第九章 血塗られた途へ --- 8

 宰相ウォーレイの暗殺、その嫡子イスフェルの投獄と、衝撃的な事件が起きてから三日後、未だ騒然としている王都の一角で、故人の葬儀がしめやかに行われた。

 もともと人々に好かれ慕われていたウォーレイだが、国王にして親友であるイージェントが参列者の先頭に立ったことから、親族だけで挙げるはずだった式は、国葬並の規模となった。近衛兵団長トルーゼは、国王の参列を理由に近衛兵団を引き連れ、亡き友のために天に剣を掲げた。天もまた故人を惜しむように霧雨を降らせたが、訪れて白薔薇を捧げる人々は後を絶たなかった。――しかし、無論、その中に愛息イスフェルの姿はない。

 事件の起きた夜、王弟妃ルアンダはイスフェルを父殺しとも糾弾したが、参列者の中で誰ひとりとしてそれを信じる者はなかった。宰相派の人間でなくとも、イスフェルがそのようなことをする人間でないことは、常識のように知られていたのだった。さらに、イスフェルの薬草園に根付いたシオクラスは、ただの一枚も葉が不審にちぎられた痕跡はなく、彼について父殺しの罪を問う声はほとんど皆無だった。

「エンリル。さあ……最後のお別れをなさい」

 幼い妹を棺の前に押し出す母の横顔を、シェラードは唇を引き結びながら見つめた。

 事件の夜から今朝まで、父の遺体はオルヴァの屋敷に安置されていた。通常、貴族の死者は、葬儀まで神殿に置かれて身を浄められる。しかし、父の場合、母のたっての希望で、王室侍医長の死亡確認の後、屋敷に連れて帰られたのだ。そして、彼は見てしまった。深夜、子どもたちを遠ざけた母が、父に寄り縋り、声を上げて泣いているのを。それまで、彼は母親が感情を露わにするところを見たことがなかった。

 彼自身、久しぶりに実家で迎えた夜は、かつてないほど長いものとなった。

(どうしてこんなことに……)

 兄イスフェルの、どこか狂ったような笑みが耳に蘇る。

(オレは、兄上を止められなかった……。兄上には、オレの声は届かなかった……)

 もし止められていたら、イスフェルは反逆者の汚名を浴びることなく、父殺しの汚名などははねのけて、今、シェラードの横に立ち、彼に課せられた荷をほぼすべてを引き受けてくれていたはずである。父や兄の力になりたいと学問に武道に精進してきた彼だったが、どこかに次男という気楽さがあったことも否めない。サリード家に対する処分はまだ決まっていないが、反逆者の汚名を負った以上、家名断絶は覚悟の上である。しかし、それまでのわずかな間にさえ、彼は重責で押し潰されてしまいそうだった。

(兄上……)

 呼びかけたところで応えてくれるはずもない兄は今、王宮の北にある中央裁判所の地下牢にいる。



「見よ。あの夜、そなたからもらった真珠に鎖を付けさせたのだ」

 そう言って、ルアンダは深紅の天鵞絨が張られた箱から真珠の首飾りを嬉しそうに摘まみ上げた。そんな彼女を椅子に座って見上げているのは、カウリス兄弟とオーディス=マルドーだった。彼らの足下は一様に濡れている。宰相の葬儀の帰りだった。

「それは……エルドレン殿の剣舞の折りの……?」

 目を見張るオーディスの横で、カウリス家の次男トールイドが笑みを浮かべる。

「最高の煌めきを放つ真珠ですね」

「さも有りなん」

 満足げに鏡へ向かうルアンダを追って、エルドレンが席を立った。

「お付け致しましょう」

 ルアンダは鏡越しにエルドレンを見ると、ふっと笑った。

「そなたは女の扱いが巧いな」

「……褒め言葉として受け取っておきましょう」

 剛の剣を振るう手指は、いとも簡単に小さな留め具を繋いだ。ルアンダは胸元に真っ直ぐ真珠をなぞると、再び笑みを浮かべた。

「十分に褒め言葉のつもりだが?」

「――よくお似合いです」

「やはり、巧い」

 それからルアンダは席に戻ると、紅茶の杯に手を伸ばした。

「さて、問題は、陛下がどういった処罰を宰相家に下すかじゃな」

「古今東西、王家に刃を向けて助かった者はおりません。イスフェル殿の極刑は当然でしょうね」

 王弟の息子に剣を向けた戦士が処刑されたばかりである。最も国王に近しい血族に剣を向けた者が助かるはずもない。しかも、サリード家は屈指の大貴族である。例外を許せば、他の貴族たちに示しが付かなくなる。

「しかし……家名断絶とまでは行かぬかもしれません」

 エルドレンの言葉に、ルアンダは不機嫌そうに顔をしかめた。

「亡き宰相には大功とやらがあるゆえな。それとで相殺というところか」

「おそらく……」

「フン。まあよい。こちらとしては、予定通りに事が運んだのだからな」

 最初から狙いは宰相親子だった。家名断絶まで果たせれば万々歳だが、そうならなくとも、反逆者の一族が日の目を見ることは最早ない。

「これで陛下は頼る者がいなくなった」

 宰相は『国王の影』と称されるほどの人物だった。国王はそんな彼を失ったのだ。

「して、ルアンダ様、次は……」

 身を乗り出すトールイドに、ルアンダはゆっくりと口元に笑みを滲ませた。

「次は既に始まっておる」

 そして、ちらりとオーディスを見遣る。それを受けて、オーディスも笑みを浮かべた。

 自分たちの知らぬところで事態が動いていたことに、エルドレンは内心で眉根を寄せた。王子を得た国王に、王弟妃という彼女に裏向きでも従う者は、今や数少なである。その貴重な人材の中で、大貴族のカウリス家はルアンダが逸してはならない存在のはずである。それを無視して事を運ぶとは、彼女も存外、食えぬ人物ということか。

「だが、今回、そなたら兄弟の出番はない。しばらくはゆっくりしておれ。しばらくは、な」

 ルアンダの意味深げな言葉に、エルドレンはただ頭を垂れた。



「サイファエールの方々はお帰りになられましたか」

 そう発された言葉はカルマイヤ語で、発したのは恰幅のよい髭を長く生やした中年の男だった。カルマイヤの在サイファエール大使ヴォズロンである。窓辺でエルドレンたちの馬車が遠離るのを見ていたルアンダは、ヴォズロンの後ろに立っていた神官服の青年を見て、少し表情を和らげた。

「戻ったか、ガルドリュース・ゼアン。久しぶりの里帰りであっただろうに、悲しいことであったな」

 すると、ガルドリュース・ゼアンと呼ばれた青年は、深々と一礼した。

「母は私がカルマイヤを離れるずっと以前より寝たきりでしたから……。ルアンダ様には御厚情を賜り、ありがとうございました」

 再び窓辺から寝椅子に戻ったルアンダは、二人にも椅子を勧めた。座るなり、ヴォズロンが口を開いた。

「ガルドリュース・ゼアンは帰りの道中で今回のことを聞いたそうですぞ。往来は、それは大変な騒ぎだったとか」

「そうか」

 ルアンダは可笑しそうに笑うと、再びガルドリュース・ゼアンを見遣った。

「それで、我が懐かしき王宮の様子は如何であった?」

 それに答える青年神官の面持ちは、複雑なものだった。

「一度だけ王宮へお伺いする機会がございましたが、エオス様が亡くなられて……ようやくセイゼルド王を中心にまつりごとが行われ始めたようです」

 すると突如、ルアンダが忌々しげな表情で吐き捨てた。

「エオス、あの古狸! できればこの手で殺してやりたかった……!」

 エオスとはカルマイヤの大貴族で、宮廷において王族以上の権力を振りかざし、数十年もの間、すべてを思い通りにした男だった。ルアンダがサイファエールへ嫁ぐことになったのも、エオスが当時のサイファエール王に彼女の名を勝手に告げたせいである。

 鬼のような形相を浮かべ拳を握りしめるルアンダに、ヴォズロンとガルドリュース・ゼアンは思わず顔を見合わせた。

「……お申し付け通り、ルクスリアン王子の墓所に花を供えて参りました」

 ガルドリュース・ゼアンが遠慮がちに言うと、その名を聞いた途端、ルアンダの表情から鬼の仮面が剥がれ落ちた。

「……すまぬな」

 ルアンダの礼にガルドリュース・ゼアンは慌てて首を振ると、懐から書状を取り出し、彼女に向かって差し出した。

「カノッサ殿からお預かりして参りました。墓所で偶然お会いして……。花をいつも供えてくださっていたようです。ルアンダ様のことをとても案じていらっしゃいました」

 ルアンダはそれを受け取ると、読み終えて深く吐息した。

「カノッサは、最後まで私たちの味方だったからな……」

「立派な御方ですのに、今の宮廷からは疎まれておいでの御様子で、少しお寂しそうでした」

 ルアンダは、その昔、自分たちを守ろうと立ち回ってくれた書官長の顔を思い浮かべた。

「セイゼルドも恥知らずな男よ。誰のおかげで国王の座に着けたというのだ」

 無言のまま、ルアンダはしばらく宙を見つめていたが、ふいにふっと笑った。

「……よい、カノッサをこのままにはせぬ」

「ルアンダ様?」

「私はカルマイヤを発つ時に誓ったのだ。もはや我慢はせぬ、欲したものは必ず手に入れてやる、と――」

 訝しげな二人に向かって、ルアンダはこれ以上ないくらいに微笑んだ。

「フフ、よいことを思い付いたぞ。サイファエールとカルマイヤを同時に手に入れる方法をな」



 宰相にして親友ウォーレイの葬儀の翌朝、目覚めた国王イージェントは、しばらくの間、横になったまま天蓋を見上げていた。

(……今日より、本当に独りなのだ……)

 この日から、また通常の政務に戻る。今回の事件に関しては、四日前、捜査を将軍イルビスに一任してあった。王都に駐屯する将軍の中で最も厳格な性格の彼は、その昔、刑務官を務めていたこともあるという逸材だった。将軍が暗殺事件の捜査の指揮を執るのは異例のことであったが、それだけ国王が今回の事件に厳しく当たっているということが窺えた。

(イルビスならきっと犯人を捕まえてくれるだろう……。余の方は、まずはウォーレイの後任人事を急がねばなるまいな。それから……)

 イージェントは顔をしかめると、天色の瞳をぎゅっと瞑った。

(イスフェルの処罰を下さねばならぬ……)

 数日前、彼に膝掛けを掛けてくれた青年は現在、ふたつの罪に問われている。すなわち、実父殺しと大逆である。実父殺しに関しては、たとえ犯人が捕まらず、イスフェルが毒を塗ったのではないという証拠がなくても、動機がないことを盾に弁護もしてやれるが、今ひとつ、大逆に関してはそうはいかない。剣舞祭の観覧席にいたのは、サイファエールの名のある貴族や騎士たちばかりだった。イスフェルはそんな彼らの前で王弟に剣を向けたのだ。最早それだけで法律は青年に死罪を突き付けており、イージェントには庇いようがなかった。

 ゆっくりと身体を起こした彼を、またいつものように目眩と痺れが襲う。ウォーレイを亡くしてからは、いっそう酷くなったように感じられた。

(情けない……。だが、今、倒れるわけにはいかぬ。今、倒れるわけには……)

 ようやく寝台から足を降ろした時、侍従長が寝室に入ってきた。

「陛下、おはようございます」

「うむ……」

「御気分はいかがですか? このところ、お顔の色が優れぬ御様子で、心配でございます」

 そう言うミンタムも顔に疲労の色を残していた。

「何を言うか、ミンタム。余の顔色が優れぬのは年中だ」

 自分の冗談に笑ってみせると、イージェントは着替えを済ませ、朝食を取るために部屋を出た。

 国王夫妻は結婚以来、朝食を一緒に取ることが日課となっている。イージェントの両親はそのようなことはなかったが、メルジアの両親が朝と夜は必ず共に食事をしていたということで、それに倣ったのだ。公務の都合上、夕食は別にすることもあったが、朝食に関しては戦時を除いてなかった。

 夫婦の食卓は、風通しの良い露台に設けられている。全面硝子張りとなっており、晴れた日は朝の日差しが心地よいが、この日は前日に引き続き、雨が降っていた。

「おはようございます、陛下」

「おはようございます」

 イージェントが露台に行くと、先にそこに居た女性が二人、椅子から立ち上がり、彼に向かって頭を垂れた。そのうちのひとりを見て、イージェントは目を見開いた。

「レイミア……どうしたのだ」

 側室のレイミアが朝食の席に来たのは初めてだった。

「今日は、私とレイミア殿から、陛下にお願いがあるのです」

 王妃メルジアの真摯な眼差しに、イージェントは小さく吐息すると、席に着いた。

「……イスフェルのことか」

「御意」

 そこで、思いつめた表情を浮かべていたレイミアが、おそるおそる口を開く。

「側室の私がまつりごとに口を出すべきでないことは、王宮へ来て最初に教わったことでもあり、十分に承知しております。けれど、今回は、今回だけは、陛下にお願いしたいのでございます。どうか、どうか、イスフェル殿のお命をお助け下さいませ……!」

 テフラ村でイスフェルの迎えを受けた時、レイミアはまた親子をバラバラにされるのだと彼を拒絶した。しかし、青年は最初からひとかたならぬ愛情をもって子どもたちに接してくれた。生命を賭けて自分たちを守ると約束もしてくれた。そんな彼がいなくなってしまったら、子どもたちはこの王宮で誰を頼りに生きていけばいいのか。自分も国王も、永遠に彼らのそばに居られるわけではないのだ。

「陛下、私からもお願いします」

 額を円卓に付けるほどに伏したレイミアの横で、メルジアも沈痛な表情を浮かべていた。

「確かに法は極刑を示しておりますが、もとはといえば、何者かがウォーレイ殿を死に追いやったのが原因。一刻も早く犯人を捕まえて、宰相補佐官には特赦を用いるわけには参りませぬか」

 紅茶の杯は、早々に始まった深刻な話題が侍従たちを遠ざけ、空のままだった。イージェントはその底を見つめたまま、静かに口を開いた。

「そなたたちは、国王たる余に、私情に溺れて法を曲げよと言うのか?」

「けれど、補佐官は、サイファエールの将来に欠かせぬ人物でございます。長年に渡る宰相家の忠義と、先のカイザールでのあの者自身の戦功で、どうにかなりませぬのか? 宰相家を失うということは、言い換えるなら、攻城戦でいきなり内堀まで埋められてしまうようなもの。敵の狙いはまさにそこです。陛下のお力を削ぎ、この次は――」

 しかし、メルジアはそれ以上、言葉を継ぐことができなかった。次に敵が狙ってくるのは、夫イージェントの身命に違いなかったからだ。

「……陛下は、トランス殿の言葉をお信じになるのですか?」

 いきなり核心を突いたメルジアの言にレイミアは息を呑んだ。夫にゆっくりと視線を戻すと、案の定、彼の表情はひどく強張っていた。

「……そなた、何が言いたいのだ」

 四日前の夜、イージェントは再び王族会議を持った。メルジアの言う「トランス殿の言葉」とは、その席で、彼がシオクラスを巡る疑惑に対し、きっぱりと否定した件を指していた。

「シオクラスという薬草は、非常に貴重なものだそうではありませぬか。それをわざわざ補佐官に贈ったのは何故なのです?」

「同じ薬草を愛する人間としての親切心だと。そなたも聞いていたであろう」

「そのような言い分をお信じに!? トランス殿はずっとウォーレイ殿を避けていたではありませんか。なぜそんな相手の息子に、よりにもよって事件の直前に!」

「メルジア、いい加減にせぬか。トランスは余の弟だ。弟を侮辱するのは、たとえ妻のそなたであっても許さぬ。親友や親友の息子の生命は大切だが、弟の命もまた大切だ」

 メルジアには、イージェントの考えていることがわからなかった。宰相家がなくなれば、困るのは夫自身、そして彼の息子たちである。それなのに、彼はまるでイスフェルを助ける気がないように見えた。

 その時、イージェントが硝子を伝う雨の滴を見つめながら、ぽつりと言った。

「……昨日の葬儀で、ルシエン殿に言われたことがある――」

 漆黒の薄布の向こうで、親友が愛した女性は静かに微笑んでいた。

『夫が亡くなったことと、息子が陛下の弟君に剣を向けましたことは、まったく別の話でございます。どうか、御英断を下されますよう……』

 あまりにも壮絶なルシエンの覚悟を聞いて、レイミアは堪えきれずに顔を覆い、メルジアは双眸に涙を溜めた。

「ルシエン殿。何という……」

「……さすが宰相ウォーレイの妻。いや、ルシエン殿あってこそのウォーレイだったのかもしれぬな……」

 様々な想いが胸中で交錯する。そのひとつひとつがあまりにも大きく、今はとても整理が付かなかった。

 と、その時、どこからか喧噪の声が聞こえてきた。

「何事か」

 戸口に立っていた侍従長に問うた時、先だって様子を見に行っていた侍従が丁度戻ってきた。その者から事情を聞く侍従長の顔が一瞬、困惑に歪む。

「陛下、どうも王子方がお部屋に鍵をかけ、立て籠もっておいでのようです。申し訳ございませぬ」

 侍従の長として不手際を詫びるミンタムに、イージェントは溜息を付きながら首を振った。

「そなたのせいではない。これは余の責任だ」

 結局、国王は朝食を口にしないまま、席を立った。



 王子たちの部屋の前の廊下では、双子侍従の声が響き渡っていた。

「ミール様、マリオ様。お願いです! どうかここを開けてください!」

 しかし、それに対するコートミールの剣幕はさらに凄まじかった。

「イヤだ! イスフェルを連れてきてくれるまで、ここは絶対に開けないからな!」

「ですから、それはできませぬと先程から……」

「なんでできないんだよ! イスフェルは何にも悪いことしてないじゃないか!」

 少年の純粋な反問に、サウスとクイルは苦渋の表情を浮かべた。彼らとて、今回の事件をとても受け止められていなかった。

「イスフェル殿は、王弟殿下に剣を向けられました。これは王家に対する反逆です」

 押し黙ってしまった双子に替わり、今度はカレサスが扉の前に立つ。

「……罪を犯した者は、それを償わなければなりません」

「じゃあ、イスフェルの父さんを殺したヤツは――叔父上はいつ罪をつぐなうのさ!」

「なっ何を! 何をおっしゃるのです!」

「だって、イスフェル、言ってたじゃないか! ナントカっていう毒、叔父上がイスフェルに渡して悪者にしようとしたんだろ! なんで叔父上は牢屋に入らないんだよ!」

 王子と同じ考えの者は、おそらく宮廷中にいることだろう。しかし、それは決して口にしてはならないことだった。

「ミール様! それ以上、おっしゃってはなりません!」

「うるさい! カレサスは誰の味方なんだよ! カレサスなんか大っきらいだ!」

 瞬間、扉の向こうで何かが割れる音がした。コートミールが花瓶か何かを投げつけたらしい。カレサスは眉間をつまむと、大きく息を吐き出した。

 王宮からイスフェルの姿が消えて既に四日が経つ。しかし、昨日まで、王子たちが侍従を閉め出すようなことはなかった。一夜の間に、少年たちの幼い心に、いったい何があったというのか。

 その時、侍従の様子を見かねたクレスティナがカレサスの横に立った。扉に手を当てて、中の二人に静かに話しかける。

「……ミール様、マリオ様。どうかここを開けてください」

「クレスティナも嫌いだ! みんなみんな、あっち行けえ!」

 コートミールの声はもはや涙声になっていた。その時、

「なんで……?」

 それまでほとんど言葉を発していなかったファンマリオの声が、小さく聞こえてきた。

「なんでみんな、イスフェルを助けてくれないの……? クレスティナも、ゼオラおじ上も、シダもセディスもユーセットも、みんなみんなイスフェルと仲が良かったじゃないか。なんでイスフェルを助けてくれないの……?」

 ファンマリオにも、コートミールにも、大人たちの行動は理解できなかった。あの夜、声が嗄れるまで助けを求めた父たちは皆、彼らから目を背けるだけだった。イスフェルに必要なのは、彼らのたった一言だったのに。

「イスフェル、父さんを殺されちゃったんだよ? ボクだって、父上を殺されたら、たとえ……たとえ神さまにだって剣を向けちゃうよ。みんなだって、きっとそうでしょ……?」

「マリオ様……」

 ファンマリオの言葉ひとつひとつが、矢となってクレスティナの心に突き立った。彼女は、イスフェルが十二歳の時から知っている。彼が仲間たちとともに夢を描いていく様子をずっと見守ってきたのだ。彼を助けられないことが、彼を失うことが、どれほど悔しいことか。しかし、それと同時に、決定的な失望がある。いくら若気の至りとはいえ、イスフェルは王家に仕える者として、最も愚かな行為を働いたのだ。簡単に許されていいはずなどない。

「お二人とも、よくお聞き下さい。王弟殿下がイスフェルに薬草を贈ったのは、イスフェルが大切な友だちの息子だからです。決して、イスフェルに罪をかぶせるためではありません」

「そんなのウソだ!」

「ウソではありません。王弟殿下とイスフェルの父上は、とても仲が宜しかったのです」

「じゃあ何で、叔父上は大切な友だちの息子を助けてくれないの?」

 コートミールがトランスを罪人扱いしたのがこの狭い廊下でまだ良かった。もし、文武百官の居並ぶ青の間でのことだったら、取り返しが付かなくなる。

「先程、カレサス殿が申し上げたとおりです。イスフェルは王弟殿下を勝手に犯人だと思いこみ、剣を向けたのです。王家の方々は、私たちにとっては親のようなもの。言いがかりで親を殺そうとした者が許されていいはずはありません。イスフェルもそのことは十分にわかっています」

 最後の言葉がずしりと響いたのか、ファンマリオは久しく無言だった。

「……じゃあ、ボクたちは、イスフェルのためになんにもできないの……? イスフェルはボクたちのために、豹と闘ってくれたよ……? 血をいっぱい流して……」

「そうさ。包帯ぐるぐる巻きだった。いろんなことも教えてくれたのに……」

 扉が閉まっていても、二人が梔色の頭を俯け、寄り添うように佇んでいるのが手に取るようにわかった。彼らがこれほどまでにあの青年を心の支えにしていたことを、今改めて思い知る。

 ふと、背後で風が動いた。振り返ると、そこに立っていたのは、国王イージェントだった。

「陛下……!」

 慌てて退いた彼女に小さく頷いて見せると、イージェントは前の者たちと同じように、扉の前に立った。

「二人とも、そんなところに閉じこもって、どうしたというのだ。皆が心配しているぞ」

 突然の父の声に、室内の二人は顔を見合わせた。しかし、彼らが今会いたいのは、イスフェルである。いくら大好きな父親が来たからといっても、扉を開けるわけにはいかなかった。

「父上……。王様の父上でも、イスフェルは助けられないの……?」

 受けるべくして受けた質問に、イージェントは内心で大きく息を吐いた。八歳の息子たちに、どう言えば理解してもらえるだろう?

「……法律で、そう決まっている」

「ホーリツ……?」

「サイファエールで暮らす者たちの、一番大切な約束事だ。約束は、守らなければならない。そなたらも知っているだろう?」

「一番、大切な約束……」

 ファンマリオが小さく反芻する。少年にとって最も大切な約束は、先日、イスフェルと交わしたものだった。しかし、法律とは、それよりも強い約束だというのか。

「二人とも、よく聞くのだ。そなたたちは、これからその法律を創っていく身となる」

「オレたちが……? 法律を創る……?」

 コートミールの声は、驚愕に満ちていた。未だ王子という身分が定着しきっていない彼らに、それは想像さえできないことだろう。

「法律とは本来、人々が安心して暮らしていけるように、人々を守るものだ。だからこそ、それが破られた時は、破った者に、それに見合った罰を与えなければならない。人々を守るために。だが、その法律が、余やそなたたちの気まぐれでころころ変わったら、人々は安心して暮らせるか? ミール、どう思う?」

 その時、コートミールはふとテフラ村のことを思い出した。村では長老の言うことが絶対だった。それだけに、長老が惚けて前日までとまるで違うことを言った時、村人たちはとても困ったものだった。時にはそのために村人同士が争ったこともあった。

「……ううん、暮らせない……」

「そうであろう? だから、余も法律を変えることは、できぬのだ……」

 父の決定的な言葉に、二人の小さな身体が震え始めた。

「じゃあ、イスフェルは……」

 ぶるぶると震える唇から、コートミールは必死で言葉を吐き出した。

「イスフェルは、死んじゃうの……?」

 大逆を犯した者は死罪――少年たちがその衝撃的な事実を知ったのは、昨夜のことだった。イスフェルを助けに行こうと部屋を抜け出した二人は、夜警の近衛兵たちの話を聞いてしまったのだ。

 侍従たちにしてみれば、三日三晩、イスフェルを案じ続けていた彼らに、そのあまりにも残酷な現実を告げられるはずもない。だからこそ、「イスフェルはどうなるのか」という問いには、言葉を濁していた。しかし、それが裏目に出た。

「もう、もう、このまま、会えないの……?」

 いつの間にか誰もいなくなった廊下で、イージェントは独り、幼い心が軋む音を聞いた。

「……余の力が足りぬばかりに、そなたたちをつらい目に遭わせてしまう……」

 彼が力無く膝を折った時、扉が小さな音を立てて開いた。その先には、既に涙で顔を濡らせた我が子が立ち並んでいた。

 互いに心の支えを失った親子は、ただ抱き合うことしかできなかった。



 翌日、イージェントは、サイファエールの重臣たちを、光の間と名付けられた大会議室に集めた。しかし、会議の前後はいつも陽気な彼らが、今日は物音ひとつ立てず、席に着いていることに、隣室で椅子に深く腰を下ろしていた彼は無論、気付いていた。

 イージェントはゆっくりと目を開けると、眼前に座る男を見つめた。

「……そなたは先日、余に、弟がいたことは忘れてくれと言ったな」

 国王の静かな声を受け、男――王弟トランスは、伏せがちな視線で頷いた。

「御意」

「その理由は、よもや今回の件に関係あるまいな。くどいようだが、金輪際は二度と訊かぬ。……そなたの、あの言葉を信じても良いのだな?」

 五日前の夜、トランスは、友殺しを白銀鷹旗に誓って否定した。

『最後の最後で頼れるのは、きっと彼でしょうから』

 イスフェルが弟シェラードについて語った言葉は、今やイージェントの支えになりつつあった。

「……私は、良き家臣、良き友であったウォーレイに、手を掛けてはおりません。御命令とあらば、今からオルヴァの丘へ馬を駆けさせ、かの女性の前でも同じように誓いましょう」

 トランスは淡々とした物言いだったが、兄はそれが信じるに足るものであることを強く感じた。

「ルシエン殿に誓えるか……」

 大きく吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出す。それは、もしかしたら、白銀鷹旗に誓うよりも強い誓いかもしれなかった。

「余も白銀鷹旗に誓おう。この件に関して、二度とそなたを疑わぬ」

 イージェントは、覚悟を決めた。



 国王の口から発された人事に、文武各省庁の長たちは、ただただ目を見開くばかりだった。

 亡きウォーレイの後任として、宰相代理に現書記官長のエルロンが任命された。そこまでは良かったのだが、この日、議題に上がるとは思ってもみなかった海軍の新設事業について、その上将軍総司令官を、王弟トランスが拝命したのである。

「――その両翼は、左翼に現海上警備隊長イルドラ。イルドラは将軍職への昇格とする。右翼はガーナ将軍、そなたに任せる」

 思わず身を乗り出し、しかし、言葉も発せず一様に固まっている家臣たち――トランスも含め――に、イージェントは場違いなほど優しげな笑みを浮かべた。

「これは、ウォーレイの遺志でもあるのだ」

 そして、息をつく間も与えず、さらに言を継いだ。

「それから、今日より二十日後、王子コートミールの立太子礼を行う。歴代と比べると年齢的に随分と幼い王太子となるが、王子の不在が長かったゆえ、早めに次期国王を定め、人心を安定させるのが狙いである」

 そこまで言って、イージェントは玉座から立ち上がった。

「負った傷は容易には癒えぬであろうが、そなたたちとなら必ずや乗り越えていけると信じている。どうかこれからも余にそなたたちの力を貸してくれ」

 緊張の一瞬だった。しかし、一瞬は一瞬でしかあり得なかった。次の瞬間、家臣たちは次々と立ち上がり、イージェントに対して頭を垂れたのである。

「命の限り、陛下にお仕え申し上げます。サイファエールに栄光を!」

 近衛兵団長トルーゼの声に、全員の声が和する。

「サイファエールに栄光を! 国王陛下万歳!」

 イージェントは家臣ひとりひとりの顔を確かめながら頷くと、両手を上げて場を制した。彼にはまだ、告げなければならないことがあった。

「最後に、王弟トランスに対し、不当に剣を向けた宰相家の嫡男イスフェルの処遇についてだが――」

 途端、再び水を打ったように室内が静まり返った。

「サリード家に関しては、宰相世襲権を剥奪するが、長年の大功をもって、家名の存続は次男シェラード=サリードを当主として認めることとする。しかし、イスフェル本人については――」

 一気に言おうと思っていたのに、思わず言葉が詰まった。イージェントは気を落ち着けると、向かい側の壁に掛かった絵を見つめた。それは、光の間という名の由来となっている、《春暁の日》の《朔暁》を描いたものだった。

「……いにしえより王家に剣を向けた者が生きながらえた試しはない。しかも、宰相家は重鎮中の重鎮。よって、今回も例外はない。宰相補佐官イスフェル=サリードは死罪、刑の執行はウォーレイの喪が明けた翌日とする」

 凍てついた静寂の中、光の間に翻ったのは、白銀鷹旗ではなく死に神の漆黒の外套だった。


【 第一部 完 】

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