熟田津の湯

第26話


 色々な夢を見ていた。


 稚武わかたけは半透明の卵のなかで丸まり、赤い川を流れていた。やがて見知らぬ男が川をせきとめ、稚武の卵を拾い、殻をやぶった。そして稚武が殻を出ると、きらびやかな宮殿で美しい女性に抱き上げられた。稚武は赤ん坊だった。女性は女神のように微笑んでいた。


 かと思うと、景色は一変して、稚武は真っ赤な部屋に突っ立っていた。部屋を染めているのは血だった。目の前には、こときれているらしい男が倒れ伏し、彼を手にかけた若者が深くうなだれていた。若者は血まみれの大刀たちを手にしていた。


 『わたしだよ』と大王おおきみが微笑む。『宮古みやこ……っ』と髪を振り乱した中菱姫なかひしひめが泣き喚めく。だが稚武と目が合った瞬間、彼女は五十鈴いすずになっていた。手に赤ん坊を抱いて、激しく稚武を睨む。『返して、桐生きりゅうを返して!』。


 やがて世界が黒く塗りつぶされていき、次に見えた光景は嵐の海にたつ崖だった。軍隊に追い詰められた男女が、固く抱き合う。稚武は初めて男の言葉を聞いた。


『残念だったな、弟よ。お前の思い通りになどさせるものか。神器はすでに秋津あきつを離れた』


『見ているがいい、あの鏡と玉は、いつか必ずお前たちの血筋を絶やす。禍を降らせる。これは呪だ、お前への最後の言霊だ、穴穂あなほ


(薙茅皇子かるかやのみこだ……)


 確信をもって稚武は思った。


(大王の、兄上様だ)


 初めてその顔を見た。だが、薙茅の腕に抱かれた女の顔まではうつむいていて見えない。稚武がぼんやり見つめていると、彼女はその視線に気づいたようにゆっくりと顔をもたげた。もう少しで見える、と思ったとき、稚武はものすごい勢いで空に昇った。


 気がつくと、稚武は銀の牝鹿の背に乗っていた。真白い雲をくぐり、風のように空を翔ける。薄雲の下には青い海が見え、やがて緑と茶のだんだらの大地が近づいてきた。


 心は晴れやかで、気の向くままにどこまでも飛んでいけそうだった。どうせなら海を越えて行けるだけ行ってみよう、と思ったとき、稚武は後ろに誰かが乗っているのに気づいた。


「風羽矢?」


 絶対の自信をもって稚武は訊ねた。雲が途切れ、世界が開ける。そのとき、後ろの人物が答えた。


「違うわ」





 雲を飛び出したと同時に、稚武はぱっちりと目を覚ました。その瞬間には脈絡なく見ていた夢の大半を忘れてしまっていた。


 ただ、心のままに空を翔けぬけた爽快さだけが感覚として残り、いつになくさわやかな目覚めだった。


 何の気負いもなく半身を起こし、稚武は無防備に両手を広げて大きくあくびをした。眠った体勢が悪かったのだろうか、体のあちこちが痛む。


「あー、よく寝た」


 言った瞬間、すぐ隣でけたたましい笑い声がはじけた。高く、若い女の声だ。びっくりして見やると、そこでは年若い娘が腹をかかえて笑い転げていた。


「あはははは、あははっ。何それ、何それ! 『よく寝た』ぁ?」


 ぷーっと彼女はさらに吹き出して、目に涙を浮かべながら盛大なまでに笑った。稚武はしばらく呆気に取られていたが、ハッと我に返ってあたりを見回す。


 まったく見覚えのない小部屋だった。きちんとしたつくりにしては、豪壮な小間物はなく、生活感ただよう住まいだった。石上いそのかみの宮よりは、泊瀬はつせの里の屋形を思い出させる。


 部屋にいるのは、なおも笑い続けている一人の娘と、稚武の隣で横になって目を閉じている少年――風羽矢だった。


風羽矢かざはや


 稚武は慌てて彼をゆすり起こそうとした。


「おい、風羽矢、風羽矢」

「こらこら、やめなさい。無理に起こしたらかわいそうでしょう」


 女はようやく笑いやみ、涼やかな声音で言った。稚武は寝台の上でさっと身構える。


「誰だ、お前」

「まァ、よくもそんな尊大な態度を取れるわね。命の恩人に向かって」


 彼女は呆れたように眉を歪め、腰に手をあてて鼻を鳴らした。


「恩人?」


 ここでようやく、稚武は自分たちが荒れ狂う海に投げ出されたことを思い出した。だが、それから口をついた言葉もたいして変わらなかった。


「お前……誰だ? ここはどこだ」


 いくらか神妙な物言いになったためか、女は満足したようににこりと笑った。


 彼女は若いとはいえ、稚武や風羽矢よりいくらか年上で、そのように笑うと妙に艶っぽい女性であった。桐生と同じ年くらいだろうか。


「あたしの名前は紅科くしな。ここは熟田津にきたつの里よ」

「……ニキタツ?」

伊予いよの西の港。知らない?」

「伊予だって」


 稚武は驚きの声を上げた。


 伊予は四国の、狭戸内せとうちに面する側の西の国だ。安芸を目指していたはずの稚武にとって、それでは狭戸の海を縦断したことになる。


 彼は目を見張り、信じられないという顔で紅科を凝視した。彼女はさらに愉快そうに口元を歪める。


「あんたたちが浜に上がったのは昨日よ。お腹すいたでしょう、何か食べる?」

「……何者なんだ、お前」


 稚武は警戒を解かなかった。紅科は笑って首をかしげた。


「あたしはただの田舎の娘よ。――それより、あんた、他人のことを訊くより先に名乗ったらどうなの。……それとも」


 彼女はつややかな光を宿した瞳を細めた。


「気安くは名乗れないお立場?」


 稚武は無言で顔をこわばらせた。それからやはり、彼女を睨んだ。――まさか、知られているのか。自分が日嗣であることを。


「……俺は、稚武」


「ふぅん。で、さっき、そっちの子のことはカザハヤって呼んでいたよね。お友達?」


 稚武は長く答えなかった。どこまでこの紅科という女を信用するべきか測りかねていた。もとより、女という生き物はみんな未知の生命体なのである。


 しばらくして、稚武はやっと口を開いた。


「他に……、俺たちの他に、誰か、ここに流れ着いた奴はいないのか」

「いないねー、残念ながら」


 彼女は肩をすくめた。


「なに、あんたたち、船が難破したわけなの? ……熟田津を知らないってことは、伊予の人間じゃないみたいだし?」


 緊張している稚武の寝台に歩み寄り、紅科は吐息がかかるほど近くまで彼を覗き込んだ。


「このあたりじゃ見かけない顔よね。……喜びなさいな、褒めてるのよ。初めて見るわ、こんなイイ男。惚れ惚れしちゃう」


 稚武は不快を感じるより先に困惑して身を引いた。こんなにも直球で、それも初対面で見てくれを褒められたことなどさすがになかったのだ。


「あらま、初心うぶなのね」


 彼女は楽しげにころころと笑った。そのとき、どこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえた。なんの遠慮もなしに元気なさまで泣いている。


「おっと、起きちゃったか」


 紅科は顔を上げ、「大人しくしてなさいよ」と稚武に言い残して部屋を出て行った。


 稚武は、寝台のすぐ傍らに置いてあった神器の剣を見つけ、慌てて両手で掴み抱えた。さらに胸の薄紅色の御祝玉みほぎだまに気づいて強く握り締める。何より大切なこの二つを失わなかったことに、深く安堵した。


 それから、自分の体が痣だらけであることに今さら気づいた。船の上を転がったときにあちこちぶつけたらしい。


 さてどうしたものかと稚武が途方に暮れ、いっこうに目覚める気配がない風羽矢をつつき出したころに、幼い泣き声がぴたりとやんだ。それからすぐに紅科は部屋に戻ってきた。手に、安らかに寝入っている赤ん坊を抱いて。


 彼女はにこにことして言った。


「それからもう一人紹介するわ。この子はあたしの妹。名前は宇受うずちゃん。かわいいでしょう」

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