第七章 玉座を継ぐ者 --- 3

「いったい、いつの間に……」

 綺麗に片付けられた部屋を見て、シダは呆然と立ち尽くした。その横で、エルスモンドが首を傾げる。

「門番は二人の姿を見ていないというぞ……」

 その時、軍靴の音がして、パウルスが部屋に入ってきた。

「わかったぞ! リエーラ・フォノイが隊商の者と話をしているところを見た兵士がいる!」

「隊商!?」

「巫女殿たちは、おそらくそれに紛れてここを出たのだろう」

 三人は困惑した。《太陽神の巫女》は、なぜ彼らに黙って城塞を出奔してしまったのだろう。そうまでして届けなければならない『イスフェルの忘れ物』とは、いったい何なのか。

「シダ、イスフェル殿の忘れ物とやらに、本当に心当たりはないのか?」

 エルスモンドの問いに、シダは首を振った。王子の迎えという大事を前に、イスフェルがそんな迂闊なことをするはずがない。

「あいつはサイファエールの宰相補佐官を名乗っているんですよ。忘れ物をするどころか、用意周到なくらいです」

 二人はいっそう顔を曇らせると、同時に溜息を付いた。

「……おい、小隊長は?」

 ふと、パウルスは重大なことに気付いた。クレスティナの荷物までが、すっかりなくなっていたのだ。愕然とした時、突然シダが窓の外を指して叫んだ。

「あっあれは……!」

 窓辺から見下ろすと、城門に伸びる中通りを、そのクレスティナが馬で駆け抜けていくところだった。

「まさか……置いて行かれた!?」

 三人は顔を見合わせると、転がるように厩舎へと向かった。



 クレスティナが二度目の失態に忘我したのは、わずかに一瞬のことであった。彼女は素早く旅支度を整えると、捜索隊を編成しようとしていたユーリアに、自分の責任において必ず見付け出すことを告げた。そして、そのまま王都に帰参することも。少女の身体が旅ができるまで回復しているのなら、この地に留まる理由はない。伝言が伝わらなかったのだろうか、城門に近衛兵たちの姿はなかったが、彼女はかまわず城塞を飛び出した。

『約束を破って、私が勝手にひとりで出歩いたりしたから……罰が当たったんです。クレスティナ様や近衛の皆様に御迷惑をおかけしてしまって、本当に申し訳ありません』

 昏倒から目覚めた夜、少女はそう言ってクレスティナに頭を下げた。それなのに、なぜまた同じことを繰り返すのか。

(なんだ……何か、引っかかる……。何か……)

 平原の景色が飛ぶように後方に消えていく中、彼女もまた思案を巡らせたが、答えを得ることはできなかった。

 ふいに聞こえてきた複数の馬蹄の音に、クレスティナが鞍上で振り返ると、三人の近衛兵たちが必死の形相で追いかけてくるのが見えた。

「遅いぞ!」

 彼女が叫ぶと、新米兵士が喚いた。

「最近の女性は出奔が流行はやりのようですね!!」

「そうとも! 常に男に従順なものだと思っていたら、今に痛い目に遭うぞ!」

 女騎士の返事に、三人は肩を竦めた。

「『今に』じゃなくて、『今』ですよ……」

 それから半ディルクほど走り続けた彼らは、ようやくカイザール城塞を発った隊商に追いついた。統率の商人を掴まえて問いただすと、彼はあっさりと口を割った。

「ああ、少し前までいらっしゃいましたが、先を急ぐとかで、馬で行かれましたよ。最近の神官は、女性といえども活動的ですなあ」

 これにはさすがのクレスティナも閉口するしかなかった。

「馬か……」

「小隊長、あのお付きの……リエーラ・フォノイは、馬に乗れるようになったのですか?」

 シダの記憶が正しければ、往路ではまだ訓練中だったはずだ。案の定、クレスティナは苦々しい面持ちで彼を見返した。

「まだ常歩なみあしがやっとだ」

「巫女殿もまだ初心者の枠から出ていませんよ。落馬などされてないといいですが……」

 パウルスの悲観的な意見に、エルスモンドが首を振る。

「しかし、そのおかげでまだ遠くまでは行っていないでしょう。我々の足なら、すぐに追いつけます」

 クレスティナは頷くと、再び馬を走らせ始めた。

 カイザール城塞以来、遠ざかっていた山並みが近くなり、裾野の森が街道の両側を覆い始める。しばらく行くと、街道がふたつに分かれていた。古びた標識によると、左を行けば港町ラディスに通じ、右を行けばトルイ村に辿り着くとのことだった。迷うことなく左の道に馬を進めるパウルスとエルスモンドを見て、クレスティナはぎくりとした。

 イスフェルの離軍の目的は、公に難破船の調査となっている。したがって、二人が海に通じる道を選んだことは当然のことだった。しかし、実際にイスフェルが取った進路は、右側の道のはずだ。トルイ村のさらに奥に、彼の目指すテフラ村があるからだ。

(嘘が見事にあだとなったな……)

 クレスティナは馬首を左側へ向けた。彼女とは違った意味で、シダは身体を強張らせた。

(今、この道を行けば、きっとあいつらに追いつけるのに……)

 近衛として生きる覚悟を決めても、やはり未練がある。右の道へ手綱を打ちたいという、衝動がある。

 はじめて彼を地面にねじ伏せた相手――それがイスフェルだった。王立学院入学初日のことである。喧嘩をふっかけて来た相手を執拗に攻め続けた彼を、イスフェルが文字通り身体で止めたのだ。騎士の家に生まれ、王都の下町でそれなりに名を馳せていた彼にとって、それは大きな屈辱であったが、イスフェルのあまりにも毅然とした態度に、かえって尊敬の念を抱かされた。以来、常にイスフェルと行動をともにし、様々な出来事をともに乗り越え、夢を分かつようになったのだ。

(――いや、あいつの後ろを付いて回ることがオレの夢じゃないはずだ。肩を並べて歩くためには、オレはオレのやり方で生きていかなければ――)

 その時、彼の十数ピクト先の地面が光った。何かが木漏れ日を反射しているのだと気付き、馬を降りる。近付いていくと、そこには小振りの剣が落ちていた。柄に刻まれている紋章を見て、シダは瞬間的に目を見開いた。

「小隊長、見て下さい!!」

 シダの厳しい声に、クレスティナが近付いていくと、彼はそこにあるはずのない物を差し出してきた。――セフィアーナを毒針から救った、王妃の懐剣だった。

「これは、セフィアーナの……」

 言いながら、クレスティナは雷に撃たれるような衝撃を覚えた。呆然と顔を上げ、その道の奥を見つめる。その先に在るであろう、テフラ村を。

(ま、さか、イスフェルの忘れ物というのは……)

 険しい表情を浮かべるクレスティナに、シダがおそるおそる声をかける。

「小隊長、これがここに落ちていたということは、まさか巫女殿、テフラ村に……?」

 クレスティナは苦々しげに唇を噛んだ。

「……昨夜の話を聞かれたのかもしれぬ」

 シダが息を呑んだ時、

「小隊長、どうしたんです?」

「早くしないと……」

 反対側の道で怪訝そうに馬を立てているパウルスとエルスモンドを見て、クレスティナとシダは顔を見合わせた。彼らは事情を知らない。事態がどう転ぶかわからないのに、彼らを巻き込んでしまっていいものか、クレスティナは悩んだ。いっそのこと、ここで二手に分かれようか――そんな考えさえ脳裏に浮かぶ。しかし、分かれた後の連絡手段を、自分たちは持たない。どちらかに何かあったとしても、片方がそれを知ることはできないのだ。小隊長として、それは避けなければならなかった。

(イスフェルたちに会う前に、セフィアーナたちを見付けるしかない。だが……)

 おそらくそれはできないだろうと、クレスティナは思った。

「……パウルス、エルスモンド。どうやら巫女殿は方向感覚が鈍いらしいぞ」

「え?」

 目を瞬かせる二人に、クレスティナは王妃の懐剣をかざした。

「それは……!」

 エルスモンドが驚きの声を上げる。自分の代わりに盾となった剣を、彼が忘れるはずはなかった。

「小隊長」

 思い詰めたようなシダの眼差しに、クレスティナは小さく首を振った。

「行くしかあるまい。《太陽神の巫女》の護衛が、我々の任務だ」

 途端、シダが顔をほころばせる。あくまでセフィアーナを探すことが目的だが、それでもイスフェルの近くに身を置けることが、シダには嬉しかった。

 海とは反対側の道を、近衛兵たちは走り出した。その背を、木陰から静かに見つめる人影があった。



 カイザール城塞を発って一日半、イスフェルたちはテフラ村を目前にして、進むべき道を失った。通りすがりの村人から近道と聞いた道は、わざわざ選んだように断崖絶壁の淵や藪の中に伸びていた。それでも背に腹は代えられぬと進んできたのだが、谷にかかっていた橋が落雷で落ちてしまっていたのだ。

「嘘だろ、ここまで来て……」

 セディスが呆然と谷底を見下ろす。谷の幅は三十ピクトはあり、とても馬で飛び越えられるものではなかった。

 イスフェルは小さく息を吐くと、意外にも晴れやかな顔で笑った。

「そう事が順調に運ぶわけもない。さあ、戻ろう」

 秘密がうまく隠れているのだろう、王弟派の刺客もなく、旅の付き物である盗賊の襲撃に遭うこともなく、天候不順に見舞われることもなく、ただ道の険しさにだけ不平を言うだけで済んできた。迂回するぐらいで事が成るのなら、いっそ有り難いというものである。

「あの爺さん、実は敵の回し者じゃないのか」

 道を教えてくれた老人に今さら文句を言いながら、セディスは馬首を返した。

「ま、何にしても、最大の難関はレイミア様だな」

 それを聞いて、イスフェルは表情を曇らせた。

 王宮が彼女にした仕打ちは、決して許されることではない。家族をばらばらにし、故郷まで失わせた――それなのに、今度は、ようやく手に入れた平穏を潰そうとしているのだ。そのことがずっとイスフェルの心に棘のように突き刺さっていた。彼女たちが住む村へ行き、必ず彼女たちを王都へ連れて行く――それは、国王イージェントの御意であり、イスフェル自身の決断であり、決して変えられるものではない。しかし、レイミア親子の幸せを奪う権利も正当性も、彼にはないのだ。

(多くの幸せのために、ひとつの幸せを潰していいはずはないんだ……)

 為政者なら、数の理論を取るべきなのかもしれない。しかし、そのために踏みつけにされてしまう人々の叫びは幸せは、誰が償えばいいのか。レイミアの眼差しを態度を言葉を思うと、イスフェルは恐怖さえ感じるのだった。

「例の崖だ。落石に気を付けろよ」

 振り返ったセディスの紫根色の髪が、谷底から吹き上がってきた風に舞い上がる。馬がやっと一頭通れるほどの幅しかないないうえ、時折上層部の岩が風になぶられて剥げ落ちるため、往路ではユーセットが驚いて竿だった馬とともに、あわや谷に転落するところだった。

 イスフェルは、右から来る突き刺さるような西日に目を遣った。本来なら今頃、目的地に着いているはずだったが、胸の棘を思うと、どこか安堵感も否めない。

(なんて弱い……)

 自嘲した時、突然、先頭のセディスが馬を止めた。崖の角から、見慣れた、しかし、この場所では決して見ないはずの濃紫の服を着た男が馬に乗って現れたからだ。

 音を立てて抜かれたセディスの剣先が、正確に男の喉元を狙う。しかし、近衛兵団の制服をまとった相手は、反撃の素振りも見せず、かぶっていた頭巾を払うと不機嫌そうな声を発した。

「……何でまだこんなところにいるんだよ」

「おっおまえっ」

「シダ!?」

 目いっぱい見開かれた六の瞳が、近衛の青年を穴が空きそうなほど見つめる。しかし、その後ろからさらに登場した近衛兵の瞳も、彼らと同じくらい見開かれた。

「イスフェル殿!? どうしてこんなところに!!」

 パウルスの叫びに、セディスが顔を歪めた。部外者に、この場所での存在を知られてしまった!

「シダ、いったいどういうことだ。おまえ、まさか――」

 しかし、さらに姿を見せたエルスモンドが、セディスの詰問を遮った。

「その前に、イスフェル殿、巫女殿はどちらに?」

「巫女? セフィのことですか?」

 眉根を寄せるイスフェルに、エルスモンドは微かに責めるような表情を浮かべた。

「貴方の忘れ物を届ける、と、城塞を抜け出されたのです」

「なっ!」

 イスフェルが目を剥くと、パウルスが落胆したように溜息をついた。

「……その御様子では、会われていないようですね」

「やはり、何かあったのでは……」

 エルスモンドが唇を噛みしめるのを横目に、ユーセットは後方からイスフェルに鋭い視線を向けた。

「イスフェル、オレたちがここにいることを、なぜ彼女が知っているんだ」

「どういう意味だ」

 イスフェルは藍玉の瞳を吊り上げたまま、シダを見た。

「シダ、いったい何がどうなっているんだ」

 皆が疑心暗鬼になり、仲間を疑っている。この状況を把握しているのは、眼前の友人しかいないはずだったが、その彼は後方の女騎士に対応を求めた。

 クレスティナは、近衛兵たちを後退させると、イスフェルたちを離合場所となっている広い場所へと招いた。

「クレスティナ殿……」

 こんな人里離れた断崖で、恩師たる女騎士と再会するとは思わなかった。硬い表情のイスフェルに、しかし、それ以上に硬い表情を浮かべたクレスティナは、しばらくの沈黙の後、王妃から落胤の存在を聞かされていたこと、そしてシダとの口論をセフィアーナに聞かれてしまった可能性があることを手短に話した。

「秘密とは、存外漏れやすいものだな」

 ユーセットが皮肉げに笑う。一方、表情から一切の笑みを消したクレスティナは、ふいに妙なことを口走った。

「……そろそろ姿を現してもいいのではないか」

「………?」

「小隊長、何を――」

 男たちが不審そうにクレスティナを見遣った時、その後方からひとりの少女がゆっくりと馬を引いて現れた。さらに、付き添いの女神官の姿もある。

「セフィ……」

 イスフェルが呆然と呟く横で、パウルスが叫んだ。

「巫女殿!?」

 セフィアーナは一行に向かって深々と礼をすると、クレスティナのもとへ歩いて来、彼女を見上げた。

「いつから気付いておいででしたか?」

「……これを、見付けた時だ」

 言って、クレスティナは懐から王妃の懐剣を取り出し、少女に差し出した。

「やっぱりそうだったのだな」

 頷き合う二人に、パウルスは首を傾げた。

「小隊長、いったい何の話をしているんです……?」

 彼やエルスモンドにしてみれば、クレスティナがこの道を選んだことも、イスフェルたちがこの断崖にいたことも、さらにはセフィアーナがすぐ後ろから姿を現したことも、謎であった。しかし、クレスティナは彼らを一瞥しただけで、シダに視線を向けた。

「シダ、まだ気付かぬか?」

「え?」

 目を瞬かせる青年の横を、セフィアーナが通り過ぎる。彼女はイスフェルの前まで来ると、真っ直ぐと彼を見つめた。

「……イスフェル、忘れ物を届けに来たの」

 言って、シダを振り返る。

「――オ、オレ!?」

 シダは愕然とした。少女の出奔の理由は、彼をイスフェルのもとへ導くことだったというのか。

「セフィ、どうして……」

 絶句するイスフェルに、セフィアーナは全身を夕陽に染めながら、ひとつひとつ言葉を選ぶように話し始めた。

「礼拝堂で貴方に言われたこと、私、ずっと考えていたの。決意を込めて去っていく貴方の背中が、なぜか行方を眩ます前のカイルのものにとても似ていて……私、とても苦しかった。どうしてだろうと考えて思ったのは、その心がとても孤独だったからじゃないかって」

「孤独……?」

 途端、ユーセットがはねつけるように言った。

「何を言う。こいつにはオレたちが居る」

「はい。でも、イスフェルは――」

 セフィアーナは再びイスフェルを見た。

「あなたは、本当に彼らを信頼しているの?」

「セフィアーナ殿! いくら貴女でも、言葉が過ぎますよ!」

 セディスが声を荒げるのを、イスフェルは左手を挙げて制した。

「……勿論、信頼しているさ」

「だったら、何であんなこと――『一生をかけて償う』なんて……」

「宰相補佐官としての責任がどれほど巨大なものか、貴女は御存知ないだろう」

 ユーセットの声は、セフィアーナに対して、これ以上ないくらい冷たかった。彼は最初から――王都でイスフェルに紹介された時から、少女に対して好い印象を持っていなかった。彼女はイスフェルを惑わせる、いわば敵だった。

「それなら余計です。巨大な責任を、独りで抱え込まないで。あなたは優しいから、結局、最後には自分ひとりですべての罪をかぶる気なんだわ。償うって、そういうことなんでしょう?」

 イスフェルは言葉を失った。ひた隠しにしていた棘を、少女には見抜かれていた。彼女に与えた言葉とはうらはらに、彼の決意がいかに脆く、いかに幸せを奪った罪を償いきれない不安に冒されているものか、見透かされていた。

「イスフェル、おまえ……彼女の言うことは本当なのか?」

 黙り込んでしまったイスフェルを、セディスが信じられないというように見る。それでも答えない彼に、シダが怒声を浴びせた。

「おまえ……ふざけんなよ!!」

 シダは荒々しく馬から降りると、イスフェルに詰め寄って衣服を掴んだ。

「おまえ、なんで否定しないんだよ! おまえがオレたちに夢をくれたんだぞ! 最後まで一緒に走ろうって決めたじゃないかよ! そうじゃなかったのかよ!?」

「シダ、やめろ!」

 血気に逸る友人を抑えながら、セディスも責めるようにイスフェルを見上げた。

「イスフェル、どうなんだ」

 しかし、イスフェルはゆっくり馬から降りると、力なく首を振った。

「……セフィの言うことは、本当だ」

「おまえ……!」

 シダはイスフェルに掴みかかると、その肩を岩壁に叩き付けた。イスフェルは必死で申し開きをしたが、その視線は地面に落ちたままだった。

「おまえたちを信じていないわけじゃない。ただ……」

「ただ?」

「オレが、オレのことを信じ切れていないんだ」

「何だよ、それ……」

 悄然とするシダの手を振り払うと、イスフェルは崖の方に歩を進めた。彼の口から、苦悩の片鱗がこぼれ出る。

「セフィが倒れた時、オレは誰の意志にも関係なく『巣』に赴くことを決めた。だがそれは同時に、母子で慎ましく生きる彼らの幸せを潰すことでもある。そんな権利が、オレにあるのか? 茨の道に引きずり込んで、最後まで守りきれるという保証はどこにもない!」

「何を、何を言っているんだ……」

 激したイスフェルに、シダは激しく首を振った。

「母子の生活だっていつまで慎ましくいられるか、保証なんてどこにもない! それどころか、このままじゃ、確実に悪くなるんだぞ! だったらおまえのそばで、一番最初に幸せを感じ取らせてやるべきじゃないのかよ!」

「シダの言うとおりだ。一緒に来てくれるかとおまえが言ったから、オレはここに居る! おまえがおまえを信じられなかったら、オレたちは何を信じたらいいんだよ……」

 路頭に迷った子どものような表情のシダとセディスを押しのけ、ユーセットがイスフェルの前に立った。彼は、他の二人のようにイスフェルを責めることをしなかった。彼には、立ち止まってしまったイスフェルを前に向かって歩かせるという使命がある。宰相に見い出され、イスフェルと初めて会った時から、ずっと――。

「イスフェル」

 ユーセットは、歯を噛みしめて立ち尽くすイスフェルの肩に手を乗せた。

 忌々しいことに、イスフェルの内面は少女の言うとおりだった。イスフェルが物事を抱え込みやすいことや、時にひとりよがりになることを、無論、ユーセットは承知していた。しかし、イスフェルが自分で解決策を見いだすよう、彼は余程のことがない限り介入しないようにしていた。片時も離れず側にいるということも、彼に多少の安心感をもたらしていたのかもしれない。今回、尋常でない事態にもかかわらず、イスフェルは正しい判断をした。よって、ユーセットは普段どおり、彼に対して何も言わなかった。それがあだになるなど、思いも寄らなかったのだ。

「どうしたら、おまえはおまえを信じることができるんだ」

 イスフェルは、そのまま崖から飛び降りたい気分だった。自分を信じていた仲間たちに対して、何という醜態を見せてしまったのだろう。これは、一種の裏切りである。そんな弱く情けない彼に、彼らはいったいどんな決断をするだろう。呆れて、去っていってしまうだろうか。だが、それでも彼は、悪あがきするしかなかった。

「……おまえたちが、今まで通り、オレを信じてくれるのなら……」

「そんなこと!」

 泣きそうな顔で笑うと、シダはイスフェルを自分の方に向かせた。深呼吸し、普段の愛嬌のある顔で友人を見つめる。

「イスフェル、さあ、言ってくれよ。オレを、オレたちを必要としているって。あの時みたいに」

 一昨日の夜、イスフェルは決してシダに対して一緒に来いと言ってくれなかった。だが、今度こそ、その言葉を聞けるとシダは思った。

 初めて夢を語り合ったのは、いったいいつのことだったか。日常の会話からだったか、何かの事件の後だったか、もう覚えてはいない。しかし、夜な夜な学院寮の床に毛布を敷き詰め、蝋燭の回りに顔を寄せ合い、話し疲れて眠るまで語り合ったことを、彼らは忘れない。何かある度にその絆を強くしたことを、決して忘れない。

 イスフェルはぎゅっと目を綴じると、ゆっくりと見開いた。藍玉の瞳に、鮮やかな意志の光が灯る。

「……おまえたちに、オレと一緒に来て欲しい。オレと一緒に、彼の御子を盛り立てて欲しい。そのために背負う危険はあまりにも大きいが、おまえたちとなら乗り越えていけると思う。いや、オレが乗り越えさせてやる。そして必ず叶えるんだ。昔、語り合ったオレたちの夢を」

「イスフェル……」

 シダは頷くと、おどけるように大きく胸を反らせた。

「おう、一緒に行くとも。なんたって、おまえの理想がオレの正義だからな」

「シダ……」

 振り返れば、セディスもユーセットも力強い頷きを返してくれる。イスフェルは鼻をこすると、クレスティナに向き直った。

「クレスティナ殿、どうかシダを私とともに行かせては下さいませんか?」

 すると、彼女はそれには答えず、パウルスとエルスモンドを見遣った。

「おぬしたちには話しておこう。……我が近衛兵団にとっても重要な話だ」

 重要どころか、近衛兵団の将来さえ左右する内容に、二人の近衛兵は馬上で蒼白となった。副長のハイネルドはおろか、近衛兵団長であるトルーゼさえ知らない秘密である。おまけに、彼らの小隊長の告白は、それだけに留まらなかった。

「シダは彼らとともに行かせようと思う。そして、この私も、彼らとともに行きたいと思っている」

「クレスティナ殿……!」

「小隊長!」

 後方で驚喜の叫びが上がったが、クレスティナはなおも語った。

「おぬしたちにもともに来てもらいたいのだが、どうだろう……?」

 通常、軍隊に身を置く者は、個々の意志を殺さなければならず、上官が下士官の意見を伺うようなことも決してない。しかし今回、クレスティナは敢えて問うた。落胤を迎えに行くことは国王の意志だが、彼女たちが直接受けた命令ではなく、それがクレスティナ自身の我が儘だったからだ。しかし、ふたりの返答に時間はかからなかった。

「私たちは、小隊長に従うまでです」

「巫女殿も、このまま王都に帰られるわけはありませんし――なにより、我が王太子殿下のお迎えとあらば」

 クレスティナは微笑みながら深く頷くと、イスフェルを振り返った。

「――という次第だ、イスフェル。我々も同行させてもらうぞ」

「クレスティナ殿……」

 目頭が熱い。イスフェルは溢れくるものを抑えるのに必死になった。

「行きましょう、テフラ村へ。王太子殿下をお迎えに」

 ようやく笑みを取り戻した九人を、落日最後の一条が希望の鎖となって繋ぐのだった。

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