滝の下まで降りてきた。

「おまえがどうして……」

 目を瞬かせている副長に、ベスウェルは一度敬礼して答えた。

「総督閣下の御命令で、副長を追ってきたんです。上の川を渡っている時に、副長と向こうのやり取りを殿しんがりの者が聞きつけまして。すれ違いにならなくて良かった」

 それを聞いて、ヒースは不審げに顔をしかめた。

「それではまさか、滝の流れを変えたのはおまえたちか?」

「馬が渡りにくい場所がありまして、岩を転がしたのです。そんなに変わりましたか?」

 あっけらかんと答える年長の部下に、ヒースは何とも言えない表情を浮かべた。

「そのせいでベインが死に、おかげで私たちは助かった」

 皆の視線が、地面に仰向けに寝かされた仲間に注がれる。それを目にしたベスウェルが唇を噛みしめ、そんな彼の肩を、ヒースは軽く叩いた。

「仕方がなかったのだ。おまえのせいではない。すべては私の責任だ」

 その言葉は、半ば蚊帳の外になっていたラスティンの耳と心に痛かった。

「さて、これでまともな交渉が多少はできるというものだ」

 ヒースは再び滝の中央に立つと、ブレイトン・ヤーグルらを水から引き上げている《光道騎士団》に向かって、休戦と本陣への誘導を承諾させた。



 幾度剣を打ち鳴らしたかは、もはや定かではなかった。日が沈んだ森の中で見えるのは、既に相手の輪郭だけとなっていた。

「貴様……いったい何者だ?」

 先に口を開いたのは、ガレイド・エシルの方だった。いくら彼の短剣を叩き落としたと言っても、眼前の青年の強さは尋常ではなかった。ただの放牧民ではない。

「ただの農民だと言ったら、あんたの自尊心が傷つくかな?」

 笑みの滲んだ青年の声を、ガレイド・エシルは笑って一蹴した。別に素性を探ったからといって、弱気になっているわけではないのだ。

「そんなはずはあるまい。貴様の剣は、私と同じ、人を殺めるものだ」

 その言葉に、カイルの冴えた碧玉の瞳が細められる。しかし、それは暗闇でガレイド・エシルには見えなかった。

「オレもあんたに訊きたいことがある」

 剣の柄を握り直すと、カイルはいかなる飾りをも付けず、その疑問を放った。

「『フラエージュ』とはいったい何だ?」

 その言葉に、わずかだがガレイド・エシルの動きが止まった。一瞬のことだったが、カイルにはそれで十分だった。耳障りな金属音とともにガレイド・エシルの剣が手から飛ばされて宙を舞い、その腕からは鮮血が吹き出した。

「『フラエージュ』だ。セフィのことを、そう呼んでいただろう?」

 愕然としているガレイド・エシルの胸倉を掴むと、カイルはその喉元に剣を突きつけた。その瞳が、凍てつくような冷たさを孕んでいる。ガレイド・エシルは目を細くすると、内心の舌打ちを思わず外に漏らしてしまった。そして。

「殺す!」

 軍靴の底から抜き出された短剣は、しかし、カイルには届かなかった。勝ったと間合いを詰めた直後が一番危険であることは、カイルが盗賊時代に身をもって体験したことだった。

 一瞬早く退いた青年を、ガレイド・エシルは追おうとはしなかった。剣を失ったことと、利き手に傷を負ったことは、眼前の青年を相手にする上で、彼にとっては致命的だった。特に、腕の傷は軽視し得るものではなかった。

 次の瞬間、ガレイド・エシルはカイルの思いもよらぬ行動を取った。彼に思いきり背を見せながら逃げ出したのだ。あまりの潔さに、カイルは思わず追いかけるのを忘れた。そのせいで、手に入るはずだった馬もみすみす逃してしまった。

「……どうやら核心を突いてしまったらしい」

 そのことがいずれ吉と出るか凶と出るか、今のカイルにはわからない。青年は小さく吐息すると、剣を鞘にしまった。しばらく姉弟たちが無事に滝へ辿り着いたかに思いを馳せると、しかし、その方角とは反対に向かって歩き出した。



 カイルが向かったのは、ヴォドクロスの祭殿だった。自由に動ける今の間に、セフィアーナの忘れ物を取りに行こうと思ったのだ。途中、出くわした《光道騎士団》の聖騎士から制服と馬を拝借し、隠し井戸に配されていた見張り番を騙すのに成功すると、少女が軟禁されていた部屋へはすぐだった。幸い室内に人はおらず、カイルは寝台の足元にまとめてあったセフィアーナの荷物を外套の内側に背負い込むと、再び秘密の通路に取って返した。が、床にしゃがみこんだところで、その考えを改める。

 このままセフィアーナのもとへ戻っても、月光殿管理官の安否が知れない以上、彼女はエルミシュワの地を離れようとはしないだろう。《光道騎士団》が《太陽神の巫女》の誘拐で浮き足立っている今なら、祭殿内は多少動きやすいかもしれない。

 カイルはすぐに立ち上がると、踵を返し、部屋の扉から暗い廊下に出た。

「ネルに祭殿内の見取り図も描かせておくべきだったな……」

 ひとりごちると、灯火の数の少なさから祭殿の奥だと思われる方へ歩を進める。その先にあったのは、ひと目でそれとわかる独房だった。セフィアーナに見咎められなければ、ラスティンが投獄されるはずだった場所である。カイルは慎重に順々と見て回ったが、どこも蛻の殻だった。

「セフィと管理官をこんな近くに置くはずもないか」

 そして角を曲がり、最後の独房へ向かったが、そこはこれまでと少し様子が違った。正面の壁にふたつの松明が灯され、その間の神旗を余すところなく照らしている。狭い室内の中央には白い布で覆われた長い台が置かれ、その上には漆黒の布でくるまれた『何か』が載っていた。

 見覚えのあるそれにカイルは一瞬、息を呑んだ。周囲を見回し、人気がないのを確認すると、鉄格子の音を鳴らさないよう注意しながら、室内に滑り込む。

 改めて見ても、やはりその漆黒のものは、人型をしていた。ただ、聖都で見たものと異なるのは、その生地に堂々と《光道騎士団》の紋章が刺繍されていたことである。

「村人とやり合った時に、死人でも出したのか……?」

 日が暮れるまで時間を潰した間に、セフィアーナから一通りのことは聞いていた。そこで耳にした集会所の凄惨な様子からして、《光道騎士団》側に犠牲者が出ていてもおかしくはない。わざわざこんな場所に祭壇をつくっているところを見ると、死んだのは上層部の者なのだろうか。カイルは思い切って漆黒の布を剥ぐってみることにした。しかし、そこに横たわっていたものは、予想したのと随分様子が違った。

「………?」

 その者は、無惨に裂けた麻の服を纏い、見た目にはネルと同じエルミシュワの民のように見えた。身体中に刻まれた傷跡の数々は、決して戦いによるものではなく、拷問を受けたとしか思えない。口の周囲と着衣の胸元に血が付着しており、この者が最期、血を吐いたことを窺わせた。その時、またしても嫌な予感が青年の胸をよぎった。

「血を吐いた……?」

 おそるおそる手を伸ばすと、カイルは死人の顎を掴み、口を開かせた。

 果たして、そこに舌はなかった。

「どういうことだ……」

 舌のない男。思い当たるのは、エルミシュワの民の残党として捕まり、処刑の前にヴォドクロス崇拝を認め、自ら舌を噛み切って果てたという人物の話である。そんな男の、《光道騎士団》にとっては敵以外の何者でもない輩の死体が、なぜ《光道騎士団》の旗に丁寧にくるまれ、この場所に安置されているのか。

 愕然としながらも色々と考えを巡らせていたカイルの耳に、ふいに靴音が鳴り響くのが聞こえた。それも、ひとつやふたつではない。それは間違いなく彼のいる独房を目指しており、カイルは慌てて隠れる場所を探した。が、狭い独房である。隠れる場所は、ただひとつしかない。青年は手早く死体をもとの状態に戻すと、その下の台の中に身を隠した。

 しばらくして独房にやって来たのは、靴音から人数は五人と知れた。

「アルヴァロス様、こちらです」

 その名を聞いて、カイルは目を見開いた。早鐘を打つ心臓を落ち着かせ、一言一句聞き漏らさぬよう、いっそう耳を研ぎ澄ませる。そのアルヴァロスと思われる人物が、台の前に立った。

「……ハイデル・バンヒ、この偉大なる殉教者よ。汝の死を以て、汝の《複名》を廃す」

 それは葬儀の弔辞であったのだろうが、それがすべての疑問を解くこととなった。カイルは全身から血の気が引くのを感じた。

 ――すべて、狂言だったのだ。

 頭上の死体が生命を賭けてヴォドクロス崇拝を認めたのも、ひいては邪教徒の排除と太陽神の民の救出を掲げて《光道騎士団》がエルミシュワへやって来たのも。では、いったい何のために?

 ハイデル・バンヒなる聖騎士に自害させたのは、おそらくセフィアーナにエルミシュワの民が邪教徒であることを信じさせるためだったのだろう。村人と接触できなかった彼女の疑問を晴らすために。そもそも村人と接触させなかったのは、邪教徒でないことを知られないようにするためだったに違いない。つまり、《光道騎士団》、そしてそれを派遣した《月影殿》の管理官は、元より高原の民が邪教徒ではないと知っていたのだ。

(――ということは……)

 カイルは、《月光殿》の管理官を心配していたセフィアーナの顔を思い浮かべた。

(そもそもの派兵が嘘なら、その理由の月光殿管理官の拉致も嘘。しかし、当の月光殿管理官の姿はどこにもない。――読めたぞ)

 以前、村長の使いで聖都を訪れた時、セレイラ総督のディオルトが《月影殿》関係の仕事が管理官の長期不在で滞っていると言っていたことがある。が、滞っているのは執務的なことだけで、神殿内の秩序は乱れるどころか厳格に過ぎるほどに保たれ、また《光道騎士団》も警備隊が眉根を寄せるほど力を蓄えている、と。噂では、月影殿管理官が滞在した先の神殿でも、神官たちの様子が狂信的に変貌したという。

 これまで《月光殿》の管理官にカイルが直接会う機会はなかったが、総督やセフィアーナの話を聞いた限りでも、外交に明るく、聡明な人物であることは伺えた。王都との力関係を重視し、和を保とうとしていたという。

(《月光殿》と《月影殿》の管理官は、水と油だ。相容れず、先に《月影殿》がついを潰しにかかったか……)

 その時、再びアルヴァロスの声がし、カイルは我に返った。

「巫女はまだ見付からぬのか」

「はっ。目下、捜索中です」

「あの者に関しては、デドラス様のお考えが裏目に出たようだ。残党とともに在れば、真実が知れる。ハイデルの死を――ひいては、エルミシュワ全土の民たちの死を無駄にしてはならぬ」

「御意」

 引きすぎた血が、まるで津波となってカイルの全身を駆け巡った。

(セフィが、危ない……!)

 アルヴァロスは間違いなく「エルミシュワ全土の民たちの死」と言った。殺されたのは、この村の者だけではなかったのだ。やる時は徹底的にやる。ならば、もしもの時は、セフィアーナ――《太陽神の巫女》の生命を奪うのにも躊躇いはないはずである。一刻も早く、少女のもとに戻らなければ。そう思った時、新たにやって来た靴音が急を報せた。

「アルヴァロス様に使者が参ってございます」

「聖都からか」

「いえ。アーバン領主ヴィルデン=イーグマン殿と、セレイラ警備隊ヒース=ガルド殿より」

 カイルは安堵で思わず吐息を震わせたが、外の空気が一瞬にして剣呑なものとなったことに勿論、気付いていた。

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