最終章 まほろばの空
第81話
(心臓……『核』を狙わなきゃだめってわけか)
それはつまり、『玉』だ。そして風羽矢自身でもある、神力の源。
やがて海が途切れ、港が見えた。
風の轟音にかき消されないように、咲耶が叫んだ。
「稚武、どこまで行くのかしら、大蛇は。この先に何があるの」
「……俺たちの
大地にうねる川は、やがて枝分かれした。大蛇は迷うことなく、
カムジカは雲を飛び超え、風となって翔ける。
大蛇が高く鳴いた。そこには、懐かしき泊瀬の山々が緑に萌えていた。そして、満開の桜。泊瀬の里は雪解けの季節を迎え、薄紅の花が咲き誇っていた。西国である出雲に比べ、春の訪れが遅かったのだ。
山間には、記憶と寸分変わらぬ小さな
(帰ってきたな、俺たち。泊瀬に……)
帰ってきたな、風羽矢。
『一緒に泊瀬へ行こう』
『きっと桜も咲いている。散らないうちに、二人で泊瀬へ帰ろう』
風羽矢はきちんと約束を覚えていたのだ。そして、果たしてくれた。
稚武は風羽矢の穏やかな微笑を思い出していた。そんな風羽矢にこそ、この泊瀬の景色はふさわしかった。彼はこの故郷を愛していたのだと、改めて知った。
大蛇は、里のはずれの谷川の上空でようやく止まった。そのときには、傷口は完全に閉じられていた。生気を得たように一鳴きし、大蛇は頭を絡める。
カムジカは一度、地上を目指して舞い降りていった。稚武がそうさせたのだった。川べりに向かう途中に、稚武は里の人々が家から顔を出しているのを見つけた。降って沸いたような恐ろしい大蛇の出現に、彼らはみな唖然として空を見上げていたのだ。
そんな人々の中に、杖をついた
稚武は微笑んだ。大切な人たちは、前を向いて生きようとしている。そこには新しい生命もある。
ごつごつとした石だらけの川辺に着地し、カムジカはじっと大人しくしていた。稚武が何をするつもりなのか、この牝鹿はすべて心得ているようだった。
「咲耶」
稚武は不意をつくようにして、後ろの咲耶をカムジカから下ろした。そして、すぐにカムジカは浮き上がった。咲耶が再び背に乗るのを拒むように。
咲耶は顔色をなくした。
「何をするつもりなの、稚武。どうしてわたしを下ろすの」
稚武はカムジカに乗ったまま、柔らかな声音で言った。
「お前は、ここまでだ。もう充分だろう」
「何を言っているの」
咲耶は思わず声を大きくした。川の流れは穏やかだった。
「お前がこれ以上傷つくことはない。もう、いいんだ」
「どうして。今さら、だってここまで連れて来ておいて」
「――泊瀬を見せたかったんだ、お前に」
迷子のような顔をしている咲耶に、稚武は微笑んだ。
「禍のもと以外に行くところがないと言うお前を、ここに連れて来てやりたかった。そうできたらいいとずっと思っていた。……どうしてだろうな、俺にもよくわからない。だけど、思ったとおりだ」
稚武は腕を伸ばし、咲耶の髪に軽く触れた。
「お前には、こういう優しいところのほうが似合ってる。仇討ちとか、戦いなんかよりも。……笑っている方が、似合っている」
そのような稚武の瞳を、咲耶は見たことがなかった。涼しげであり、それでいて情熱があり、白雪よりも澄み切った光があった。
「普通の女の子に戻れ、咲耶。そして普通の幸せをつかんで生きるんだ。お前が幸せになることこそ、お前の大切な人たちの救いになるよ。それに、風羽矢もきっとそれを望んでいる。妹のお前、禍から逃れられたお前だから」
稚武の声は温かく、そして揺るぎないものが感じられた。
「俺にはあいつと同じところへ行ってやることしかできない。だけど、お前はもっと違う道で、風羽矢を……そして倭を救うことができるんだ。そのためには、お前自身が幸せになることが一番大切なことだよ」
咲耶は息を吸い込んだ。
「あなた、風羽矢のところへ行くって――一緒に死ぬつもりなの。最初から、そのつもりだったのね」
「お前だって似たようなものだったくせに」
稚武は意地悪く笑ってから、また優しく言った。
「本当はもうわかっていたことなんだ。俺は、風羽矢を独りでいかせることはできない。できると思っていたけれど、やっぱりできないんだ。あいつがいなくちゃ、俺は俺でなくなっちまう。風羽矢はもう、俺の一部みたいなもんだから。倭がずっと溜め込んできたものを、あいつ一人に負わせてはいけない。俺が半分請け負うよ。俺と風羽矢が今までずっと、色んなものを分け合ってきたように」
咲耶は稚武に取りすがって首を振った。
「だめ。お願いだから、わたしも一緒に連れて行って。あなたたちと同じところへ、それが闇でもかまわないから。わたしだって神器の主なのよ。わたしだって――わたしだって、もう独りはいや」
泣きそうになって叫んだ咲耶の唇に、稚武の唇が触れた。それは本当に一瞬、ただ押しつけただけの口づけだった。
「お前には生きてほしい。何のしがらみもない、穏やかなところで。それがお前の幸せだ」
咲耶の瞳に涙があふれ、喉がきしんで声も出ない間に、カムジカは空へ躍り上がっていった。
「生きろよ、咲耶」
「稚武!」
彼の姿はすぐに遠ざかり、小さくなっていった。それでも咲耶は彼の名を叫び続けた。もう届かないとわかっていても、そうしないではいられなかった。知らぬ間に駆け出し、身が濡れることなどかまわずに、ばしゃばしゃと川に入っていた。ただ、稚武を追いかけて。
「待って。待って、稚武」
やるせなくて、咲耶は顔を歪めて叫んだ。気がつけば泣きじゃくっていた。
「待ってよ、どうしてわたしの幸せを勝手に決めるの。どうして稚武が決めるの。どうして……だって、わたしの幸せはわたしが決めることなのに」
(――……違う……)
濃く晴れ渡った青空の下で、激しく泣きながら咲耶は気づいた。
(稚武が勝手に決めつけたんじゃない。わたしがそうさせたんだわ。わたしは今まで、一度も自分で決めたことなどなかった。自分で自分の幸せを考えたことなど、なかった……)
いつも、気づけば道はしかれていた。それを運命という名の正しい道と信じて、逸れないように必死に足元ばかり見て進んできた。けれど咲耶は、物分かりのいいふりをして甘えていたのだ。誰も導いてくれないところへ、一人で足を踏み入れるのが怖かっただけだった。
(わたしは、わたしが本当はどうしたいのかもわからずに、迷子になってここまで来てしまったのだわ。稚武はちゃんと気づいていた……)
そして、手を引いてここへ連れて来てくれた。
咲耶は急いで涙をぬぐった。それでも泣き止むことはできなかった。
一瞬の火花のような口づけをおいて、稚武は行ってしまった。その姿はあまりにも
(本当に、呼々の時と同じ。わたしはまたおいて行かれてしまった。……けれど)
涙に濡れた目で、咲耶は空を見上げた。黒雲のように浮かぶ巨大な大蛇と、それに立ち向かっていく白き光。
かつて呼々が行ってしまったとき、咲耶はうずくまって泣きじゃくるしかできなかった。――でも。
「……でも、わたしだって一緒がいい。一緒に行きたいの、稚武!」
咲耶は流れに逆らうように川の中を駆け出した。
おいて行かれるのが嫌なら、追いかけるしかない。どうして自分の足で歩けないなんて思えるだろう。つまずいて転びながら、傷つくことになっても、咲耶は自分の足で走ることを選んだ。それが正しいのかはわからない。けれど確かに、咲耶の望むものはその先にあった。
咲耶の望むもののすべては、稚武にあったのだ。
「稚武!」
咲耶は叫んで、空の光に向かって必死に手を伸ばした。届くはずがなくても、それでもそうすることが咲耶に残された望みだった。稚武を諦めたくはなかった。
もう一度彼の名を呼ぶと、空にかざした右手に光が灯った。咲耶がそうと気づいたとき、あらわれた鏡は天に真白の光を放った。そして世界が光に満ち、一瞬にして膨らんで弾けた。
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