第72話
咲耶はてっきり、稚武は独りきりでいることだろうと思っていたのだが、実際には隣にカムジカの姿があった。彼らはぼんやりと、口をつぐんだまま波間を見つめていた。
人の気配のない浜辺には、寄せては返す波の音だけが寂しく繰り返されている。咲耶は稚武の横顔を見つめ、砂の上を静かに歩み寄っていった。
稚武もこちらに気づいたらしく、わずかに視線を向けてきた。けれども、そのままうつむいてしまった。
「みんなのところへ帰らなくていいの?」
咲耶はそっと訊ねた。だが稚武は答えず、顔を上げることさえしなかった。
「きっと、あなたのことを待っているのに」
咲耶は稚武の隣に膝をついた。しかしいくら待っても彼が動こうとしないので、しかたなく海を見つめた。
「秋津もきれいな国ね。もっと寂しいところかと思っていたわ」
咲耶は目を細めて言った。
ずっと黙りこくったきりの稚武であったが、ふいにぽつりと呟いた。
「……風羽矢は水が嫌いなんだ」
咲耶は目を丸くし、稚武を見た。彼はやはりうつむいたままだった。
「だから、一緒に泳いだりはしなかった。だけど夏の間、毎日この浜辺に来て……二人でよく遊んだな。漁の手伝いをしたり、魚を干したり」
穏やかな口調だったが、稚武の声は震えていた。
咲耶は唐突に気づかされることとなった。今まで思い至らなかった自分が信じられないくらいだった。――秋津には、稚武にとって風羽矢の影のないところなどない。景色すべてが風羽矢を思い出させるのだ。
そして彼は強く思い知らされているのだった、風羽矢のいない現実を。
稚武が打ちのめされているのを痛いほどに感じながら、咲耶は言った。
「さっきまでね、紅科さんと色々お話していたの。それで一つ、思い出したことがあって。――わたし、あなたに伝えなければいけないことがあったのよ」
やっと稚武は咲耶に視線を寄こした。だが相変わらず背中を丸めたままで、ほのかに潤んだ目を上目遣いに投げてきただけだった。それでも咲耶は、稚武の目を逃がすまいと慎重に口にした。
「『君が来てくれて嬉しい』、って。そう稚武に伝えて欲しいと、風羽矢はわたしに言ったのよ。阿依良の宮で初めて会ったときに」
信じられないというように目を見開く稚武に、咲耶はさらに言った。
「ねぇ、わたし思うの。きっと風羽矢は、ずっとあなたを待っていたんだわ。そして多分、今も。……あの人にはもう、あなたしか救いを求められる人がいないのよ、稚武」
「――ふざけるな!」
さっと気色ばんで稚武は怒鳴った。
「俺はなぁ、怒ってんだよ! あいつは俺との約束を忘れて、自分から禍になることを選んだんだぞ。殺してくれなんて……この俺に言いやがった。絶対に死なないと誓ったくせに、俺に殺せと言ったんだ。これが裏切りじゃなくてなんだ……!」
したたかに地に拳を打ちつけて、稚武は奥歯を噛みしめる。それからかすれた声音で、独り言のように言った。
「どうしてあいつは俺を置いていくんだ。俺がいたのに、あんなに近くにいたのに……なんで禍を選んだんだ。あいつにとって、今までの俺たちは何だったんだ」
稚武は両手で顔を覆った。そこに涙があるのかは分からなかったが、稚武が泣きたいほどに哀しんでいるのは咲耶にも分かった。
咲耶を抱きしめて声もなく泣いたあの日から、稚武はちっとも立ち直っていなかったのだ。
(この人は……いつも不安定だわ。風羽矢がいないことで、こんなにも弱くなってしまう。倭を背負う皇子でありながら、自分は誰にも支えてもらえずにいるの……)
そう思ったとたん、咲耶は彼を抱きしめていた。それは本当に無意識で、稚武も驚いたようだったが、多分咲耶のほうがずっと驚き入っていた。しかし、どうしてか、彼の背に回した腕をほどくことはできなかった。
稚武は泣いていなかった。けれど、咲耶をわずらわしく思うわけでもないようだった。やがて咲耶の腕の中で静かに目を伏せ、拠りどころを得た子犬のように大人しくしていた。そうしてしばらくしてから、おもむろに口を開いた。
「……もういいよ、咲耶」
少し照れたような、優しい笑みだった。
「だいぶ落ち着いた」
咲耶は慌てて手を引っ込めた。なんとも気恥ずかしかったが、これで稚武が落ち着いたと言うのなら悪い気はしなかった。
稚武は立ち上がり、カムジカの背に手をおいて訊ねた。
「咲耶、お前は今どう思っているんだ、風羽矢のこと。あいつの妹だっていうことを、どう受け止めたんだ?」
「……うん、わたし、風羽矢と兄妹だっていう実感はよく分からないんだけれど」
咲耶も立って、膝についた砂を払った。
「でも、わたしと彼がもとは同じだというのは何となく分かる気がする。出会った時から何か感じていたのは、たぶんそういうことなの。……わたしも風羽矢も、同じところから生まれてきた。けれど鏡を託されたのがわたしの方だったというだけで、こんなにも遠くなってしまったのよ。彼一人が闇を請け負うことになったんだわ」
稚武はじっと聞いておいて、さらに訊ねた。
「これからどうするつもりなんだ、お前は」
「『禍』のもとへ行く。――あなたもそのつもりなんでしょう、稚武。けれど一人では行かせない。わたしもついて行くわ」
稚武が眉をひそめたので、咲耶は一歩も譲らずに続けた。
「禍がわたしを生み落とした両親であり、それを請け負ったのが兄だというのなら、決着をつけるべきはわたしよ。禍を滅ぼすことが風羽矢を殺すことになるのなら、わたしだってこの命を支払ってかまわない。わたしたちは同じ血を持っているのだもの、わたしもそこへ還るのが本当だという気がするの。もとから、わたしには禍の他に行くところなんてないのよ。……それに―」
咲耶は懐の短剣に手をおき、熱のこもった瞳で言う。
「あの日の誓いも、まだこの胸にある」
陽巫女の仇を、呼々の仇を、討つ。禍への怨みはまだ咲耶の胸で燃えているのだ。きっと消えることはない。
稚武は難しげな顔をしていたが、何も言わなかった。咲耶が人に何か言われたぐらいで一度決めた道を変えるような女でないということは、もう骨身にしみて分かっていたのだ。
言葉にはしないものの、稚武はため息をついた。そこに非難を感じ取ったのか、咲耶がムッとする。
けれど稚武はかまわずにつぶやいた。
「でも、俺の剣はもう……」
はっとして咲耶が息を呑んだときだった。里の方から漁師らしき男たちが駆けてきて、稚武の姿を見つけるや大声で呼んだ。
「皇子さまぁ! 湯守りさまがお呼びですぞ、愛比売さまが降りてこられた」
「本当か」
稚武は顔色を変えて駆け出した。咲耶は呆気にとられて取り残されたが、カムジカに背中を押されてやっと追いかけた。
紅科の屋形には熟田津の衆が集まってきていた。その人垣をかき分け、稚武はなんとか彼女のもとへたどり着いた。紅科は祭壇の前に座り、無表情の宇受を抱いていた。
「稚武、良かった、間に合ったのね。何ヶ月ぶりかしら……愛比売さまよ。――さぁ、聞きたいことがあるのなら、早く」
稚武は勢いよく両手両膝をつき、周囲を顧みずに早口に言った。
「愛比売さま――教えてください。なぜ俺の剣は折れたのか、どうしたら禍を倒すことができるのか。二度と再び、剣が力を発することはないのですか」
しかし、返ったのは沈黙だった。紅科が言い渋っているのではない、それが愛比売からの返答なのだ。
重すぎる沈黙の中に、咲耶はやってきた。しんとした重圧に押しつぶされそうになりながら、稚武の隣につく。そして稚武の額に汗が浮かび、紅科が慌てはじめた頃になって、愛比売はようやく重き口を開けた。
「……『剣はヤマタノオロチより生まれしもの』」
ホッと胸をなでおろす心地で、紅科は姫神の言霊を代弁する。
「『神器はもとより形なき神力の器。滅びを呼ぶ始まり』」
稚武は眉をひそめた。
「神器が……滅びを呼ぶ?」
「『神器と禍は対になるべきもの。滅ぼし合い、生み出しあう。生命は生き続けようとする反面、死を求めている。国もまたしかり。倭は老い、滅ぶべきときを迎えた』」
紅科は懸命に語った。
「『禍は老いたる倭の姿。倭の永きが死を望み、生み出したもの。分かるか?』」
「……何となく」
稚武は自信なく答えた。
「では、倭はこのまま滅びを待つしかないというのですか」
「『――今、神器の剣が失われたことで、禍も力を弱めている。冷たい海底で眠り、回復を待っているのだ。しかし再び目覚めたそのとき、倭は滅びを迎えるだろう』」
稚武は息を呑んで顔を険しくした。
「避ける手立てはないと?」
「『禍の訪れを避けることはできない。しかし、滅びの力を再生の力に変転させることはできる。神器はそのためにあるのだ。あれらは再生へ導く力を持ち、同時に滅びの力となることもできる。倭は選択しなくてはならない。――天つ神の末子よ、剣が欠けたのは、お前にまだ迷いがあったゆえだ』」
稚武は息を止め、宝玉なる宇受の瞳を見つめた。
「『三種の神器はそろうことで救いの力となり、分かたれることで滅びの力となる。そうして玉は呪われ、禍を増幅させこととなった。……しかし末子よ、お前が己の「鞘」を手に入れたなら、剣一つでも禍に打ち勝つ力を得ることができよう』」
「鞘を」
稚武は食い入るように宇受を見た。
「それはつまり、俺はまだ『鞘』を見つけ出せていないということですか」
「『それは我には預かり知らぬところ。己の鞘をさだめることは己にしかできぬ。その上、見つけることと手に入れることは違う』」
稚武は少し考え込むようにうつむく。それから、心を決めたように顔を上げた。
「鞘さえ手に入れれば……そして剣があれば、まだ倭を救える道は残されているのですね。なら、俺はそれを選びます。――教えてください、剣を復活させる方法を」
しかし、愛比売は再び沈黙してしまった。待ちきれずに稚武は声音を厳しくする。
「愛比売さま! 倭を滅ぼさせるわけにはいかないんです。この国にはまだ、生きたいと願っている人が大勢いる。俺が戦うしかないんだ」
「『……たとえ鞘を手に入れ、禍なる大蛇を打ち倒したとしても、お前もまた何かを失うのやもしれぬ。お前自身の命か、別の何かか、あるいはもっと多くのものを』」
一瞬の間を置き、稚武は力強く答えた。
「かまいません。……禍を討ち、風羽矢の魂をそこから解放してやる。それが俺にできる唯一の、あいつへの弔いなんです」
姫神の声に耳を澄ませる紅科は、愛比売がいつになく自信なさげに呟いたのを聞いた。
「『……出雲を訪ねよ』」
「出雲」
稚武は瞬いた。しかし心当たりはあった。
「神代、スサノオ神が降り立ち、ヤマタノオロチを退治したという地ですね」
「『そうだ。剣のふるさとである出雲……かの地にお隠れになった御方なら、あるいは剣を生き返らせることが叶うやも―』」
「御方?」
稚武が聞き返したと同時に、突然宇受が激しく泣き出した。
「待って――だめ」
紅科が悲鳴を上げ、なんとか愛比売神の声を聞き留めようとする。しかしかなわず、深き国つ神の声は遠ざかってしまった。
「愛比売さま、愛比売さま、お待ちください。…………ああ、なんてこと」
元気に泣き喚く宇受を見つめ、紅科は力なくうなだれた。
しかし、稚武は気落ちした様子も見せずにすっくと立ち上がる。
「ありがとう、紅科。充分だよ。どこへ行くべきかは分かったから」
「でも……もう少し何か聞けそうだったのに。次に愛比売さまが降りていらっしゃるのは、いつになるか分からないのに」
「うん。でも、宇受は宇受として成長しようとしているんだろう。それを嘆いてはいけない。宇受を神の声を聞くための道具のように思ってはだめだ」
穏やかながら確信を持って稚武は言った。紅科は目を覚まされたような思いで顔を上げ、深く頷いた。稚武は微笑んで頷き返す。
「稚武、剣の『鞘』というのは何のこと。どこにあるか、あなたは知っているの?」
咲耶が瞬いて尋ねるので、稚武はなんとなく言葉をにごらせた。
「どこにあるかは知っているよ、多分……すごく近くにある。あとは、俺しだいなんだ」
そして顔を引き締め、傍らに座り込んでいる彼女に真っすぐ言った。
「俺は出雲へ行く。――ついて来てくれるか、咲耶」
稚武たちの軍船が
ここから陸路でずっと北に向かえば、やがて出雲にたどりつく。ありがたいことに大きな街道が伸びていたので、見当違いのとんでもない方へ迷い込む心配はなさそうであった。
稚武は咲耶以外に供人を連れて行く気はなかったので、久慈を説得するのに骨を折った。稚武たちを下ろした船は、このまま海路を使って難波津、そして
港に下り、すっかり旅支度を整えた稚武にも、久慈はまだ渋い顔をしていた。
「本当に良いのですか、お二人だけで。せめて一隊ぐらいお付けした方が」
「大丈夫だって」
飽き飽きして稚武は言った。
「ここから先は、神器の主だけの仕事だ。みんなを巻き込むことはないよ、せっかく戦も終わって故郷に帰ることができるのに。これ以上引き回して危ない目にあわせるわけにはいかない」
「では、やはり、わたしだけでもお供します」
「だめだ。師匠には、石上に帰って大王に報告しなければならないことがたくさんあるだろう。早く大王をご安心させてあげてくれ」
久慈は非難めいて眉を下げた。
「あなたが戻らずに、どうしてあのかたが安心なんてしますか」
「だから、心配なさらないようにうまく言っておいてくれよ」
稚武は隣のカムジカの毛並みを撫でて笑った。
「大丈夫、俺にはこいつもいるし。いざとなったら石上までひとっ飛びだよ。剣が早く直れば、師匠たちより先に戻っているかもしれない」
冗談めかして言う稚武に、久慈はとうとう折れてため息をついた。
「そこまでおっしゃるのなら、皇子、あなたを信用しましょう。けれども、本当にお気をつけくださいよ。都でお帰りを待ち続けていらっしゃる大王のことを、くれぐれもお忘れなく」
「わかっているよ」
ほのかな灯火に似た大王の笑みを思い出しながら、稚武は答えた。
去りかけの冬の風は透き通っている。
やがて、倭にも春が来る。
(……その前に、決着をつけよう)
稚武は、いつだったか風羽矢が見たという夢の話を思い出していた。
『僕が見たのは、僕が蛇になっちゃう夢』
『手や体に黒いうろこができて、足がくっついて、僕は蛇になるんだよ。すごく大きな蛇』
『あー怖かった』
(大丈夫だ、風羽矢……)
心のうちで、稚武はそっとささやいた。
(俺が必ず、助けてやる)
お前が見ているその悪夢から、解放してやるからな。
決心する稚武の上に広がる空は、柔らかな青い色をしていた。
秋津の空も倶馬曾の空と同じ色をしていることに、咲耶は改めて気づいた。
ふわりと広い大空を仰ぐと、ほのかな春の香りを感じることができる。
「倭はまだ生きている。こんなにも美しいのにね……」
カムジカの白い背に手をおいて、小さく呟く。カムジカは何も答えず、甘えるようにして咲耶に鼻先をすり寄せていた。
<決着編に続く>
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