第7話
二人が
遠乗りが好きだった
二人は馬鹿みたいにぽかんと口を開けて、正面の殿を見上げた。いたるところに金が貼られているその殿は、ちょうど夕日を浴びて眩しいほどに輝いている。
黄金の宮殿――ずっと昔に旅の楽人から聞いたその呼称は間違いではなかったと、風羽矢は思った。彼が胸に思い描いていたものとは、まず規模からして見当違いであったが。
「どうかなさいましたか。さぁ、どうぞ、こちらへ」
彼は馬を衛兵に預けると、二人を奥の殿へ案内した。稚武たちがさらに驚かされたことに、宮と呼ばれる殿は一つではなかったのだ。まるまる一里分くらい入ってしまいそうな広い敷地に豪壮な建物が点在し、それら全てをひっくるめて大王の宮と呼ばれるものだった。
少し歩いて通された
中宮の本殿に上がり、さらにまた歩かされた。風羽矢は、ここで迷子になったらもう二度と外には出られないかもしれないと思い始めていた。それほどまでに、久慈の進む宮の廊は入り組んでいて、まるで迷路のようだった。夕闇の薄暗さがさらに追い討ちをかけているのかもしれない。
「久慈さんは、この宮の中を全部覚えているんですか」
控えめながら、好奇心を押し殺せなくなった風羽矢はとうとう話しかけた。久慈は嫌な顔をすることなく、きさくに答えてくれた。
「ええ、もちろん」
「迷ったりはしないんですか?」
「そんな事をしていたら、大王に見限られてしまいますからね」
久慈は人懐こい笑みを浮かべた。
「風羽矢殿、あなたも稚武殿のお側にお仕えしたいと言うなら、全ての殿の造りを覚えなくてはなりません。それは基本中の基本で、全ての殿の下仕えの者の顔と名を一致させることができるまでにならなくては」
「お仕え」という言葉に、風羽矢の胸に愉快でないものがよぎった。だが自分以上に稚武が怒りそうなものだと思って隣の彼をうかがうと、稚武はうつむいてぼうっと考え込んでいた。どうやら、先ほどの会話などは耳に入っていなかったらしい。
「……稚武?」
訝しんで声をかけると、稚武は「ん?」と全くいつもどおりの反応を返した。それでいて風羽矢には、彼が今までに見たこともないほど緊張しているのが分かった。
当たり前だ、と風羽矢は自分の至らなさに憤慨した。
こうしているうちにも、稚武は大王に一歩ずつ近づいているのだ。実の父であるかもしれない、この国の王と。これで落ち着いていられるはずがなかった。風羽矢がきらびやかな宮殿に浮かれている横で、稚武は恐怖に近い緊張に押しつぶされるまいと気を張っていたのだ。
風羽矢はしゅんとして押し黙った。そうしてさらに奥に進むうちに、不思議に思った。ここは大王のおわす殿であるはずなのに――なぜ、誰とも行き会わないのだろう。表には、役人らしき身なりの整った者から下女らしき娘まで、たくさんの人が忙しなく行きかっていたというのに、中宮に一歩入ると、中は寂しいまでに静まり返っているのだ。
好奇心で、というよりは、不審に思って風羽矢は再び久慈に尋ねた。
「中宮は、いつもこんなに静かなんですか? あんまり人がいないみたいですけど」
「今日は特別ですよ、人払いがしてあります。……けれど、そうですね。こちらは普段も、
「人払い……?」
久慈は頷いた。
「今、この殿にはあなたがたと、この久慈と、大巫女様、そして大王しかおられません。――
「そんな大切な場に、何の関係もない僕なんかが居合わせていいんですか」
自分が本当に不相応な場所にいるのだと気づいて、風羽矢は焦った。だが、久慈はにこやかに言った。
「ええ。あなたは、稚武殿と一緒に銀の鹿を見た。それだけで、稚武殿が血の正統を証明する瞬間を見届ける資格は充分あると思います」
「でも」
「風羽矢はいいんだよ」
不意に口を開いたのは稚武だった。彼はきつい目で久慈を見た。
「俺が何者なのか、風羽矢は見届けるべきだ。一緒に育ってきたんだから。――でも、なんであんたがここにいるんです、久慈さん。あんた、ただの使いっぱしりじゃなかったんですね。一体どういう立場の人間なんですか」
「……あなたに皇子の証が立つまでは明かせません」
久慈は本当に申し訳ないというように苦笑していた。
「ただ一つ言っておくならば、わたしは大王家の人間ではありませんが、
稚武は素直に不満を顔に出した。その胸で、稚武の顔が若い頃の大王に似ていると言ったからには、この男は大王が若い頃からその近くにいたのだ、と妙に納得していた。
久慈は、大王という人物をよく知っている。
(大王は、どんな人なんだ)
訊ねてみたかったが、意地が邪魔をした。その瞬間、足を止めて振り向いた久慈とちょうど目が合った。久慈はふっと笑みを漏らした。
「物問いたげなお顔をしていらっしゃる。ですが、その答えは、ご自身の目で見極められるべきです」
言い、彼は突き当たりの垂れ幕を開いた。そして「どうぞ」と稚武を促す。
垂れ幕をくぐった先は、広い祭殿だった。奥には段があり、薄墨色の幕がかかっている。その幕の向こうには、腰を下ろして脇息にもたれかかる人影があった。
「大王、ただいま戻りました」
入り口の幕を下ろした久慈は、恭しく頭を下げた。風羽矢は自分も叩頭すべきか迷って稚武を見やった。しかし稚武は、突っ立ったまま瞬きもせず、食い入るように幕の内の人影を見つめていた。
結局風羽矢が何もしないうちに、久慈は身を起こして告げた。
「大巫女様の占に見えた少年をお連れしました」
「――そうか、本当にいたのか…。手間をかけたな、久慈」
人影は返事をした。そしてゆらりと脇息から体を起こし、背筋を正した。
「だが、わたしには少年が二人いるように見えるのだが?」
「試煉を受けるべきは、こちらの稚武殿です。隣の風羽矢殿は、試煉の立会人です。かまいませんでしょう?」
久慈が言うと、幕の向こうでかすかに微笑んだ気配がした。
「お前が許したのなら」
声は穏やかで優しかった。年のころは分からないが、四十の
稚武は寸分も動かずに、銅像のように大王の影を見つめていた。だがその表情には、悲しみとも喜びとも、畏れとも思慕ともつかないものがにじみ始めていた。
大王は座したまま無感動に告げた。
「
稚武は打たれたように肩を揺らした。だが、その後ろの久慈が笑って言った。
「さぁて、大王。わたくしも今朝までは全く信じておりませんでしたが、今は確信しておりますよ。稚武殿は試煉を受け、そして皇の血を証明なさるでしょう」
「なに?」
「幕越しではよくご覧になれませんか。……ふふ、とにもかくにも、受けさせてみなければ始まりますまい? わたくしも早く知りたいのです。真か否か」
久慈はにこりと笑った。気心の知れた友人に向ける笑みだと、風羽矢は思った。
「……そうだな、前置きなど不要だ。――ではこれより、皇の試煉を執り行う。大巫女、来やれ」
大王が呼ぶと、部屋の横の垂れ幕をくぐり、小柄な老婆が進み出てきた。腰は折れ曲がり、厚いまぶたで目を開けているのか閉じているのかもわからない。
大巫女の異様な風体に稚武は一瞬ぎょっとしたが、視線はすぐに彼女の手の物に奪われた。大巫女は、自身よりも大きいかもしれない大刀を両手にのせて持っていた。
稚武と同じように気圧されている風羽矢の袖を、久慈が後ろに引いた。
「お下がりください」
小声で言った彼は、厳しく緊張した面持ちだった。風羽矢は大人しく従い、両手を握り締めて見守った。
たたずむしかない稚武の前に、大巫女はやってきた。そして大刀をささげる。近くで見ても、大刀は太く、軽々と人が振り回せる代物のようには見えなかった。刃には不思議な光沢があり、強張る稚武の顔が映っている。
「
大王は無機質に言った。
「はい」
稚武はハッとして答え、すぐに片手を伸ばそうとした。その瞬間、剣が揺らめく。触れようとした指先が、パリ、と火花の音を立てて痛んだ。思わず手を引き、稚武は剣を凝視した。黒い靄が渦巻くように剣を包み込み始めている。それは不吉なもののように見えた。
「どうした、泊瀬の子。……その剣が恐ろしいか」
「いえ」
上からの大王の声に、稚武は思わず即答した。覚悟を決めて、再び手を伸ばす。
(稚武…?)
じっと見つめていた風羽矢は、突然胸が騒ぎ出すのを感じていた。ざわざわと、言い知れぬ予感めいたものがうごめいている。風羽矢の目にも、剣にまとわりつく靄がうっすらと見えていた。そして、それがやがて何かの形になろうとしているのを知った。さらに、その「何か」が稚武を睨んでいるように見えた。
(稚武)
叫んだつもりが、声にならなかった。胸が締めつけられるように苦しい。耐えきれずに、風羽矢はその場に膝を折った。
「風羽矢殿?」
稚武を気にしつつ、久慈が驚いて風羽矢の肩に手を置いた。
そのうちにも、稚武の手がゆっくりと剣に近づいていく。やはり手の先がパリパリと火花に触れ、痺れるように痛んだが、我慢できないほどではなかった。
風羽矢は胸を押さえてあえぎながら、声にならない声で必死に叫んだ。
「だめだ、稚武…! 触っちゃいけない」
なぜかは分からないが、風羽矢の全身が警鐘を鳴らしていた。あの剣は不吉だ。触れてはいけない。触れては、稚武は呪われる…
「稚武…ッ」
いくら振り絞っても、声は口の中にしか響かなかった。風羽矢は厳しい目をさらにきつく細めた。その目は、見ていた。稚武に襲いかかろうとする、「それ」の正体を。
(竜? ――蛇……おろち)
黒い靄は剣から溢れて膨らみ、もはやこの部屋を覆おうとしていた。だが大王も大巫女も、そして久慈も動こうとしない。あれが見えていないのか、見えていてあえて見守っているのか、風羽矢には分からなかった。ただ、稚武には見えているだろう。そして挑もうとしている。
やがて、靄ははっきりと具現された。
(双頭の大蛇!)
二つの頭を持った蛇が、互いに体をくねらせ、きょろりとした眼をらんらんと輝かせている。片方は赤い目、もう片方の蛇は青い目をしていた。
空間は混沌の闇に包まれ、まるで違う世界に放り出されてしまったようだった。暗い夜空の中に浮いている、と風羽矢はくらくらする頭で思った。
稚武は頭のずっと上にあるその二対の目を睨みすえて、とうとう大刀に触れた。その瞬間、赤い目の大蛇が大きく口を開いて稚武に襲いかかる。
「稚武ぇッ」
風羽矢の悲鳴と同時に、剣が閃いた。雷鳴に似た轟音と閃光が弾けて世界を真白に覆った。
風羽矢は眩しさに耐えられずに目を瞑った。だがその一瞬に、違う光を見た気がした。自分の胸元に――服の下に下げてある
衝撃はどれほどの間のことだったのか、稚武にも風羽矢にも分からなかった。ただ、二人が我に返ったのはほぼ同時だった。もはやそこに
「これは…」
稚武は自分の手の内にあるものを見て、呆然として呟いた。大巫女が手にしていた大刀は忽然と消えている。代わりに、稚武は一本の
「……まこと」
興奮を押さえ込むような声は、段上の幕の向こうからだった。稚武が振り返ると、大王の影は立ち上がっていた。
「そなたはまこと、皇の血をひく子か。まさか……だが」
大王は自ら幕に手をかけ、初めて姿を見せた。稚武と風羽矢は息を呑んだ。――年のころは、まだ三十ほどだろう。長身痩躯ではあるが、顔つきは頼りないものではなかった。そして、鼻筋や目元の辺りに確かに稚武と通じるものがあった。
大王は剣を持った稚武を凝視しながら、一段一段下りてくる。
「そなたには何が見えた」
「……蛇が」
稚武は腕を下ろし、唇を震わせながらもしっかりと答えた。
「頭を二つ持った
「喰われたか」
「喰われました」
大刀に触れた瞬間、稚武は確かに大蛇に食われたと思った。真っ赤な口を開いた蛇が、体を呑み込んで突き抜けていったのだ。
大王は段を下りきったところで足を止めた。そして静かに告げた。
「……認めよう。そなたは皇の血をひく男子だ。
大王はひたむきな目で稚武を見つめた。
「稚武といったな。歳はいくつだ。生まれは。自分の母を知っているか」
稚武は何の実感もなく、訊かれたことに答えるので精一杯だった。
「歳は、十四。母は泊瀬の娘で、
「宮古」
大王は目を見開き、しばらく呆然として稚武を見ていた。
「宮古……そうか、宮古が…宮古、が」
うわごとように母の名を繰り返す大王に、稚武はこらえきれずに訊ねた。
「母を知っているんですか」
大王は答えずに訊き返す。
「宮古は今、どうしている。どこにいる」
「……亡くなりました。俺を生んで、すぐ」
大王はまた衝撃を受けたようだった。
膝をついたままの風羽矢を心配して腰をかがめていた久慈も、弾かれたように顔を上げた。
「宮古殿! そうか、亡くなった母君とは宮古殿であったか。あのかたが……御子を生まれていた。そして亡くなっておられたとは」
「稚武のお母さんを知っているんですか、久慈さんも」
風羽矢は立ち上がれないままに言った。久慈は彼の腕を引いて立たせてやり、それから難しい顔をして黙り込んだ。言葉を探しているようだった。
「……めでたきこと」
しわがれた声で言ったのは、大巫女だった。彼女はひざまずき、深く頭を垂れていた。
「あなた様は皇の血の証を立てられました。そして
稚武は耳を疑って、手にしている剣に視線を落とした。
「天の…叢雲の? まさか、この剣が?」
「さようでございます」
大巫女は顔を下げたまま言った。稚武は瞬きも忘れて剣を掲げ、傷一つない刃を見つめた。そこには自分の顔が映っていた。そして小さく、大王の姿も。
刃の鏡ごしに目が合って、稚武は大王を振り返った。大王はまぶたを震わせるようにして稚武を見つめていた。
「……あの、大王、あの……」
何を言うつもりなのか自分でも分からぬ間に、稚武は声にしていた。だがやはり、言葉が続かない。
大王は一度まぶたを伏せ、目線を下げたまま告げた。
「すまない……わたしは何の覚悟もできていなかった。まさか本当に、そなたのような子があったとは。希望など全て捨てていたというのに、皇はわたしで滅びると思っていたのに…」
大王の顔色は恐ろしく青く、誰の目にも疲れきっているように見えた。
「少し、時間をくれ。わたしに覚悟ができるまで。この夢のような現実を信じられるまで…。――久慈、頼んだ」
「はい」
久慈が即答し、剣を手にしたまま立ち尽くす稚武に駆け寄った。
「稚武さま、お召し替えをいたしましょう。
「な、待ってくれ。だって―」
肩を引く久慈を振りほどき、稚武は大王に向かって駆け出そうとした。大王はすでに、どこか頼りない足取りで部屋の横の垂れ幕に向かっていた。
「大王――」
だが、すぐまた肩を押さえられて稚武は半歩しか進めなかった。耳元で久慈が低く言った。
「落ち着いてください。慌てることはない、あのおかたを急かすようなまねはおやめください。……今は、どうか」
「だけど」
それまであっけにとられて傍観していた風羽矢は、ハッとして稚武に走りよった。
「稚武、無事かい」
「風羽矢」
見慣れた友に声をかけられて、稚武は自制心を取り戻した。それから声を落ち着けて、去りゆく大王の背中に言った。
「分かりました、待ちます。言う事を聞きます。でも、あの、この剣はどうしたら…」
天叢雲剣はいまだ稚武の手にあった。この剣がいかに重要なものであるかくらい、混乱している稚武にも分かっていた。伝説の神器の一つなのだ。
「そなたが持っているといい。……剣はそなたを喰らった。新しき宿主にそなたを選んだのだ」
大王は足を止め、顔だけで振り向いた。
「それはもはや、そなたの剣だ」
「俺の……剣?」
「草薙の剣は鞘無き剣。日嗣の皇子をさだめ、皇の血を守り…」
大王は垂れ幕をくぐっていった。
「そして、我らを呪う剣だ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます