第49話


 朝に歩き出した三人は、夕方になってやっと森を抜け、道らしい道に出ることができた。しかし、稚武たちはその道を見失わないぎりぎりの距離を保って、わざわざ山の中を歩くことを選んだ。咲耶にはその事情が分からなかったが、助かったことは確かだった。道を行く阿依良アイラ兵を見かけたときなどは、心臓までが息を止めるような心地だったのだ。


 咲耶が思わず桐生の背に隠れると、彼も咲耶が何に怯えているか気づいたらしい。


「ああいうやつらに追われているのかい?」


 咲耶は震えながら、こくんと頷いた。


「顔を知られている?」

「いいえ……」

「そうか。けれど、君の着ている衣は、普通の女の子が着ているのとちょっと違うね。巫女が着るものなんじゃないかい」


 言われて初めて咲耶は気づいた。ぼろぼろに汚れて、色鮮やかな姫巫女の衣裳は見る影もなかったが、確かに形が特殊かもしれない。陽里ヒノサトにこもっていた頃は皆おそろいだったから、気にもかけなかったが、里の外から見れば一目で識別されるものなのではないだろうか。


「どうしよう……」


 これでは一生、山から出られない。


 深刻に考え込む咲耶に、桐生は笑って言った。


「心配することはない。俺に任せておきな」


 何日もしないうちに、三人は山の麓の村に市が立っているのを見つけた。すると桐生が、稚武と咲耶を残してさっさと山を下り、村娘が着込むような衣を持ってきてくれたのである。その代わり、彼の耳飾りが両方とも消えていた。


「ありがとう――ごめんなさい」

「いやいや、礼にはおよばんさ。食料もたくさんもらってきたし」


 上機嫌になっている桐生に、稚武がむっつりと言った。


「やっぱり桐生兄は女に甘い。ぜったい五十鈴いすずねえに言いつけるからな」


 咲耶はぱちくりとした。


「五十鈴というのは誰? ふるさとの人?」

「俺の嫁さんなんだ」


 照れたようにはにかむ桐生の横で、稚武が言う。


「わかったら、お前、桐生兄に変な気を持つなよ。五十鈴姉は美人で優しくて、お前とは大違いなんだからな」

「稚武」


 桐生が呆れたように叱りつける。しかし咲耶は傷つくよりも怒るよりも、軽蔑したような眼差しで稚武を見た。


「馬鹿なことを言わないでくれる? わたしは男なんか大嫌いよ」


 きっぱりと言われて、さすがの二人も呆気に取られた。じゃあなんでついて来たんだ、と稚武は問おうとしたが、苦笑いの桐生に止められた。


「しかたないさ。巫女の里にいたっていうくらいだからな。お前も乱暴な態度は慎めよ」


 それから幾日か、道に沿って進むと、今までと比較にならないほど大きな里を山の下に見つけることができた。


「あれが都か」


 ぐるりと羅城に囲まれたその門へは一本道になっており、荷馬を連れた人々が吸い込まれるように入っていく。市が立っているらしい。


 都のすぐ向こうは、陽の光にきらめく青い海だった。


「あのばーさん、何が川を上ったところだ。まるっきり逆じゃないか」


 咲耶と出会う前に道を尋ねた老婆に対してらしく、憤慨して稚武が言った。桐生はやはり苦笑する。


「聞いた相手が悪かったな。確かに、あのばあさんは耳が悪そうだった。里の外で一人でぼうっとしているような人だったものなぁ」

「ちぇっ、もう二度と倶馬曾のやつには道をきかん」


 つい口走った稚武を桐生がごんと殴る。ここは倶馬曾、まがりなりにも秋津の敵国なのだ。万が一にも身元がばれたりしたら、やはり生きて帰ることは難しいだろう。


 桐生はつばを呑み込んで横目で咲耶をうかがったが、幸いにも彼女は茫然として海を眺めていて、二人の会話などまるで耳に入っていなかったようだった。咲耶は初めて海を見、感動して頬を上気させていたのであった。


 目立たないためには人ごみにまぎれるのが一番ということになって、三人は意気揚々と山を下りた。ふもとで荷馬を引いた一団と道連れになり、一本道を明るいおしゃべりを交えながら進む。


 こういうときが、稚武の人当たりのよさが最も発揮される瞬間なのであった。


「そう、それで、言われたとおりに川を上っちまったわけなんだよ。いやぁ、参った、参った」


 失敗談を明るく話す彼に、初対面の商人たちもすぐに親しみを覚えたらしい。すぐに色々な話をしてくれた。荷の絹は大陸渡りだとか、ふるさとに子供が四人いるとか。


 そして話題は、今向かっている日向のことになった。


「どうやら、日向ヒムカ阿依良アイラ軍に占領されているらしいね」


 馬を引く商人の一人が、あまり感情を見せずに言った。


「けれど、民の暮らしは前より断然豊かになったと聞くよ。阿依良軍も乱暴なことはしないし、商いもやりやすくなったって言うじゃないか」

「そんな馬鹿な」


 思わず咲耶が叫んだが、桐生がすぐに口を塞いだ。不審そうに見られても、にこりとした笑みでごまかす。


 商人たちは饒舌に語り合った。


「今の倶馬曾はどこもそうさ。阿依良軍が来てくれたおかげで首長が追放されて、税が半分になったっていう郡がいくつもあるよ」

「わしらのふるさともだ。だから旅がやりやすくなって、こうやって出てきたというわけじゃ」

「そうそう、それに、クマソタケルはお強いからなぁ。秋津が攻めて来るっていう噂だが、おらたちには穂尊ホタカさまがついとる。いやぁ、心強いことだ」


(穂尊!)


 咲耶は心の中で叫んだ。憎い、憎い、あの穂尊。なぜ彼らは、女王を殺した反逆者を讃えているのだろう。


「そうだ、穂尊さまはまだ日向におられるかのう。いらっしゃるなら一目、ご挨拶にうかがいたいものだなぁ」


(信じられない……)


 実際に日向の市に入ってみると、咲耶は頭がおかしくなるかと思った。もしくは、すでにおかしくなっているのか。


 市は豊かな人々で溢れていた。さすが都だけのことはある。広い辻には所狭しと色鮮やかな品物が並べられ、女は老若を問わず着飾ってはしゃいでいた。男たちも剣やら矛やらの前で品定めし、上機嫌に主人と値の交渉をしている。


「へー、こりゃすげぇや」


 稚武も腕を組んで感心していた。家や道の整備はまるでなっていないが、活気だけなら石上の都の市に勝っている。にぎわう彼らの、目の輝きようが違うのだ。軍の占領下に置かれた都とはとても思えなかった。


 さらに咲耶が眩暈のする思いで聞いていたのは、にぎわいの中の人々が、これでもかというほど穂尊を褒め称えているものだった。武勇にすぐれ、民を思いやる、頼もしき阿依良の長。それが皆の言う穂尊だった。


「こんな、馬鹿なことがあるの……」


 あまりのことに足元がふらつき、咲耶は桐生に支えられてやっと立っていた。


「どうして。穂尊は陽巫女さまを殺したやつなのよ。陽里を焼き滅ぼした、倶馬曾の敵じゃないの。なのに、なんで」


 明るい歓声の溢れる市の中で、咲耶だけが異質だった。おかしいのは自分、狂っているのは自分の方だと、思わずにはいられなくなってしまうほど。


「さてと。――桐生兄、俺たちはさっさと風羽矢を探そうぜ」


 至極当然のように言い放った稚武に、桐生がぎょっとする。


「ちょっと待てよ。咲耶をこんな状態のまま放っておくつもりか」

「え?」


 稚武は声を低くして言った。


「……だって、最初から、ここまでっていう話だったじゃないか。この上まだ面倒を見てやるつもりかよ」

「どうしてそんな薄情なことが言える。今日のお前、どうかしているぞ」

「いいから……早く風羽矢を見つけたいんだよ!」


 突然癇癪を起こしたように稚武が怒鳴った。しかしすぐに我に戻ったのか、ハッと口を押さえる。そして、唖然とする桐生の目から逃げるようにうつむいた。


「……だって……もう、すぐそこに、風羽矢がいるかもしれないんだ。そう思うとじっとしていられない。早く迎えに行ってやりたいんだよ。こんなところ、あいつの居場所じゃないんだから」


 言い切ってから、やっと落ち着いたように稚武は息を吐いた。


「悪い……、どうかしてた。――うん、桐生兄は咲耶の面倒を見てやっていてよ。宮へは俺が一人で行ってくる」

「待て」


 そのまま立ち去ろうとした稚武の袖を慌てて掴み、幼い子に言い聞かせるように桐生は言った。


「落ち着け、稚武。……そうか、気が急いているんだな。そうだよな、お前だって、それだけのためになりふりかまわずここまで来たんだもんな。気づいてやれなくて悪かった。――だけど、もう少し冷静になれ。ここで離れるのは得策じゃないだろう。本当はわかっているだろう?」

「桐生兄……だって」


 稚武は子供が涙をこらえるような顔をしていた。彼もそんな顔ができるのだ、と咲耶はなんだか不思議な心地で見ていた。そんなふうにぼうっとしておいてから、いきなり正気づいて急いで言った。


「ごめんなさい。わたしは大丈夫よ。だから――わたしも一緒に、宮まで行く」

「咲耶」


 目を丸くする桐生の横で、咲耶と目が合った稚武は間の悪そうな顔をした。

 咲耶は気丈に言った。


「いいから、早く行きましょう。弟を探すんでしょ、わたしも協力するわ」


(……それに、穂尊もそこにいるかもしれない)


 願ってもいない仇討ちの機会だ、と咲耶は思った。禍の王を打ち倒すには神器が必要かもしれないが、穂尊だけなら懐剣一本でこと足りるはず。少しでも早く、怨みを晴らしてやりたい。


(あんなやつ、もう一秒だって生かしておけない。そんなこと許せない……!)


 陽巫女の血を浴び、微笑んでみせた男の顔を、咲耶は炎の記憶と共に思い出していた。

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