第17話


 満開の桜の中、大泊瀬皇子おおはつせのみこの一行は凱旋を果たした。出迎えた民は歓喜し、都は頼もしい皇太子への歓呼の声で溢れた。特に若い娘たちの興奮の具合には空恐ろしいものがあった。


 宮に戻ってこざっぱりとした服に着替え、稚武わかたけたちは大王おおきみと面会した。


「どうであった、あずまは」


 稚武はにこりと一言で返した。


「星がきれいでした」

「そうか」


 大王があんまり楽しそうに笑ったので、周囲の官人たちは呆気に取られた。


「何にせよ、長旅で疲れているだろう。久々の都だ、今日はゆるりとくつろぐが良い。そなたたちが出かけている間に、倶馬曾クマソ討伐軍の徴兵は進めてある。思ったよりも早く出立できるかも知れぬ。そなたらも準備しておけ」

「はい。では失礼します。また後ほど、ゆっくりお話したいと思います」


 それから稚武と風羽矢かざはやが広間から立ち去り、殿を降りたときだった。文官らしき青年が駆け寄ってきて、二人に敬礼して告げた。


「謹んで申し上げます。皇子、中菱姫なかひしひめ様が労いのお言葉を申し上げたいとのことでございます。奥宮おくのみやの眉環殿までお越しくださいませ」

「皇后が?」


 中菱姫は大王の正妻であり、現在の皇后だ。稚武にとっては一応義理の母である。出自は大王家の傍系らしい。最近は体調が思わしくなく、公式の場にもあまり姿を見せなかった。


 文官は含みのあるような笑みでひそっと囁いた。


「ごく個人的に、二人きりでお話がしたいとのことでございます」


 稚武はぱちくりしたが、風羽矢が顔をしかめて言った。


「皇子とはいえ、奥宮に立ち入るのは礼を欠くことです。お話があるのなら、姫様が中宮までいらっしゃるべきでは?」


 奥宮というのは後宮のことで、大王以外の男の立ち入りは固く禁じられている。皇子といえど、十七歳ともなれば例外ではなかった。


 文官は人目をはばかりながら小声で言った。


「姫様はお体の具合が思わしくないようで、お部屋から出ることさえままならないのです。お許しくださいませ」

皇子みこ、聞くことはありません。皇后ともあろうかたが、奥宮に男子を招くなんて。好ましいことではないと思います」


 文官は冷めた目で風羽矢を見た。


「聞き捨てなりませんね。中菱姫様のなさることに文句をつけるおつもりか。姫様はただ、皇子にお会いして直に労いたいと申しておられますのに。問題はありません。奥宮のことはすべて、皇后である姫様の一任でありますから」

「しかたないな、行くよ」

「稚武――、いえ、皇子」


 風羽矢は眉根をきつくする。稚武はのん気に答えた。


「大丈夫だろ、ちょっとぐらい。挨拶してくるだけだしさ。せっかく呼んでいただいたのに無下にはできない」

「でも」

「だいじょーぶ、だいじょーぶ」


 どう見ても事を深刻に考えていない口ぶりである。


 稚武は中菱姫を何度か遠目にしたことがあるが、印象としては絵に描いたような大人しい女性であった。声を聞いたのは一言か二言くらいだ。だが暗いわけではなく、いつもおっとりと微笑んでいる。もう若くはないが、美しいという評判が廃れないのも頷ける。


「では、皇子様だけいらしてください。長くはかからないでしょうから、側近のかたはここでお待ちくださいませ」


 文官が言うと、彼の後ろに控えていた女中がぺこりと頭をさげて「ご案内いたします」と言った。稚武にも風羽矢にも見覚えのない顔であったから、多分奥宮に仕えている娘なのだろう。


「じゃあ、行ってくる。すぐ戻るよ」


 気をつけて、と風羽矢は目だけで訴えた。だが上機嫌の稚武を見るに、うまく伝わらなかったらしい。


 風羽矢は歯噛みし、いっそこっそりついて行ってやろうかとも思ったが、それはできなかった。意外なことに、文官は奥宮について行かず、にこにことして殿の階段に腰かけたのだった。


「まぁ、お座りください。そこに突っ立っていることもないでしょう」

「……あなたは行かなくて良かったんですか」


 風羽矢は不審をあらわにしつつ、殿のそばに立つ桜の樹に寄りかかった。


「ええ、わたしも男ですから、奥宮への立ち入りは許されておりません。もちろん、あなたも」

「わかってます」


 ぶっきらぼうに答え、風羽矢は彼から顔を背けることでこれ以上の会話を拒否した。はらりと落ちた薄紅の花びらが頬を撫でる。


 不自然だ――なぜ、声をかけてきたのがこの文官なのか。

 稚武は確かに奥宮に行ってしまったから、彼らが皇后の名を騙っているということはないだろうが。


 …しかし、下手な罠だとしても大事には至るまい。なにしろ稚武の腰には神器の剣があるのだ。女ばかりの奥宮で、稚武を傷つけられる者がいるはずがない。


 風羽矢は瞑目して腕を組み、ため息をついた。文官がずっと薄く笑っているとも気づかずに。



 稚武は初めて奥宮に足を踏み入れた。そこは大王のためだけの女の園であるという噂を聞いていたが、みんなが言うほど華やかではなかった。まるで活気がない。ひとけも少ないし、掃除も行き届いていないようだった。


 後宮の主である皇后が臥せっているから宮全体が暗く息をひそめているのだろうか、と稚武は女官に導かれながら考えていた。


 やがて、中でも奥側の殿に着くと、女官は「お入りくださいませ」と稚武を促した。この娘もまた明るさというものがない。無愛想というよりは、生気そのものが欠けているように思えた。


 稚武は不気味に思い、女はやはり奇妙な生き物だ、と彼なりの感想を抱いて殿に上がった。


 中に進むにつれて香の不思議な香りがたち込め、そのうち広い鈍色の几帳が現われた。このすぐ向こう側に皇后がいるのだろう。


 そこまで来て、固い表情の女官が告げた。


「お連れ申し上げました。…大泊瀬皇子様にございます」


 几帳の向こうの声は微笑んでいた。


「ああ、大儀であったね。お前はお下がり」

「はい……失礼いたします」


 娘は一礼するとそそくさと部屋を出て行った。取り残された稚武は中菱姫と二人きりになってしまい、何となく居心地が悪いと思った。


 中菱姫はいっそうほがらかな声で言った。


「よくいらっしゃいました、大泊瀬皇子」

「はい。中菱姫、お体の加減はいかがです。どうぞ養生なさってください」

「あら、お優しいお言葉」


 ふふ、とあでやかに微笑む気配がした。


「東への遠征は骨が折れたでしょう。ここでゆっくりとお休みなされまし」

「いえ……」


 厚意は素直に嬉しかったが、稚武は丁寧に断った。


「外に待たせている者がおりますから。それに、やはり、男がここに長くいては皆がよい顔をしないでしょう。挨拶を申し上げにうかがっただけですので、俺はすぐに―」

「そうおっしゃらずに」


 向こうで中菱姫が身じろいだのか、几帳が揺れる。ほんのわずかな隙間から、さらに濃い薫物の香りが稚武を襲った。嗅ぎ慣れない異質な匂いに、一瞬くらりと眩暈を覚えた。どうもこの香は苦手だ。やはり長居はしたくない、と思った。


 せっかくですが、と稚武が言うより早く、中菱姫が上ずったような声音で言った。


「ああ、そうです……どうぞこちらへいらっしゃいな。几帳きちょうをくぐって」

「え――いいえ、それは。他の者が見ればいらぬ誤解を受けます」


 さすがの稚武も、これ以上は抵抗があった。奥宮にいることだって本来は許されないというのも、きちんと分かっている。さっさと済ませてしまおうと思っていたのに。


 困惑する彼をよそに、中菱姫は吐息を熱くした。


「何を今さら。ねぇ、遠慮なさらないで……。奥宮でわらわに逆らえる者はおりませんのよ。大王に漏れる心配はありませんわ。だから、こちらへ」

「な」


 稚武はさっと顔色を変えた。だが几帳越しの中菱姫には分からなかったらしい。声がいっそう甘くなる。


「どうか安心なさって。いいのよ――あなただって女を知らないわけではないでしょう」

「――失礼します!」


 稚武は急いで立ち去ろうとした。だが、几帳がばさっと翻り、青白い中菱姫の手が彼の衣を掴んだ。


「わらわの誘いを断るおつもり?」

「何を考えているんだ!」


 稚武は怒鳴った。しかし恐怖さえ覚えていた。


「あなたは大王の后だろう。こんな真似が許されると思っているのか」

「ふふ、お若いのにかたいことを言うのね。でも口ではそう言ったって、どうかしら、体の方は…そろそろ良い気分になっているんじゃなくて?」


 中菱姫は几帳から這い出て、うっとりとした顔で稚武に迫った。稚武は彼女が何を言わんとしているのか一瞬不思議に思ったが、すぐにハッとした。


 この、異様に鼻をつく甘い香り――


「……こんなことをしてどうするんだ……!」


 稚武の体を指先でなぞってくる中菱姫を、力ずくで押しやる。


「あら、つれないのね。薬がまだ弱かったかしら。……ねぇ、わらわが欲しいとは思わないの? 小娘のように若くはないといっても、その分、経験は―」

「やめてくれ。俺はあなたをそんな女だと思いたくない」

「女はみんなこうよ」


 中菱姫はなおも稚武にとりすがろうとする。


「さぁ、我慢しなくていいの。お願いよ、若く美しい日嗣の皇子……わらわにあなたの子供をちょうだい」


 稚武は目を見開いた。


「それが――あなたの目的か。次の日嗣ひつぎの母になることが」


 二十年近く正妃の座にありながら、中菱姫にはいまだ一人の子もいない。


 彼女は恍惚とした目で微笑んだ。


「そうよ……。だって、当然でしょう? わらわは皇后なのよ。大王の母になるべき女なの。…あぁ、大泊瀬皇子、よくも見事に東国を鎮圧してきてくれたものだわ。もうあなたが日嗣であることは動かせない。大王はもうずっとわらわを訪れては下さらない……なら、こうするしかないじゃないの!」


 突然彼女は激昂し、理性のない形相で稚武を押し倒した。したたかに頭を打った稚武は顔をしかめる。その頬を、中菱姫が冷たい指先でそうっと撫でた。異様に耀いている目はまた夢を見ているようだった。


「ふふ……大王に似ているわ。ちゃんと似ている。そして――宮古にもよく似てる!」


 中菱姫は豹変して稚武の首をしめた。


「似てる、似てるわ。あのいやしい女に――薄汚いドロボウ猫に。たかが端女のくせに、横から大王をさらっていって……そのうえ男子まで生んでいたなんて。許せない……宮古。許せない。宮古……宮古、宮古」

「離せ!」


 稚武は懸命に彼女を引き剥がして走った。だが中菱姫はおそろしいまでの速さで懐剣を取り出し、やせ細った体で稚武に掴みかかった。

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