第8話
それから俺は三日三晩、寝る間も惜しんで漫画を描き続けた。
すでに三社の出版社に持ち込んだが、どこも一目で没にされた。
しかしこれで諦めて堪るか。諦めなければ夢は叶うのだ。あの日の桜庭選手が言っていたように。幸い、漫画なら描こうと思えばいくらでも描ける。死んででも漫画家になってやる。
梶木先生宅へは行かなかった。アシスタントをしている余裕なんてなかった。
もちろん、梶木先生からは電話がかかってきた。それには出た。
『真鍋くん、もう一週間も来ていない上に、連絡の一つもないじゃないか。どうしたの?』
「俺はもうアシスタントをやめさせてもらいます」
『どうして?』
「漫画家を目指すのに、アシスタントをしている余裕はないと思ったからです」
俺がそう正直に堂々と言ったら、電話の向こうからは微かに溜息のようなものが聞こえた。
『うちのアシスタントやめたら収入はどうするんだ?』
「バイトします。それでもアシスタントの仕事よりかは時間が取れると思います」
『真鍋くんね、君、昨晩大谷くんたちと喧嘩したそうじゃないか』
「なっ、大谷たちから訊いたんですか?」
『真鍋くんさ、喧嘩したから気まずくて行きたくないとかそんな理由ではないの?』
「違いますよっ! 失礼なっ!」
『でも君、自分の漫画を馬鹿にされて怒鳴ったそうじゃないか。店や周りにいた客に謝るのに骨が折れたって大谷くん愚痴ってたよ。腹は立ったのはわかるし、酔っていたのもわかるけど、さすがに居酒屋の中で怒鳴り散らすってのは大人げないと思うよ、私は』
「それは確かに――そうかもしれないですけど――」
『意地張らずに戻っておいでよ。真鍋くんは私の漫画家歴の中で一番長く勤めてくれているアシスタントなんだ。感謝している。やめられると寂しいな』
「お、俺は、私は決心したんです。必ず漫画家になって売れてやるって、そう決めたんです」
『そういえば、真鍋くんの漫画、読ませてもらったことないな』
「そりゃ――読んでいただこうとしたことはありませんから」
『じゃあ読ませてよ。真鍋くんの漫画。どうしてもやめるっていうなら』
「わかりました。読んで納得できたらやめさせてもらえますか?」
『今までお世話になってきた身だからね。二言はないよ』
「それでは、すぐに自信のある一作を持ってご自宅に向かいます」
俺は宣言通り自信のある漫画を一つ携えて、梶木先生宅へと向かった。
あいつらは――蜂須と大谷は感性が死んでいるのだろうから、俺の漫画の良さがわからなくても致し方ないが、梶木先生なら――あの梶木先生なら、俺の漫画をわかってくれるのではないか。理解してくれるのではないか。認めてくれるのではないか。褒めてくれるのではないか。そんな期待感で胸の内がいっぱいに膨れ上がっていた。
同時に不安感もちらついていたが、それは心の奥底に無理やり押し込んだ。
梶木先生宅へ着くと、挨拶をしてきた奥さんも無視し、仕事部屋である廊下の奥の部屋へ。
いつものように作業している蜂須にも大谷にも目をくれず、梶木先生のところへ。
蜂須も大谷も俺にほぼ睨むような視線を向けていたが、今はそんなこと気にならなかった。
梶木先生がゆっくりと顔を上げて、私を見上げる。
「君の漫画は持ってきたのかね?」
「はい、持ってきました。読んでください」
俺は自宅から大切に抱えて持ってきた漫画の原稿を、梶木先生に差し出した。
梶木先生は原稿を渡され、のんびりした手つきでページを捲った。
真剣な面持ちで、漫画のコマの隅から隅までを見ているように、じっくりと読んでいた。
そして読み終わると、原稿をぱさっと閉じ、俺に返した。
俺は固唾を飲んで、梶木先生が感想を述べるのを待った。
「率直に言っていいか?」
俺は頷く。「どうぞ、率直に」
「――才能ないよ、真鍋くん」
「はい? 何て言いましたか?」
本気で聞き間違えかと思って、訊き返した。
「だから才能ないって言ったんだよ、真鍋くん、君は」
脳裏が真っ白に染まった。何もなく、雪に覆われているように真っ白な脳裏に、『才能』という単語がふわりと浮かんで、それがどんどんどんどん増えていって、『才能』という単語が真っ白の中を埋め尽くしていって、埋め尽くしていって、埋め尽くしていって――。
「才能って――何ですか?」
その震えた声は、口の中に溜まり過ぎた唾液のように、口の端から零れ出した。
「才能って、何ですかっ!」
また怒鳴っていた。怒鳴ってしまった。酒も飲んでいないのに。酔ってもいないのに。
「もっと具体的に言ってくださいよっ! 才能なんて曖昧な概念で誤魔化さないで!」
激昂する俺とは対照的に、梶木先生はずっと冷めた目で真っ赤な俺の顔を眺めている。
その呆れているような態度が、今の俺の頭に血を昇らせるのを加速させた。
「黙ってないで何とか言ってくれ! それとも何か! あんたもあいつらと同じ人種か? あそこにのうのうと座ってる蜂須と大谷と、あんなやつらと同じ腐った感性だっつーのかよ。有名漫画家が聞いて呆れる。そんなんだから二番手漫画家なんて揶揄されるんだよ!」
梶木先生がヒット作は出しても大ヒット作は出さないことから、ネット上では密かに二番手漫画家と蔑称がつけられているのは事実だった。しかし、梶木先生はそれに対して怒る様子も、ショックを受ける様子もなく、無表情で冷静な顔つきのままだった。
「それは知ってるよ。それで? その漫画がつまらないことと何が関係あるんだ?」
「つまらない」とはっきり言われて、後頭部とを強く殴られたような衝撃があった。
「俺は――俺は――」
言葉が出てこない。ただ震えるばかりの、怒りとショックだけがある。
「真鍋くんは、これからどうするの? まだ漫画家を目指すのか? 君はアシスタントとしてはとても優秀だよ。このまま僕のアシスタントを続けないか?」
梶木先生は私の右腕に触れてきた。俺はその手を振り払った。
「やめてやる、あんたのアシスタントなんて! もう二度とこんなところ来るかっ!」
俺は三つの冷たい視線を背に、梶木先生宅を飛び出した。
走った。逃げるように走った。嗚咽が喉元から漏れ聞こえていた。
悲しかった。虚しかった。何よりも腹立たしかった。怒りが治まらなかった。
八つ当たりに自販機横のゴミ箱を蹴飛ばし、それでも足りず、俺の前を横切ろうとした野良猫を蹴り飛ばして、それでも足りず、よぼよぼの老人をこけさせて、それでも足りず――。
帰宅したら、さらに自宅の中で暴れた。
本棚を倒して床に漫画を散乱させ、皿やコップを壁に叩きつけて壊し、机や椅子を蹴り飛ばして引っ繰り返させた。その拍子に、机の上に乗っかっていたリモコンが裏返しで床の上に落ち、テレビに電源が点いた。ニュース番組を放送していて、芸能人の不倫騒動を報道しているが、今の俺には酷くくだらないしどうでもいいし、それどころではない。
ペンを折り、原稿用紙を破り捨て、インクをそこら中にぶちまけた。
極めつけはガラスケースを玄関先に落として叩き割ったが、そのときに我に返った。
粉々に砕けたガラスケースから、桜庭選手のサインボールが転がり出る。
私は慌ててそのサインボールを拾い、抱き締め、その状態で身を丸くした。
そして念じた。願った。祈ったといってもいい。とにかく繰り返し同じことを想った。
夢は叶う、夢は叶う、諦めきゃ叶う、叶う、夢は諦めきゃ叶う、夢は――。
こうすれば、いつもなら段々と精神が落ち着いてくる。落ち着いてくるはずなのだ。
それなのに今回は、いくらそう念じても、まったくそんな兆しはない。
荒い呼吸も、早い脈拍も、落ち着くどころか、さらに激しくなっているような気がする。
夢は、夢は、ゆめ、ゆえ、ゆめ、ゆめは、ゆ、め、ゆ、ゆ、ゆゆゆゆゆ――。
頭の中がバグって、言葉がゲシュタルト崩壊を起こして、眩暈でぶっ倒れそうだった。
もう死ぬかもしれないと思ったときだった。テレビから、あの名前が聞こえてきたのは。
『――元スーパー巨神の選手、桜庭智孝――』
俺はその名前を聞いた瞬間に顔を上げ、そしてテレビの方へと首を回した。
果たして、俺は絶句せざるを得なかった。
テレビ画面の隅にでかでかと表示された、こんなテロップを目にしたから。
『元スーパー巨神の選手、桜庭智孝容疑者、覚せい剤所持の疑いで逮捕』
俺の腕の中から、サインボールを落ちてころころと転がった。
『本日未明、元スーパー巨神の選手、桜庭智孝容疑者が覚せい剤所持の疑いで逮捕されました。事務所のマネージャーからの告発があり、警察が桜庭容疑者の自宅を捜索したところ、覚せい剤が発見されたとのことです。桜庭容疑者は覚せい剤所持の容疑に対して、「非常に申し訳ないとしたと思って反省している」とコメントしており――』
アナウンサーの声が段々と聴覚から遠ざかっていく。同じく俺の意識も遠ざかっていく。
狭まる視界の中で、手錠をかけられ、パトカーに乗せられる、老いた桜庭選手の、不健康そうな青白い顔がテレビ画面に映っていた。あの日、私にサインボールを渡したときの、爽やかな笑顔とは似ても似つかない、見るも無残な顔だった。
俺は物の散乱する部屋の真ん中に、ついにばったりと倒れて気絶した。
意識が完全に落ち切る瞬間に、目の端にあのサインボールが見えた。
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