第9話 ユグドラシル
深い深い闇の中。
ゆらゆらと泳ぐクラゲの様にゆっくりと陽奈は沈んでいく。
ここは彼女の心の奥底。
普段の自分では感じない深層心理の世界。
その最も深い場所に見えない仕切りがある。
その仕切りは少女の知覚できる範囲を大きく超えていてどこに終わりがあるのか見当もつかないがそれはどうでも良かった。
ただ、気になるのはこの仕切りの先に何があるのかということだ。
少女が深淵を覗き込むと何かがある。
好奇心からそこに意識を集中させるとその輪郭が掴めてきた。
それは人の形をしていた。
誰なんだろうと更に深く覗き込む。
そうして相手の顔を知覚できた時、陽奈はギョッとする。
その顔が自分とよく似ていたからではない。
――――――菜月……ちゃん?
そこにいたのは会いたかった家族の姿があった。
近づきたい、話したい、抱きしめ合いたい。
感極まる陽菜だったが、その身、声、思いが妹に届くことはない。
意識が浮上するのを感じる。
それに伴い菜月の姿が小さくなる。
陽菜の必死の呼びかけも彼女には届かない。
そして、菜月の姿が完全に見えなくなる頃に陽奈の意識は途絶えた。
次に陽奈が目覚めると視界は真っ青に染まっていた。
「え?」
体を起こして周囲を見渡して言葉を失う。
一面に広がるのは平坦な大地。
そこには草木はなく岩もない。
それが円状に広がっており、ある場所を境に正面には草木が背面には海が広がっている。
この場所だけ抉り取られた様な格好だ。
陽奈が奇妙な地形に見入っていると頭にピキッと痛みが走る。
「――――――?」
最初は小さなものだった。
しかし、時間と共にそれは次第に大きくなり顔を歪めて抱える程になる。
「――――――はぁ……はぁ……はぁ……」
息が乱れ視界が狭くなる。
頭の痛みが酷い。
まるで左右から引っ張られるような痛みがする。
ビキビキと自分の頭の中をこじ開けようとしてくる。
いっそ真っ二つになった方が良いのではないかと思えてしまう程の痛みに陽菜は悶絶する。
「やあ、お目覚めかい?」
声のした方を向くとロキが爽やかな笑みを浮かべ立っている。
陽奈は反射的に身じろぎし、距離を取る。
それが無意味だとわかっていながら。
ロキはその反応をニヤニヤしながら眺めている。
「気分はどうだい、お姫様?」
「――――――最低……最悪、です」
痛みを押し殺しロキを睨みつける。
勇人を傷つけたこの幻想種を決して許さない。
少なくとも弱みだけは絶対に見せない。
少女は決意を元に精一杯の抵抗する。
しかし、ロキはそれは良かったと彼女の敵意など意に返さない。
「さて、天津陽奈。ここがどこかわかるかい?」
陽菜は痛みを堪えながらもう一度周囲を見渡す。
周囲はだだっ広い荒野で目印になりそうなものは見当たらない。
強いて言うならこの荒野が円形に広がっていることだけだ。
そもそも絶え間ない頭痛に苛まれている陽菜に何かを考えるのは酷と言うものだ。
「――――――く、ははははははははははははははははははははははははッ!」
答えの出ない陽菜を見てロキは大声で笑い出す。
「何が、おかしいんですか?」
「いや、人間とは一度忘れてしまうとここまで厚顔無恥になれるんだなと思ってね」
ロキの言葉に陽菜の頭痛が一段と強くなる。
意識が切れてしまえばどれ程楽になるのだろう。
しかし、激しい痛みが却って意識を覚醒させてしまう。
普通なら叫びながらその辺をのたうち回っているだろう。
大の大人でもとても我慢できるものではない痛みにも陽奈は耐えている。
その顔は強張り、体から汗は出ているがそれでも気丈に耐えている。
「――――――どういう、意味ですか?」
「思い出せないかい?なら、教えてあげるよ。ここは久遠村。かつて君たちの故郷さ」
ロキの言葉に陽奈は息を呑む。
ここが久遠村?
夢にまで見た懐かしの故郷。
いつか、記憶が完全に戻ったら勇人と一緒に里帰りしたいと思っていた大切な場所。
「う、嘘です。そんな証拠はどこにもありません!」
陽奈は強く否定する。
確かにあの村は小さかったが、そこには確かな人の営みがあった。
だが、今いる場所には人はおろか生命を全く感じない不毛の大地だ。
「そうだね。ここが君の故郷だと証明する物的証拠はないね。だけどね、その証拠を消した人物がいるとすればどうする?」
「消した?」
「そうだ。そしてそれを起こしたのは君たちだよ」
「え?」
陽奈はロキの言っている事がわからなかった。
一つの村を跡形もなく消す。
常識外れの力を振るう勇人や幻想種ならわからない訳ではない。
しかし、陽奈はただの人間だ。
彼らの様な超人的な動きなどできない。
「ふふ。まあ、信じられないだろうねぇ。だけど、これは真実さ。その証拠に君の中の封印された記憶が解放されつつある」
「記憶……?」
「そうさ、今君が苦しんでいる頭痛。それは君がこの地に来たことで封印が弱まっているからさ」
陽奈は自身の状態を見抜いたロキの言葉に妙に納得してしまう。
それが本当だとしたらこの痛みは。
「さて、そろそろ君の願いを叶えてあげよう」
そう言うとロキは懐から何かを取り出した。
それは掌に収まるぐらいの種だった。
「これは
元々、北欧神話には九つの世界が存在し、ユグドラシルはそれらを支えつなげる役割を持っている。
そして、北欧神話において人間は木から生み出されたものだ。
その親和性は高いと言える。
その予備知識は陽菜にはない。
しかし、この男がとてつもなく恐ろしい事を言っている事だけわかる。
「――――――い、嫌……」
「なに、怖がることはない。ただ先祖返りするだけさ。そのついでに君の中にある封印も解けるだろう」
本能的な恐怖から陽菜は後ずさるがロキの方が圧倒的に速く手が伸びる。
胸に押し込まれた種は素早く体内に取り込まれる。
変化はすぐに起きる。
体内に入った種はすぐに発芽し陽菜の肉体を侵食し始める。
「――――――ッ!――――――――――――ッ!?」
頭痛を忘れるほどの気持ち悪さが全身を駆け巡る。
体の隅々まで異物が根を伸ばし少女の体の自由を奪っていく。
すぐに体は指一本動かせなくなり、声も出なくなる。
一分と持たず少女の意識を奪っていった。
倒れ伏す陽奈を見てロキは空を見上げて大笑いする。
声は遮るものがない荒野を超え周囲を囲む森まで響き渡る。
「さあ、これで舞台は整った。太陽は再生し、世界に新たな大地が生まれる。そして、そこに生まれるのはかつてこの星を支配した神々だ」
弱者は死に、強者だけが神の庇護を受けられる世界。
死と戦いに満ちた北欧神話における絶対の理。
あの血と悲鳴に満ちた世界が蘇る。
それを思うだけでロキの中の高揚感は治らない。
勝利を確信した邪神はただただ笑い続けるのだった。
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