第18話



(……遅いな)


 桜に寄りかかったままの風羽矢かざはやは、殿の階段に座っている文官をちらりと見た。彼はこちらを向いており、目が合うとにこりと笑んで見せた。

 無視するわけにもいかず、風羽矢は口を開いた。


皇子みこ、遅くありませんか」

「そうですか?」


 文官は愛想良く答えた。風羽矢はなんとなく不自然に思う。


「皇后の殿はそんなに奥にあるんですか?」

「ええ、まぁ…」


 文官は少し考えるように視線を転がし、それからにやっと笑った。


「ああ、でも、もしかすると朝方までお帰りにならないかもしれませんねぇ。皇子はお若いですから」


 風羽矢の眉がぴくりと動く。


「それは――どういう意味です」

「怖いお顔をなさるな。別に皇子を傷つけようというのではないのですから。むしろ、良い思いをなさっていることでしょうよ」

稚武わかたけに何を」


 文官は目を細めて笑っていた。


「野暮ですね。男が女の部屋へ忍んで行って、することなど決まっているではありませんか」


 風羽矢は答えることもせずに駆け出していた。だが瞬時に文官に塞がれる。


「どいてくれ」


 顔を真っ赤にする風羽矢の腕を掴み、彼は低い声で言った。


「おろかな、発覚すれば事ですよ。皇后も皇子もただではすまない。あなたは黙っていればそれでいいのだ」

「稚武はそんなことをする奴じゃない。自分たちのしていることがわかっているのか」

「わかっておりますとも」


 文官は冷たい目をして言った。


「哀れではありませんか、皇后でありながら大王に見向きもされないなど……。せめて母になりたいと申しておられるのです、次の日嗣ひつぎの、母君に。どこの馬の骨とも知れぬ男を相手にするよりましでしょう」

「なっ…」

「ふふ、そうなれば、わたしもあなたも格別な待遇を受けることになるでしょうよ。そう、黙ってさえいれば…」


 風羽矢を覗き込む目は共犯者を求めて輝いた。だが風羽矢はきびしく彼の腕を振りほどく。


大王おおきみに申し上げる」


 そう宣言したときだった。背中側の回廊から薫るような声がかかった。


「おや、風羽矢ではないか。そのようなところで、何を騒いでいるのだ」


 文官は一瞬で青ざめた。風羽矢が振り返ると、声の主は大王だった。隣には久慈くじもおり、さらに後ろには多くの役人がつきしたがっていた。


「大王」

大泊瀬おおはつせの宮で休んでいると思っていたよ。それとも、あの子もまだこちらにいるのか。これからおとなうところであったのに」


 のん気な調子の大王であったが、久慈はすぐに風羽矢の異変に気づいたらしくこちらに駆け寄ってきた。


「風羽矢、皇子はどちらに? なぜおそばを離れているのです」

「師匠、稚武が」


 風羽矢が告げるよりも早く、奥宮おくのみやのほうから悲鳴が上がった。女性たちの甲高い叫びが続けざまに響く。風羽矢は不吉な予感に我を忘れた。


「稚武」


 奥宮に向かって駆け出した風羽矢を、久慈が慌てて追いかける。


「お待ちなさい、風羽矢。一体どうしたというのです」

「罠です、罠にかかった……っ」


 風羽矢の足は速く、久慈も容易には追いつけなかった。何事か、と周りの衛兵や役人たちも集まってくる。風羽矢はすでに奥宮の域に入り込もうとしていた。まずい、と久慈が危ぶんだとき、やっと彼に追いつくことができた。だがそれは追いついたのではなく、風羽矢の方が足を止めたのだった。


「風羽矢、何が―」


 あったのです、と舌が回るより先に、久慈は目の前の光景に驚愕して声をなくした。我が目を疑っているのは風羽矢も同じだった。正面の広場の真ん中で、中菱姫なかひしひめが稚武を羽交い絞めにして刃を向けていたのだ。


「稚武」


 悲鳴に近い声を上げ、風羽矢が走り寄ろうとする。


「寄るでないよ!」


 ぴしゃりとした中菱姫の厳しい声に、誰もが身を強張らせた。


「寄るんじゃない、皇子が死んでもいいのかしら……いいわね、寄らないで!」


 中菱姫は血走る眼を見開き、声を荒げた。ありえない豹変だった。いつも温和な皇后がまさか、と誰もが信じられずに立ちすくんでいた。


「稚武……!」


 風羽矢は動けずに彼を凝視していた。刀を持っているとはいえ、相手は力ない女だ。稚武がやすやすと捕まるはずがない。しかし首筋に刃を当てられた彼は、顔を赤くしてぐったりとしていた。まさか何か盛られたのか。

 思考回路を失う風羽矢の肩に手を置き、久慈が落ち着いた声音で堂々と言った。


「中菱姫、なんのご冗談です、あなたさまが皇子に刃を差し向けるとは。皇子をお離しなさいませ」


 中菱姫は敵意をむき出しにして言った。


「うるさい、お下がり! わらわは皇后よ、大王以外の指図はうけない」

「姫――」


 なおも久慈が食い下がろうとしたが、その必要はなかった。


「これはいったい何事だ」


 現われたのは大王であった。彼は眉根をきつく寄せ、髪も衣も乱した妻を睨んだ。


「……何をしている、中菱。しばらく見ぬ間に気でも違ったか」

「大王……」

 手ひどい言葉を投げられたにも関わらず、中菱姫は年端もいかぬ少女のように微笑んだ。


「お久しぶりです、我がなせの君。ああ、本当に、お顔を見るのはいつぶりのことか。お声を聞くのはいつぶりのことか…」

「大泊瀬を離しなさい。何を錯乱しているのだ、そなたらしくもない」

「いいえ」


 彼女は穏やかながらもきっぱりと首を振った。


「この皇子はわらわの子ではありませんもの」

「当然だ。大泊瀬は宮古みやこの生んだ子だ」

「そう…そして、わらわを拒絶した。ですから、殺めなくては」


 夢を見ていたような瞳に光がさした。同時に刃も鋭くきらめく。


「やめよ。そなたが申しているのは逆恨みだ」

「いいえ……いいえ!」


 中菱姫は涙を流して大王に訴えた。

「大王、なぜこの子を日嗣に据えたのです…。なぜ、宮古の子を、今さら」

「そなたにも他の妃にも子がない。大泊瀬はたった一人の皇子だ。継がせて当然ではないか」

「子がないのはわらわのせいではありません!」


 彼女は叫んだ。


「それはすめらぎ御祝玉みほぎだまが失われたせいでしょう。そうなのでしょう? 大王の兄上様が奪っていってしまったからではありませんか。神器の『玉』――八尺瓊勾玉やさかにのまがたまを」

「中菱」


 大王の険しい目にも彼女は怯まなかった。


「それでも、以前は、気休め程度とはいえたまのお越しもあったものを。この子が来てからの三年、あなたが一度でもわらわの殿の階段を上ったことがありましたか。わらわに触れたことがありましたか」


 中菱姫は悲痛な声で責め立てた。


「わらわが病に臥せったと申しても、一度の見舞いにもいらっしゃらない。公の式典に無断で席を欠いても、お叱りさえない。わらわなど、もういらぬとおっしゃるのでしょう。宮古の子がいるから…宮古の代わりを見つけたから」

「いい加減にしろ」


 大王は低く言った。


 彼が本気で怒っているところを、風羽矢は初めて目にした。それまで呆然として聞いていたからか、頭の方はだんだん落ち着きを取り戻してきていた。ハッと正気づいて辺りを見回し、同じように息を呑んで見守っている衛兵の中から弓矢を背負っている者を見つける。

 これしかない、と決心は一瞬だった。わめき散らす中菱姫を囲む人ごみの中をもぐり、風羽矢は弓を持つ兵へのもとへと向かった。

 気が動転している兵士から半ば無理やり弓矢を借りると、風羽矢は人だかりから抜け出した。そしてぐるりと宮の外側を回り、中菱姫の背中側の殿に上る。


 その姿に気づいたのは久慈だけであった。何をしようというのか、まさか…


 風羽矢は殿の屋根の上に膝をついて矢をつがえた。青くなる師匠の顔など、彼の目には一部も映っていなかった。風羽矢に見えるのは稚武と、彼をとらえる狂女だけだ。


 きりきりと引かれるやじりの彼方で、中菱姫はなおも声を荒げていた。


「わかっております、わらわはどうあがいても、大王の『鞘』にはなれなかった。けれど、こんなのはあんまりです。わらわは父を殺されても兄を殺されてもお恨みせずに、心を尽くしてここまでついて参りましたのに。それでもあなたは、わらわを見ては下さらない。決して、決して…――宮古の子がいる限り!」


 叫んで女は刃を振り上げる。その瞬間に矢は放たれた。ヒュンと真っすぐに風を切った鋭いやじりは、高い音を立てて皇后の手から懐剣を弾き飛ばした。


「あっ―」


 カラン、と懐剣が地に落ちたと同時に、すぐさま久慈が皇后を取り押さえにかかる。体格のよい彼にかかれば、か細い中菱姫など組み敷かれるのはあっという間だった。


「大泊瀬」


 解放されて倒れこんだ稚武を大王が抱き起こす。稚武は苦しそうに、熱い呼吸を喉でくりかえしていた。意識は朦朧として、立つこともままならない。


「しっかりしなさい、何か盛られたのか。…熱が」

 上気した稚武の頬に手を当てて、大王が顔をしかめる。


「大丈夫です…」


 稚武は辛い吐息の中で言った。


「変な香にあてられただけです…心配、いりません」

「だが」

「平気です」


 稚武はなんとか一人で立ちあがった。しかし足元がふらつく。ぐらりと傾いた彼を支えたのは、駆け戻ってきた風羽矢だった。


「稚武…っ、大丈夫かい」

「おう、悪い…助かった」


 ヘヘ、と稚武は力なく笑った。良かった、と風羽矢は安堵のあまりわずかに涙ぐんだ。稚武は風羽矢の肩を借りて立ち、大王に頭を下げた。


「大王……ご迷惑を、かけました。なんてお詫びしたら」

「そなたが詫びることは何もない」


 大王は本気で稚武を思いやって言った。


「ここはわたしに任せてよいから、早く東宮に戻ってお休み。無理をしてはいけない。すぐに薬湯を運ばせよう」

「いいえ……っ、宮には誰も近づけないで下さい」


 稚武は即座に拒否した。


「本当に、俺は大丈夫ですから。毒ではないんです。独りになって、頭を冷やせば…落ち着きます」

「まことか」


 大王は心もとないように言ったが、稚武はただ首を振った。


「では、失礼します。……落ち着いたらすぐに、中宮に参ります」

「ならぬ。今は己の身をいといなさい。会見などはまた後でよい。そもそも、そなたはまだ遠征から帰ったばかりであったろう。今夜はもう東宮にいなさい。今無理をしては、後でたたられる」


 真摯な瞳で言い聞かせる大王に、稚武は情けないと思いながら頭を垂れた。


「すみません……ありがとうございます」

「失礼します、大王」


 風羽矢もぺこりと頭を下げた。彼は稚武が心配で堪らなく、そのまま急いで東宮に連れ帰った。

 大王は二人の後ろ姿を見送り、それからふぅと息をついた。涙の声は背中からあった。


「大王ぃ……っ」

 衛兵に両手をふさがれて自由を失った中菱姫は、嗚咽をもらして乱れた髪の隙間から大王を呼んだ。


「大王、大王、こちらを向いて。わらわを見てください。大王……ッ」


 大王はゆっくりと妻を振り返った。周囲の人間が凍てついてしまうほどに冷たい目で。だがそれでも、皇后は救われたように顔を明るくした。


「大王……!」

「……中菱」


 怒りよりも嫌悪をあらわにした声だった。


「もはやいかなる言い訳もきかぬ。――東への流刑に処す。 本来なら極刑でも足りぬところだが、そなたも皇族のはしくれだからな…仕方ない」


 中菱姫はきょとんとした。


「……大王? 何をおっしゃっていますの。わらわはあなたの妻です。妻は夫のそばにいるもの―」

「冗談も大概にしろ。恥知らずが」


 大王は低く吐き捨てた。まるで汚いものを見るような――侮蔑の果ての目をして。


「二度とわたしの前にその薄汚い姿をさらすな」


 大王に背を向けられて、中菱姫はさっと青ざめた。そしてわななく唇で何かを言おうとする。


「あ…、あぁ…っ」

「連れて行け」


 大王の命に、取り囲む衛兵たちが「はっ」と答えて皇后の手を引いた。


「大王!」


 中菱姫は男たちの手を振り解こうと必死に抗い、なおも大王の背中に呼びかけた。顔は涙と絡みつく髪でぐちゃぐちゃだった。


「大王、大王いぃ! なぜです、なぜわらわを…っ」


 冷たい沈黙だけが返る。大王はもう振り向きもしなかった。中菱姫はいっそう激しくわめいた。


「愛してると…愛していると言ってくれたではないですかあぁ…っ。大王、大王ぃ」


 両手を取られて引きずられながら、中菱姫はいつまでも叫んでいた。やがて愛に壊れた女の姿が桜吹雪の向こうへ消え去り、人々が散り散りになっていく中で、大王はつぶやいた。


「…愛していただと…? この、わたしが?」


 遠い記憶の彼方で、もしかしたらそう言ったこともあったか、と思う。本当の愛を知らなかった昔に、安易にその言葉を口にしていたのかもしれない。だが、もし彼女がその薄っぺらい言葉を信じたからこそ狂ってしまったのだとしても、もう大王には興味のないことだった。稚武に刃を向けた女になど、一片の哀れみも持ち合わせていない。


「大王」


 立ち尽くしている彼に、久慈が走りよって声をかけた。


「ともかく、我らも宮に戻りましょう。……あなたもお疲れのようです」

「久慈……。ああ、そうだな」


 大王はどこかすっきりとした顔をして頷いた。それが久慈にはどうも不気味に思えた。


 大王は思う。――自分が愛という名の心を傾ける女性は、たった一人。宮古だけだ。そして今は、大泊瀬皇子に。大王は改めて自覚し、それだけで全てを納得してしまった。


 久慈はひそりとして言った。

「しまったことになりましたね。まさかこの場で、皇后が『玉』のことを明かしてしまうとは」

「…ああ」


 大王は言われて思い出した。少し鋭い目をして、彼は意志の強い声音で言った。


「しかし、いつかは言わねばならぬことであった。仕方あるまい、大泊瀬が回復しだい、玉と鏡の話はしてしまおう」


 久慈は緊張した面持ちで頷き、大王は表情を陰らせた。


「むしろ、もっと早く話しておくべきだったか」

「ええ、そうかもしれません。……ですが、風羽矢には?」

「話す」


 大王はきっぱりと言った。


「風羽矢にも知らせておく。…あの子も、そう、呪いの在りかを知っておくべきだ」


 そうですね、と久慈は前向きに納得した。


「やはり、いざというときに機敏に動けるのは風羽矢のようです。あの子は皇子のためならどんな困難でもやり遂げてしまいそうですね。今回は、まぁ、少し無茶をしてしまいましたが。万一、矢が皇子にかすりでもしたら大変なことになっていました」

「ああ……、そうだな」


 大王は気の入っていない返事をした。彼の深い瞳の中で、風羽矢に対する親しみには黒い影が落ちていた。

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